松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

戦後の北海道美術

2018-08-31 | 画人伝・北海道

まひる 村山陽一

文献:小熊秀雄/村山陽一/丹野利雄:夭折の画家たち 旭川篇、美術北海道100年展、北海道の美術100年、北海道美術史

戦後、北海道の美術界は、新しい公募団体の創設やさまざまな美術グループの誕生によって大きく再編成されるようになった。まず、終戦直後の昭和20年、「全道美術協会」(全道展)が創設された。創立会員は居串佳一、池谷寅一、一木万寿三、伊藤信夫、岩船修三、上野山清貢、小川マリ、小川原脩、菊地精二、木田金次郎、国松登、斉藤広胖、高橋北修、田中忠雄、田辺三重松、西村貴久子、橋本三郎、松島正幸、三雲祥之助、山内壮夫、川上澄生の21名で、札幌に疎開していた中央画壇で活躍する作家が多く、結果として全道展は中央との結びつきを強くすることになった。その後、本田明二、栃内忠男、砂田友治らを加え、全道展は北海道美術協会(道展)と北海道画壇を二分するほどの有力団体へと成長していった。

さらに、昭和31年に義江清司、菊地又男、橋本富らによって「新北海道美術会」が結成され、旭川でも「新ロマン派美術協会」や「純生美術会」が誕生した。また、大月源二らの「北海道生活派美術集団」、尾崎志郎、大本靖らの「札幌版画協会」をはじめ、「北海道版画協会」「北海道日本画協会」などが次々と誕生し、北海道画壇は大きく再編へと向かい、同時に北海道美術は新たな活気を呈するようになった。

また、戦後日本美術の流れのなかで台頭してきた抽象美術においては、戦前から中央で活躍していた自由美術の難波田龍起が、戦後になって抽象表現を展開していくかたわら、昭和36年に、赤穴宏、上野憲男、小野州一ら北海道出身の抽象画家と「北象会」を組織した。北海道内では、昭和26年に札幌の渡辺伊八郎や菊地又男が「ゼロ美術同人会」結成、また、旭川では村山陽一が「北海道アンデパンダン展」などを舞台に抽象画を発表した。

村山陽一(1926-1961)むらやま・よういち
大正15年函館生まれ。河東郡鹿追町、札幌を経て、11歳の時に旭川に転居。旭川中学を卒業後、20歳くらいの時に北海道アンデパンダン展に参加したと思われる。昭和27年絵画グループ「土芽会」を主宰。昭和28年鍵谷幸信、小林日出男らと詩論や芸術論を語り合う「タビラコ会」を結成。昭和29年造型集団展を開催、その後、個展、読売アンデパンダン展、現展などに出品。昭和36年、肺結核のため34歳で死去した。


「北海道日本画協会」を創設した本間莞彩

2018-08-30 | 画人伝・北海道

夕陽の北海 本間莞彩 北海道立近代美術館蔵 

文献:北国の抒情-本間莞彩、日本画逍遥・北海道立近代美術館コレクション選、美術北海道100年展、北海道美術あらかると、北海道美術史

北海道の近代美術にあって、華やかに展開していった洋画の陰にかくれ、北海道の日本画は久しく精彩がなかった。北海道では日本画は育たないといわれ、それが半ば定説化され、日本画の発展を阻んでいたともいえる。そのような環境のなかで、日本画の自立を叫んで「北海道日本画協会」を創設したのが本間莞彩だった。莞彩は、公募展や同人展を開催するとともに、研究所を併設して後進の指導にあたり、自身の画業としては、北海道の厳しい冬とそこに生活する人々とのごく自然な調和をテーマに描き、院展で活躍した。

新潟に生まれた本間莞彩(1894-1959)は、14歳の時に北海道余市町の本間海産物問屋の養子となるが、家業をきらい、20歳で上京、本郷の太平洋画研究所に通って中村不折に指導を受けた。26歳頃に札幌に戻り、狸小路に住んで、主に肖像画を描いて生計をたてていたという。莞彩のまわりには、描き方の教えを乞う肖像画家たちが集まっていたとも伝わっている。

本格的な作家活動として記録に残るのは、大正12年、29歳の時に洋画グループ「十二年社」の第1回展に「芳洲」の号で出品したのが最初である。この頃、南画家の谷口香巌が東京から札幌を訪れ、彼を中心に煎茶会という同好の集まりができ、そこに出入りしているうちに、莞彩は日本画にも興味を持ち、水墨画などを熱心に描くようになったという。また、この頃から空知郡出身の岩橋英遠と親しく交遊するようになる。

大正14年に創設された北海道美術協会(道展)の第1回展と第2回展には油絵を出品したが、昭和2年の第3回展からは日本画を出品、翌年は日本画部の会員になっている。この頃は、北海道の日本画壇の指導的立場にいた日本画家が道外へ転出、あるいは死去していたため、道展日本画部の創立会員は全員いなくなっており、莞彩ら若手が中心となって日本画壇独自の活動を展開するようになっていた。

道展日本画部で中心的役割を果たしていた莞彩だが、さらに日本画主体の活動を展開しようと、昭和21年に道展を離れ「北海道日本画協会」を創設した。創立時の同人は、山内弥一郎、本間莞彩、堀井象碩、川井霊祥、炭光任、小浜亀角、北山晃文、鬼川俊蔵、佐々木啓陽、高木黄史、西條正一、松村豊陽、岡生峰、森岡貞雄、大場生泉、杉田恵春、池内世観、神保朋世、岩橋英遠、赤井伸生、山下昌風の21名だった。

北海道日本画協会では、公募制の北海道日本画協会展や同人展を開催し、また付帯施設として北海道日本画研究所も設立、後進の指導にあたった。そして、協会の創設から2年後の昭和23年、莞彩は念願の日本美術院に初入選、それから連続して入選し昭和25年院友になった。画風が確立したのはこの頃からで、昭和34年に64歳で没するまでの短い間、それまで蓄えてきた力をすべて燃焼させて自らの芸術を完成させた。

同じ院展に出品し、のちに片岡球子(1905-2008)とともに日本画壇を代表する「北の巨匠」となる岩橋英遠(1903-1999)は、莞彩の遺作展に寄せた文章に「前になったり後になったりしながら、同じ道を歩いてきました。本間さんが本気で仕事に取り組まれたのは、院展に出品される様になってからではないかと思われますが、それまでの長い年月に蓄えられた力ではあったとしても、あの年齢での凄まじいまでの意欲は、周囲の人たちの目をみはらせるに充分でした」と記し、画友の死を悼んだ。

本間莞彩(1894-1959)ほんま・かんさい
明治27年新潟市生まれ。本名は浅田藤松。前号は芳洲。明治41年北海道余市町の本間海産物問屋の養子となり、以後本間姓を名乗る。大正3年上京して太平洋画会研究所で中村不折に学んだ。大正9年頃に札幌に戻り肖像画を生業としていた。大正12年洋画家グループ「十二年社」の結成に参加。大正14年第1回道展に洋画を出品、翌年第2回展にも洋画を出品するが、昭和2年の第3回展には日本画を出品した。昭和3年蒼玄社の結成に参加。昭和9年莞彩に改号。昭和21年道展を退会し、北海道日本画協会を結成。昭和23年日本美術院に初入選し、以後11回入選。昭和25年日本美術院院友になった。昭和34年、64歳で死去した。


「生れ出づる悩み」のモデルとなった木田金次郎

2018-08-29 | 画人伝・北海道

秋のモイワ 木田金次郎 北海道立近代美術館蔵

文献:生れ出づる悩み、風土を彩る6人の洋画家たち、北海道美術の青春期、北海道美術あらかると、美術北海道100年展、北海道の美術100年、北海道美術史

有島武郎の小説「生れ出づる悩み」のモデルとして知られる木田金次郎は、生涯生まれ故郷の岩内に留まり、自らの画業を極めている。小説では少年(木田)が、スケッチを携えて私(有島)を訪ねるところから始まり、数年の音信不通の後に再会、たくましい漁夫に成長した少年は、漁夫を続けるべきか、画業に専念すべきかを悩み苦しんでおり、小説はその姿を描出して終わっている。

モデルの木田金次郎(1893-1962)は北海道岩内町に生まれ、岩内尋常高等小学校に入学。この頃、父の漁場で働く漁夫が描いた日本画に心うたれ、絵画への関心を持ち始めたとされる。同校高等科を卒業後に上京、東京開成中学に入学、翌年京北中学校に転校するが、家庭の事情により同年中退して北海道に帰った。その後しばらく札幌に下宿して絵を描いて毎日を過ごしていた。

明治45年、故郷・岩内に戻っていた木田は、たまたま札幌に出ていた時、黒百合会の第3回展に出品していた有島武郎の水彩画を見て感銘を受ける。そして、偶然にもリンゴ園のなかにあった有島の家を見つけ、数日後、描きためたスケッチを持って訪れた。そのスケッチに「不思議な力が籠もっている」ことを感じた有島は、その後たびたび木田を札幌に来るように誘うが、木田が有島のもとに出向くことはなかった。

それから7年、木田はこの頃からまた絵を描きはじめている。そして、また有島に絵を見てもらおうと、スケッチ帖が入った小包と手紙を送った。木田の名前もほとんど忘れかけていた有島は、そのスケッチを見て「明らかに本当の芸術家のみが見得る、而して描き得る深刻な自然の肖像画だ」とその才能に驚嘆し、再会を熱望、その年の11月、有島が経営していた狩太農場で7年ぶりの再会を果たした。

7年ぶりに会った24歳の木田は、漁夫として完全な若者に成長しており、健康そのものの赤銅色の顔に、肩は筋肉で盛り上がり、スケッチ帖で想像される鋭敏な神経の持ち主らしいところは、微塵も感じとることはできなかった。たくましい漁夫に成長した木田は、漁夫として一生暮らすか、芸術に専念するか苦しんでおり、その姿を描いて「生れ出づる悩み」は終わっている。

小説が出版されてから5年後の大正12年、有島は軽井沢で当時「婦人公論」記者で既婚者だった波多野秋子と心中をはかり、死んでしまう。その訃報を知った木田は葬儀にかけつけるが、この頃から漁業を捨て、画業に専念する決意を固めていたと思われる。その後は、地元の美術グループの結成に参加するが1度も出品せず、全道美術協会(全道展)の創立にも名を連ねたが、こちらも1度も出品せずに脱会した。60歳の時に初の個展を開催後は各地で展覧会を行なった。69歳の時に、木田の生涯を追ったドキュメンタリーがNHKテレビで放映され、展覧会を東京、大阪、福岡、札幌で開催したが、同年脳出血のため死去した。

木田金次郎(1893-1962)きだ・きんじろう
明治26年岩内郡御鉾内町生まれ。明治33年岩内尋常高等小学校に入学。明治41年同校高等科卒業。同年上京し東京開成中学に入学するが、翌年中退して京北中学3年に編入。この頃から絵を描き始める。翌年同校を中退して帰郷。同年札幌駅前通りにあった女子尋常高等小学校で開催されていた第3回黒百合会に出品していた有島武郎の水彩画を見て感銘を受け、札幌にあった有島の家を偶然見つけ、数日後に描きためたスケッチをもって訪れる。その後たびたび有島から札幌に来るように誘われるが出向かなかった。大正6年、この頃から再び絵を描きはじめ、11月、有島が経営していた狩太農場を訪問し、7年ぶりに再会する。大正7年3月、大阪毎日新聞と東京日日新聞に有島の「生れ出づる悩み」の連載が始まり、同年9月に叢文閣から有島武郎著作集第6輯として『生れ出づる悩み』が刊行された。大正12年に有島が軽井沢で波多野秋子と心中。この頃から漁業を捨て、画業に専念する決意を固めたとされる。昭和5年町議会議員に当選して任期途中の昭和7年までつとめる。昭和20年小川原脩、間宮勇らの「後志美術協会」の結成に加わるが、1度も出品せず、同年全道美術協会(全道展)の創立にも名を連ねたが、こちらも1度も出品せずに昭和24年脱会した。昭和28年、60歳の時に「木田金次郎個人展第1回」を札幌・丸井今井百貨店で開催。その後も東京、札幌、仙台などで個展を開催。昭和29年北海道文化賞受賞。昭和32年北海道新聞文化賞受賞。昭和37年NHKテレビで木田金次郎の生涯を追ったドキュメンタリー番組が放映され、新作展を東京で開催、大阪、福岡、札幌を巡回したが、同年脳出血のため、69歳で死去した。


エコール・ド・パリの画家・小柳正

2018-08-28 | 画人伝・北海道

サーカスの家族 小柳正

文献:上山二郎とその周辺、北海道美術の青春期、北海道美術あらかると、美術北海道100年展、北海道の美術100年、北海道美術史

1920年から30年代のパリには、伝統を学び、新しい思潮を吸収するため、世界各国から芸術家たちが集まっていた。そんなパリで生活し創作を続ける芸術家たちのことを総称して「エコール・ド・パリ」と呼んだ。北海道からも工藤三郎、小柳正、山田正らがこの時期にパリを目指している。なかでも小柳正は15年以上もパリで制作を続け、エコール・ド・パリの代表的な画家・藤田嗣治とも親しく交遊した。

小柳正(1897-1948)については、作品が数点といくつかのモノクロ作品図版しか残っておらず、パリでの制作の全貌はうかがいしれないが、ハリウッドのトップスター早川雪洲ばりの風貌で、友人である藤田の2度目の妻フェルナンド・バレエとも浮名を流したといわれる、根っからのボヘミアンで、当時パリにいた日本人画家の間でも、その存在はかなり際立ったものと伝えられている。

昭和12年に帰国した際には、郷里札幌で地元画家たちと座談会を行ない、その内容は新聞紙上に4回にわたって連載されている。地元画家たちは小柳に、絵画と民族、パリ画壇の内情などさまざまな質問をし、小柳はそれに自信に満ちた語り口で明快かつユニークな答えをし、北海道の画家たちに大きな影響を与えたという。

その後、東京に定住したらしいが、一説には再渡欧したともいわれている。また、アメリカに渡り1年あまりで帰って来たとも伝わっている。ただ、明らかなのは、昭和17年に名前を改めて日本橋高島屋で「小柳倍伸第1回作品展覧会」を開催していることと、その6年後に東京で死亡していることである。

小柳正(1897-1948)こやなぎ・ただし
明治30年札幌生まれ。北海中学を中退後、上京して岡田三郎助に学んだ。大正3年日本美術院洋画部の第1回展に入選、翌年も同展に入選している。大正9年に札幌の今井呉服店で個展を開催、その年にフランスに渡り、サロン・ドートンヌ会員、サロン・ド・チュイレリー会員として活動した。昭和17年に日本橋高島屋で展覧会を開催、その際の展覧会目録によれば、フランスの国立美術館、アーブル美術館、モスコー国立美術館に作品を買い上げられ、ドイツ、フランスで壁画を制作したとされている。昭和23年、51歳で死去した。

山田正(1899-1945)やまだ・ただし
明治32年札幌生まれ。札幌一中で林竹治郎に学び、北大農業実科に進学して黒百合会で絵画に親しんだ。昭和2年春陽会に入選し本格的に画家を目指して上京、3年後に渡仏して約3年間滞在、サロン・ドートンヌなどに出品した。帰国後は国画会に出品した。昭和22年、46歳で死去した。



和製ゴーギャンと呼ばれた上野山清貢

2018-08-27 | 画人伝・北海道

黒き帽子の自画像 上野山清貢

文献:道産子のロマン 上野山清貢展、上野山清貢画集、北海道美術の青春期、北海道美術あらかると、美術北海道100年展、北海道の美術100年、北海道美術史

上野山清貢は、比較的早い時期に上京して北海道を離れたが、その後も絶えず東京と北海道を往来し、長く中央画壇で活躍するとともに、北海道美術の発展にも中心的役割を果たした。ゴーギャンに憧れ、その芸術の真髄に触れるべく南洋の島を訪れて描いた作品が帝展で特選となったことから、その豪放な筆致も相まって「和製ゴーギャン」と呼ばれるようになった。

江別市に生まれた上野山清貢(1889-1960)は、明治44年に上京して太平洋画会研究所に通い、黒田清輝と岡田三郎助の指導をうけた。北海道にもたびたび戻っており、旭川で美術グループ「ヌタックカムシュッペ画会」が結成され、商工会議所で第1回展が開催された際には、旭川を訪れていた上野山も招待出品し、豪快な作品を披露、まだ油絵を知らなかった旭川の美術家たちを驚かせた。

ただならぬ才気を放ちながらも、なかなか画壇デビューが叶わなかった上野山だが、大正13年、35歳の時に念願だった帝展初入選を果たした。入選作は、九州、硫黄島に2ケ月滞在して描いたものだった。当時の上野山は、南洋の島で芸術を開花させたゴーギャンに憧れており、大正14年にはゴーギャン芸術の真髄に触れるべくサイパン島に取材旅行し、それを題材に描いた「パラダイス」が第7回帝展で特選となった。さらに翌年の第8回展、次の第9回展と3回連続で特選を得ることとなり、華々しい官展デビューとなった。

一挙に開花した上野山の画業は、その後も順調で、次々と話題作を発表していった。このころの上野山は牧野虎雄たちの槐樹社にも発表しており、昭和8年には牧野らと旺玄社を結成した。文展委員もつとめたが、間もなく戦争がはじまり、海軍に従事。昭和19年に戦災を避けて東京から札幌に疎開。戦後は日展に出品し、全道美術協会や一線美術会の創立にも加わった。やがて健康を害して静養することになるが、制作意欲は旺盛で、病室がまるで画室のようだったという。昭和34年に札幌で個展し、その翌年東京で死去した。

上野山清貢(1889-1960)うえのやま・きよつぐ
明治22年江別生まれ。警察官だった父の転勤により道内各地を転々とした。明治38年北海道庁立上川中学校に入学するが、明治40年同校を中退。同年中川郡美深尋常高等小学校に代用教員として赴任した。この頃にキリスト教の洗礼を受けたと思われる。明治42年北海道師範学校図画専科で正教員の資格を取得し、札幌区豊平村平岸尋常高等小学校の代用教員になった。同年、長谷川昇、工藤三郎、北海タイムス美術記者・小林克己らと「エルム画会」を結成。明治44年画家を志して上京、太平洋画会研究所に学び、黒田清輝、岡田三郎助にも師事した。東京、北海道で作品発表を続け、大正13年帝展に初入選し、大正15年からは帝展で3年連続特選となった。その後も帝展、槐樹社展などに出品、昭和8年には牧野虎雄らと旺玄社を結成。昭和11年文展委員となるが、間もなく戦争がはじまり、海軍に従事した。昭和19年、戦災を避けて東京から札幌に疎開。戦後は日展に出品した。昭和21年全道美術協会の創立会員、昭和26年一線美術会創立委員のち代表委員になった。昭和35年、70歳で死去した。


貧乏画家の街を「池袋モンパルナス」と名付けた詩人・小熊秀雄

2018-08-24 | 画人伝・北海道

夕陽の立教大学 小熊秀雄

文献:北の夭折画家たち、小熊秀雄と画家たちの青春、小熊秀雄と池袋モンパルナス

大正末期から昭和にかけて、それまで低湿地帯だった池袋は急速に発展し、新興都市へと大きく姿を変えていった。街にはミルクホールやバーが次々と生まれ、酔客で賑わう繁華街が生まれた。そうしたなか、まだ地価の安かった池袋近辺には、画学生を対象としたアトリエ付きの安借家が出現し、それが数を増し、やがてアトリエ村と呼ばれるいくつかの集落が形成されていった。

そこには、若い芸術家や詩人たちが集まり、独特の文化圏が生み出されていた。芸術家たちは、夜になるとミルクホールの女給たちを目当てに、池袋の中心街へと繰り出し、芸術論をたたかわせながら、恋に若い魂を燃やした。北海道から上京してこの街の住人となっていた詩人の小熊秀雄もその一人だった。小熊は、この街をパリのモンパルナスになぞらえ「池袋モンパルナス」と命名し、そこに住む若者たちの様子を「池袋風景」(下記)と題する詩に表現した。

池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街にでてくる
彼女のために
神経をつかへ
あまり、太くもなく
細くもない
在り合せの神経を――

小樽に生まれた小熊秀雄(1901-1940)は、父の内縁の妻の私生児として入籍され、複雑な家庭環境のもと、高等小学校以上は進学せず、子どものころから、いか釣り漁師の手伝い、養鶏場番人、昆布拾い、製紙パルプ工場職工などの雑役をし、ほとんど独立した生活をしていた。21歳の時に姉の世話で旭川新聞社に見習記者として入社、文芸欄で童話や詩を発表するほか、さまざまな芸術活動に参加した。大正13年の旭川美術協会展に出品した「土と草とに憂鬱を感じたり」は、鮭の尾や新聞を貼り付けた前衛的な作品で、周囲を驚かせたという。

昭和3年、27歳の時に旭川新聞社を退社して上京、東京各地を転々としたのち、昭和4年から豊島区長崎町周辺に住みつき、プロレタリア詩人として活動するが、喘息発作に苦しみ、生活は困窮を極めていた。同地には同じような貧しい画家たちが多く住んでおり、小熊は、寺田政明ら多くの芸術家たちと交流した。美術批評も手掛け、三岸好太郎が没した際には、翌年の独立展の遺作陳列に評論を寄せ、「私は彼の絵は好きでない。才能が好きである」と、小熊らしい表現で2歳年下の故郷の新進画家の死を惜しんだ。

昭和9年ころからは再び絵筆をとるようになり、油彩や水彩画を描き、自身を含めた周辺の人物らを日記のように描いた素描なども制作した。戦争に向かい、規制により詩が自由に表現できなくなってきたことから、絵画は生活の糧となっていたと思われる。しかし、妻子を抱えた生活は相変わらず窮乏を極め、さらに結核も進行し、昭和15年の初冬、豊島区のアパートで死去した。

小熊秀雄(1901-1940)おぐま・ひでお
明治34年小樽生まれ。3歳の時に母を亡くし、稚内、のちに樺太に移住し主に肉体労働に従事した。大正11年、21歳の時に姉の世話で旭川新聞社の見習記者となり、以後文芸欄を担当し、童話、詩を発表、また前衛的な美術作品も手掛けた。2度の上京後、昭和3年に3度目の上京をし翌年から豊島区長崎町に住み、以後長崎町内を転々とした。プロレタリア詩人会に入り精力的に詩を発表するが、生活は困窮した。昭和9年ころから寺田政明ら画家の友人に刺激を受けて、油彩、デッサンを多く描いた。昭和10年に最初の詩集『小熊秀雄詩集』を発行、続いて長編叙事詩集『飛ぶ橇』を発行した。結核に冒されながらも、詩作、美術批評、絵画制作をしていたが、昭和15年、39歳で死去した。


「何か醗酵している美しさ」と評された山本菊造

2018-08-23 | 画人伝・北海道

敏子の像B 山本菊造

文献:北の夭折画家たち、北海道美術あらかると、1930年代の青春、北海道美術史

昭和8年に三岸好太郎を中心に結成され、同年第1回展が開催された「北海道独立美術作家協会」だが、同会結成時にはすでに没していた二人の画家の作品も展示された。三岸をして「彼によって北海道にフォーヴィスムの運動が移植され始めたと言っても過言ではない」と言わしめた札幌の山本菊造と、独立展連続入選を経て「彩人社」を結成、函館画壇を挑発するような前衛的な主張を繰り返していた函館の桐田頼三である。

札幌生まれの山本菊造(1900-1932)は、さまざまな美術グループに属し、初期の画風は穏健な写実だったが、1920年代には激しいフォーヴ傾向の作品を描くようになり、北海道画壇で先進的な美術活動を行なっていた。北海道の独立展出品者の多くが上京画家だったのに対し、山本は札幌に住み、春陽会展、二科展、1930年協会展などの中央画壇に出品していた。昭和7年、第2回独立展に初入選した作品が「何か醗酵している美しさ」との評を得て注目され、将来を期待されたが、同年、32歳で病没した。絶筆のひとつとなった「敏子の像B」(掲載作品)は、美人で評判だった画家の阿部敏子をモデルにしたもので、第3回独立展に遺作として展示された。

第1回独立展にフォーヴ調の作品で入選を果たした桐田頼三(1910-1933)は、翌年の独立展連続入選を経て、函館に美術グループ「彩人社」を結成した。積極的に新しい傾向の絵画を研究し、展覧会を開催するとともに、従来の函館画壇を挑発するような前衛的な主張を新聞などで展開し、議論を巻き起こしていた。函館の美術家を結集させた「函館美術協会」の再興に尽力していたが、23歳で病没。同会の再興は桐田の死の6ケ月後に実現した。

山本菊造(1900-1932)やまもと・きくぞう
明治33年札幌生まれ。本名は菊太郎。家業は雑貨商だった。10歳ころから絵筆に親しみ始め、北海中学では美術部・どんぐり会に所属。エルム画会、十二年社、黒土社などさまざまな美術グループの同人となり、大正14年の北海道美術協会(道展)創立に参加、道展発展期の中心メンバーとして活躍した。小樽の太地社の同人でもあり、第2回展から最終回の第6回展まで出品した。昭和3年第6回春陽会展に初入選、ほかに二科展、1930年協会展にも出品した。昭和7年第2回独立展に「室内」「裁縫婦」が入選して注目を集めるが、その年の5月に腎臓の病のため、32歳で死去した。

桐田頼三(1910-1933)きりた・らいぞう
明治43年函館生まれ。函館中学を4年で中退して上京。日本画を学ぶ一方、前田寛治に私淑し、3年間東京で絵の勉強をした。昭和5年第一美術協会展に初入選。昭和6年に第1回独立展に初入選、翌年の第2回展も入選した。函館で彩人社を結成し、前衛的美術運動を意識した活動を行なった。昭和8年、23歳で死去した。


三岸好太郎とともに上京し、25歳で没した俣野第四郎

2018-08-22 | 画人伝・北海道

良子之像 俣野第四郎 北海道立近代美術館蔵

文献:北の夭折の画家たち、青春の軌跡-三岸好太郎と俣野第四郎、それぞれの青春-俣野第四郎・三岸好太郎・久保守、北海道の美術100年、美術北海道100年展、北海道美術史

三岸好太郎の無二の親友だったのが、札幌第一中学出身で三岸より1歳年上の俣野第四郎である。二人は一緒に上京し、貧しい共同生活のなか、励まし合い、刺激し合いながらともに画家を目指した。しかし、中学時代から結核を患っていた俣野は、療養先の沼津で25歳の短い生涯を閉じてしまう。悲しみにくれる三岸は「片腕失った気がする」と嘆き、札幌と東京で俣野の遺作展を開催し、友の死を悼んだ。

函館に生まれた俣野第四郎(1902-1927)は、明治40年に一家で札幌に転居した。大正3年に札幌第一中学に入学、翌年入学してきた三岸好太郎と同校の美術クラブ霞会で知り合い、以後無二の親友となる。生来病弱な体質で、中学時代に結核を発病し休学している。大正10年、三岸とともに上京してしばらく窮乏の共同生活を送った。時にはひとつの絵具箱を交代で使いながら、絵の勉強に励み、春陽会、中央美術展などに入選。大正12年には三岸、小林喜一郎と札幌で三人展を開き、大正14年の道展第1回展には、特別会員として出品している。

大正13年、大連、ハルピンを旅行したが、強行な日程が災いしたのか体調を悪化させ、翌年春に療養のため静岡県の沼津に移ることになった。沼津では散策をしながらスケッチをしたり、気が向けばそれを油彩にした。穏やかな環境のなかで制作をしていたが、中央で活躍する三岸や友人たちに対する焦燥感があったのか、昭和2年3月に沼津ではじめての個展を開催する。しかし、その準備による疲労や雨にうたれたことから肺炎にかかり、同年4月25歳で没した。

俣野第四郎(1902-1927)またの・だいしろう
明治35年函館生まれ。明治40年函館大火を契機に一家で札幌に移り住んだ。大正3年北海道庁立札幌第一中学校に入学、学内の美術クラブ霞会に所属し、林竹治郎の指導を受けた。同会で一学年下の三岸好太郎と知り合い、以後無二の親友となる。大正6年肺結核を患い一時休学。大正9年同中学を卒業し、受験のため上京するが失敗。このころ岸田劉生の展覧会を見て傾倒するようになる。いったん札幌に戻るが、大正10年に三岸とともに再上京して受験し、東京美術学校建築科に入学。大正11年中央美術展に初入選。大正12年体調不良のため東京を離れ、千葉の房総や鎌倉で1ケ月ほど過ごした。大正13年春陽展に初入選するが、同年10月体調がさらに悪化、翌年美術学校を休学し、療養のため母とともに沼津に転居した。大正15年春陽会展、聖徳太子奉讃美術展覧会に出品。同年には妹の良子も療養のため沼津に来ている。昭和2年3月沼津で個展を開催。個展準備の疲労と雨に濡れたため肺炎にかかり、同年4月、25歳で死去した。

北海道(28)-ネット検索で出てこない画家

北海道独立美術作家協会の画家たち

2018-08-21 | 画人伝・北海道

氷上漁業 居串佳一 第6回独立展

文献:1930年代の青春、オホーツク・魂の還流 居串佳一展、林竹治郎とその教え子たち、北海道の美術100年、美術北海道100年展、北海道美術の青春期、風土を彩る6人の洋画家たち、北海道美術史

昭和8年の第3回独立展開催後、三岸好太郎を指導者的立場として、北海道出身および在住者による「北海道独立美術作家協会」が結成され、7月には札幌三越で展覧会が開催された。彼らは、フォーヴィスム、キュビスム、シュルレアリスム、抽象といったさまざまな美術の新思潮に刺激を受けながら、自らの絵画を模索していた。

会員は、菊地精二、小山昇、国松登、武智肇、植木茂、居串佳一、岡部文之助、渋谷政雄、濱谷次郎、渡辺大次郎の10名で、独立展に出品しながらも、この時すでに没していた山本菊造、桐田頼三の遺作も展示された。また、三岸好太郎を含む独立美術協会会員15名の作品も賛助出品されている。

翌年には、北川良一、小川マリ、服部木繭を加えて札幌で第2回展を開催したが、この年の7月、三岸が旅先の名古屋で急逝。精神的支柱を失った同会は、翌年札幌で第3回展を開催するとともに東京展も行なったが、活動はこれを最後に終息していく。独立展草創期の活気のなかに生まれ、わずか数年で活動を終えることとなったが、会員たちはその後も各々の活躍の場を探し、それぞれの立場で北海道美術を盛り上げていった。

居串佳一(1911-1955)いぐし・かいち
明治44年常呂郡野付牛村(現北見市)生まれ。旧姓は水野。網走中学在学中の昭和5年、第6回道展に初入選。昭和7年の第2回独立展では「風景」「船着場」が初入選して注目された。同年道展でフローレンス賞を受賞。昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。昭和10年に上京し、翌年第6回独立展で「氷上漁業」が海南賞を受賞し、昭和16年独立展会員になった。戦時中は菊地精二とともに従軍画家として中国に赴いた。戦後は全道展の創立に参加。初期には北海道の風土、主にオホーツクの風景を描き、戦後、人物、特に晩年はユーカラをテーマとした女性像を描くようになった。昭和30年、札幌滞在中に風邪から急性肺炎となり、脳膜炎を併発して、44歳で急逝した。

渋谷政雄(1900-1981)しぶや・まさお
明治33年札幌生まれ。三岸好太郎とは幼なじみ。北海中学でどんぐり会に所属。北大農学部に進み、卒業後は樺太の製紙会社に勤務。小樽に移ってからは、小樽木材乾燥会社につとめながら制作を続けた。昭和7年第2回独立展に初入選、昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。昭和11年山崎省三や中村善策ら小樽ゆかりの作家と北方美術協会を結成した。昭和6年の第7回展から道展に出品し、昭和14年会員となった。昭和56年、81歳で死去した。

国松登(1907-1994)くにまつ・のぼる
明治40年函館に生まれ、小樽に移住した。昭和2年上京して赤城泰舒に水彩画を学んだ。小樽の裸童社で学び、太地社に出品。昭和5年に上京し本郷洋画研究所に学んだ。昭和7年第8回道展に入選。翌年上京し第3回独立展に初入選、翌年北海道独立美術作家協会の創立に参加した。昭和10年帝国美術学校に入学、昭和12年第7回独立展に落選、その年、東京と北海道を行き来する生活から北海道に戻り、翌年から国画会に出品した。戦後は、全道展の創立に参加するなど、北海道画壇の指導者的役割を担った。平成6年、86歳で死去した。

菊地精二(1908-1973)きくち・せいじ
明治41年札幌生まれ。北海中学でどんぐり会に所属、在学中に第1回道展に入選した。昭和2年中学卒業後に画家を志して上京、佐伯祐三に傾倒し、1930年協会展、中央美術展に出品した。昭和4年第16回二科展に初入選、昭和6年第1回独立展に初入選し、昭和8年には同展でD受を受賞した。北海道独立美術作家協会結成の際には中心になって活動し、事前に札幌で個展を開催した。昭和10年第5回独立展で独立賞を受賞、昭和15年独立展会員となった。戦後は全道展創立に参加し、昭和30年から長く多摩美術大学で教授をつとめた。昭和48年、65歳で死去した。

岡部文之助(1909-1956)おかべ・ふみのすけ
明治42年札幌生まれ。昭和3年札幌第一中学を卒業し、東京美術学校図画師範科に入学。昭和5年第17回二科展に初入選。昭和6年東京美術学校卒業し、同年第7回道展でフローレンス賞を受賞した。在学中から林武に師事し、昭和7年第2回独立展に初入選。昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。同年道展会員となった。昭和15年第10回独立展で協会賞を受賞、昭和23年独立展会員となった。昭和24年全道展会員。昭和31年、47歳で死去した。

小山昇(1910-1944)こやま・のぼる
明治43年札幌生まれ。昭和2年札幌第一中学を卒業。同校では三岸好太郎の後輩にあたり、多くの影響を受けた。昭和5年東京高等工芸学校を卒業、同年1930年協会展に入選、昭和6年第1回独立展に入選、同年第7回道展でフローレンス賞を受賞し、翌年道展会員になった。昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。三岸と行動をともにすることが多く、三岸の死後は独立展を離れ、自由美術家協会の創立会員になった。昭和19年、中国において、34歳で戦病死した。

濱谷次郎(1912-1982)はまや・じろう
大正元年函館生まれ。函館中学卒業後、帝国美術学校に入学。昭和5年桐田頼三らと彩人社を結成し、東京から作品を出品。昭和8年第3回独立展に初入選。同年北海道独立美術作家協会の創立に参加した。帝国美術学校のグループ展「JAN」に参加し、第1回展にはシュルレアリスムの影響を感じさせる作品を出品。昭和12年帝国美術学校を卒業し、主婦の友社のカメラマンとして勤務しながら昭和14年から美術文化協会に出品した。昭和57年、70歳で死去した。

植木茂(1913-1984)うえき・しげる
大正2年札幌生まれ。昭和5年札幌第一中学を卒業し、仙台二高を受験するため上京したが、そのまま東京で画家を目指した。独立美術研究所で里見勝蔵、林武らの指導を受けた。このころから札幌第一中学で同窓だった小山昇、武智肇とともに三岸好太郎に師事。昭和7年第2回独立展に19歳で最年少入選を果たした。昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。三岸の死後は新たな道を模索して彫刻に転じ、昭和12年自由美術展に抽象彫刻を出品して奨励賞を受賞。昭和25年にモダンアート協会の創立会員となったが、昭和29年に退会。1950年代から60年代にかけて海外展に多数出品した。日本の抽象彫刻のパイオニアのひとり。昭和59年、71歳で死去した。

武智肇(1913-不明)たけち・はじめ
大正2年生まれ。札幌第一中学で同窓だった小山昇、植木茂と交友し、先輩の三岸好太郎に師事した。昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。三岸の死後、小山や植木とともに独立展から離れ、出品をやめた。従軍して、沖縄へ行く途中で戦死した。

渡辺大次郎(大正初期-不明)わたなべ・だいじろう
札幌商業学校出身。隣接する北海中学の生徒と組織した「とっつあん会」で多くの画友を得る。1930年協会展、独立展に出品。昭和8年北海道独立美術作家協会の創立に参加。北海道内では、道展、太地社展、楚人社展に出品した。

小川マリ(1901-2006)おがわ・まり
明治34年札幌生まれ。庁立札幌高女から東京女子専門学校に進み、卒業後、1930年協会研究所で小島善太郎、中山巍に学んだ。1930年協会展、独立展に出品、北海道独立美術作家協会の第2回展に出品。昭和20年、疎開中の画家仲間が列席し、上野山清貢の仲人で三雲祥之助と結婚した。戦後は春陽会員として活動した。平成18年、104歳で死去した。


31歳で急逝するまで画風を次々と変貌させていった三岸好太郎

2018-08-20 | 画人伝・北海道

立てる道化 三岸好太郎 

文献:生誕110年三岸好太郎展、風土を彩る6人の洋画家たち、北の夭折画家たち、北海道美術の青春期、林竹治郎とその教え子たち、北海道の美術100年、美術北海道100年展、1930年代の青春、北海道美術史

昭和5年、新時代の美術を目指す気鋭の画家たちが、既成画壇からの独立を標榜して、新団体「独立美術協会」を結成した。この美術界の注目を集めた新団体に、27歳の最年少会員として参加したのが、北海道の若い画家たちに大きな影響を与えた三岸好太郎である。三岸は、31歳で急逝することになるが、その間、次々と画風を変貌させながら独自の絵画を追究するとともに、北海道独立美術作家協会結成に指導者的立場で参画するなど、同じ傾向にすすむ同郷の後輩の画家たちの支援も積極的に行ない、短く終わった生涯を濃密に駆け抜けていった。

札幌に生まれた三岸好太郎(1903-1934)は、札幌第一中学校を卒業後、17歳の時に画家を志して、友人の俣野第四郎とともに上京、さまざまな職につきながら独学で絵を学んだ。大正12年、およそ50倍の厳選を通過して第1回春陽会展に初入選、翌年の第2回展では春陽会賞を首席で受賞し、一躍画壇の寵児として注目を集めることとなった。この年に、女子美術学校を卒業した吉田節子(洋画家・三岸節子)と結婚、画家生活は順調に始まったかに見えたが、すぐに陰りを見せ始める。翌年の第3回展に出品した作品が酷評を受け、一方で同展に初入選した節子夫人の作品は好評を得た。三岸は、この年、胃潰瘍による最初の吐血に見舞われている。さらに第5回、6回、7回展と酷評が続き、三岸はこのころ自筆年譜に「スランプに墜る」と記している。

スランプを脱し、新境地へと向かう契機となったのは、大正15年に友人と出かけた生涯唯一の海外旅行となる中国への旅だった。中国各地を巡り、上海でサーカスを見たことが、のちの「道化シリーズ」の誕生につながった。昭和3年ころからは集中して道化やマリオネットを描くようになり、第7回春陽展に出品した「少年道化」が久々に好評を得て、その後も道化は主要なテーマになった。昭和5年に結成された独立美術協会も、創立会員のほとんどが渡欧経験のある二科会の画家だったのに対し、27歳の三岸が春陽会で唯一創立メンバーに推されたのも、この「道化シリーズ」の清新な魅力が決め手だったとされる。その後、三岸は、独立展を舞台に大作や意欲作を次々と発表していく。

上京以来ずっと東京を拠点としていた三岸だが、故郷・札幌をこよなく愛し続け、札幌に帰ると「水を得た魚のようだった」という。札幌での制作発表にも力を入れており、特に昭和7年は夏から秋にかけて長期滞在し、豊平館での個展の開催、ロサンゼルス・オリンピックの金メダリスト・南部忠平を描いた作品の制作と寄贈、工芸品の制作と工芸振興のための展覧会開催準備、講演会やラジオ講座の講師、洪水被災地の視察、新聞などへの執筆など、目覚しく活動した。画風の大きな転換が、いずれも札幌に長期滞在した直後であったことから、故郷は三岸にとって鋭気を養う場であったと思われる。

この年の札幌長期滞在のころから、三岸が前衛絵画を意識し始めていることがその行動からうかがえる。昭和8年には多くの画論を発表し、次々と絵画上の新しい実験に乗り出すようになった。また、同年開催された「巴里・東京新興美術展」のフランス絵画の先鋭的動向にも刺激され、三岸の画風は大きく前衛へと傾いていった。独立第3回、第5回展には、ひっかき技法で描いた「オーケストラ」を出品、その後も幾何学的な構成、コラージュの試作など、独自の絵画を求めて変貌を重ね、あまりに先鋭的な作風展開に、画壇では賛否両論が巻き起こったという。

昭和8年から9年にかけては、海と空のみからなる作品を集中的に描き、さらに蝶と貝殻を題材に描くようになる。自作の詩「蝶と貝殻(視覚詩)」と一体化した幻想的な画面を創り出し、独立展出品作に続いて素描画集『筆彩素描集 蝶と貝殻』も手掛けている。その後もさらなる変貌への意欲を表すとともに、建築にも興味を示し、新しいアトリエの設計をドイツのバウハウス留学から帰国した山脇巌に依頼し、自らも多くのアイデアを出していたが、そのアトリエの完成を見ることなく、旅先の名古屋で31歳で急逝した。

三岸好太郎(1903-1934)みぎし・こうたろう
明治36年札幌生まれ。札幌第一中学で林竹治郎に学んだ。同校卒業後、俣野第四郎と上京し、独学で絵画を学んだ。大正11年第3回中央美術展入選。大正12年第1回春陽展初入選、翌年同展で春陽会賞を受賞。同年、横堀角次郎、倉田三郎ら春陽会の若手出品者6名で麗人社を結成。大正14年春陽会無鑑査、同年上海、蘇州、杭州などを旅行。昭和5年独立美術協会の創立に参加した。昭和8年には独立展関連の活動で各地を訪れ、札幌では北海道からの独立展出品者のグループ「北海道独立美術作家協会」結成に指導者的立場で参画した。昭和9年、31歳で死去した。


北海道からいち早く中央画壇に登場した日本画家・筆谷等観

2018-08-17 | 画人伝・北海道

春寒賜浴 筆谷等観

文献:北海道立近代美術館コレクション選 日本画逍遙、北海道立近代美術館所蔵品による近代日本画名品展、美術北海道100年展、北海道の美100年、北海道美術の青春期、北海道美術史

北海道美術協会(道展)の創立によって北海道美術が本格的に始動するようになったが、その一方で、北海道生まれ第一世代の美術家たちの中央画壇進出も目立ってきた。日本画家としては、院展の筆谷等観、帝展の北上聖牛、山口蓬春、久本春雄、森田沙伊らがいた。かれらの多くは中央で活動しながらも、一方で北海道画壇となんらかの関係を持ち続け、北海道内の若手美術家に刺激を与え、その後の中央進出をうながす大きな力となった。

小樽出身の筆谷等観(1875-1950)は、北海道からいち早く中央画壇に登場した日本画家で、本郷の共立美術学館で横山大観らの指導を受けたのち、東京美術学校に入学、在学中から橋本雅邦の画塾・二葉会や美術研精会に所属して画法を学んだ。再興院展には第1回展から出品し、第3回展出品の「貧者の一燈」で注目を集め、同人となった。初期には雅邦仕込みの狩野派を基礎とした表現で道釈画や風景画を描いていたが、大正期になると大観の影響を色濃く受けた大胆な彩色法や構図を試みるようになり、大智勝観、綱島静観とともに「横山大観の三羽烏」と称された。

掲載の「春寒賜浴」は、大正13年の第11回再興院展に出品されたもので、題材を白居易の長編物語詩「長恨歌」にとり、華清宮の温泉に浴する楊貴妃を描いている。湯気が立ち上る浴室を表現した朦朧とした彩色法に、大観の影響がみえる。

函館生まれの北上聖牛(1891-1970)は、京都に出て竹内栖鳳の画塾に学び、文展、帝展に出品した。北海道出身としては、数少ない京都画壇の作家のひとりである。山口蓬春(1893-1971)は松前の生まれで、幼いころに東京に転居した。はじめ東京美術学校西洋画科に学んだが、のちに日本画に転向、大和絵などの伝統的技法を学ながらも、西洋画的写実を取り入れた独自の画風を確立、昭和40年に北海道出身の日本画家としてはじめて文化勲章を受章した。釧路生まれの久本春雄(1896-1968)も、はじめは西洋画科で学んだが、山口蓬春の勧めで日本画に転向、戦後は釧路に帰り、後進の指導に力を注ぎながら制作活動を続けた。札幌生まれの森田沙伊(1898-1993)は東京美術学校日本画科を卒業後、同級だった山口蓬春の勧めで帝展に出品、戦後は日展を舞台に活動を続けた。

筆谷等観(1875-1950)ふでや・とうかん
明治8年小樽生まれ。本名は義三郎。明治25年に上京して東京美術学校に入学、日本画を学んだ。在学中から師の橋本雅邦の主宰する二葉会に所属、同校卒業後、大正3年院展に入選、以後院展を中心に活動した。大正14年の第1回道展にも特別会員として参加、昭和6年北海道美術家連盟の創立にも加わった。戦後は日展に出品し、日展委員となった。昭和25年、76歳で死去した。

北上聖牛(1891-1970)きたがみ・せいぎゅう
明治24年函館生まれ。16歳で京都に出て、はじめ着物の染色や上絵付けをしたのち、叔父で日本画家の北上峻山に絵の手ほどきを受け、22歳の時に竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入り本格的に日本画を学んだ。大正5年第10回文展に初入選し、以後は文展、帝展を主な活動の場とした。大正14年の第1回道展にも特別会員として出品した。昭和45年、79歳で死去した。

山口蓬春(1893-1971)やまぐち・ほうしゅん
明治26年北海道松前町生まれ。7歳の時に銀行員だった父の転勤に伴い東京に転居した。大正3年に東京美術学校西洋画科に入学。在学中から二科展に入選したが、大正7年日本画科に転じ、首席で卒業した。卒業後は松岡映丘に師事し、大和絵などの伝統的技法を学び、映丘の新興大和絵運動にも参加した。また、福田平八郎、木村荘八らと六潮会を結成し、写実を深めつつ独自の画風を確立した。昭和25年日本芸術院会員となり、昭和40年文化勲章を受章した。昭和46年、77歳で死去した。

久本春雄(1896-1968)ひさもと・はるお
明治29年釧路生まれ。東京の中学校に進学し、卒業後に東京美術学校西洋画科に入学したが、家庭の事情などにより1年で退学し郷里に帰った。大正6年、23歳の時に同校に再入学、山口蓬春の勧めにより日本画を専攻した。同校を首席で卒業後、さらに研究科に進んで結城素明に師事した。大正13年第6回帝展に初入選、以後も帝展、文展に出品した。戦後は釧路に帰り、後進の指導とともに制作を続けた。昭和43年、72歳で死去した。

森田沙伊(1898-1993)もりた・さい
明治31年札幌生まれ。6歳の時に一家で東京に転居、以後、三重、奈良、名古屋で少年期を過ごし、大正6年、19歳の時に父とともに東京に戻った。大正7年に東京美術学校に入学、川合玉堂、結城素明に日本画を学んだ。大正10年に日本美術院の小林古径をたずね、精神面で強い感化を受けたという。大正12年東京美術学校日本画科を卒業、同校で同級だった山口蓬春の強い勧めで、昭和3年帝展に出品し、以後帝展、新文展に出品、戦後は日展を舞台に活動を続けた。平成5年、95歳で死去した。


初の全道的公募団体「北海道美術協会」の誕生

2018-08-16 | 画人伝・北海道

霧の朝 山内弥一郎 北海道立近代美術館蔵

文献:道展・全道展・新道展 創造への軌跡、北海道美術の青春期、美術北海道100年展、北海道の美100年、北海道美術史

スタートが遅れていた北海道美術だが、道民の間でも徐々に美術に対する興味と関心が大きくなり、創作面においても、技術の向上を目指して各地で小さな美術グループが結成されるようになった。主なものとしては、小樽の「小樽洋画研究所」、旭川の「ヌタックカムシュッペ画会」、函館の「赤光社」、札幌の「黒百合会」、「エルム画会」「北斗雅会」「白揚画会」などがある。やがて、それらの美術グループ間での交流と結集の気運がたかまり、大正14年、初めての全道的規模の公募団体である「北海道美術協会」(道展)が創立されることとなった。これ以降、昭和初期における北海道の美術活動は道展を中心に展開していくことになる。

道展の創立会員は、日本画は、菅原翠洲、山内弥一郎、岩田華谷、白青山、岡崎南田、平沼深雪、洋画は、林竹治郎、能勢真美、本間紹夫、山田正、山本菊造、奈良岡昴、加藤悦郎、今田敬一、石野宣三、沢枝重雄、升家謙三、石川確、中根孝治、三浦鮮治、谷吉二郎、中村善策、兼平英示、枡田誠一、近岡外次郎、池谷寅一、黒田三洋、天間正五郎、内山麗人、高橋北修、坂野孝児の計31名だった。第1回展は札幌の中島公園にあった農業館で開催され、全道からの一般公募を含め212点が展覧され、大きな反響を呼んだ。

創立メンバーの一人・今田敬一は当時の道展について「初期道展に、そろいの赤いハッピがあった。赤といっても派手なエンジで、背中にはっきり道展と白く染めぬいていた。(中略)これを着ると、道展の感じが身に沁みたそうで、道展という協同体の結束にとてもプラスした。ハッピのエンジが、中島公園の緑と水に映えて美しかった」(昭和40年・北海道新聞)と回想している。

道展には戦前までに水彩の繁野三郎、日本画の高木黄史、本間莞彩、洋画の菊地精二、居串佳一、山田義夫、岡部文之助、小山昇、彫刻の本郷新ら、北海道の美術界を担う数多くの作家が出品し、また、道展を母体として中央展への出品も相次ぐようになった。

山内弥一郎(1885-1954)
明治18年札幌生まれ。上京して太平洋画会研究所に学び、その後日本画に転向、新興日本画展、中央美術展などに入選した。道展日本画部の創立にも参加、大正15年に札幌女子画学院を創立して、美術振興にも力を注いだ。戦後は北海道日本画協会の創立にも参画した。昭和29年、69歳で死去した。


小樽の洋画家と美術運動

2018-08-15 | 画人伝・北海道

ビアンクール(セーヌ河)工藤三郎 北海道立近代美術館蔵

文献:三浦鮮治と兼平英示林竹治郎とその教え子たち、美術北海道100年展、北海道の美100年、北海道美術の青春期、北海道美術史

北海道美術の黎明期、小樽は札幌とともに美術運動に大きな役割りを果たした。小樽の初期美術グループとしては、長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎が東京美術学校在学中に結成し、小樽倶楽部で展覧会を開催した「羊蹄画会」がある。長谷川昇(1886-1973)は、福島県に生まれすぐに小樽に移住、東京美術学校に学んだのち渡欧、春陽会の創立に参加するなど中央画壇で活躍した。岐阜県生まれの小寺謙吉(1887-1977)も小樽に移住し、早くから官展に出品、北海道美術家連盟の創立にも参加した。小樽生まれの工藤三郎(1888-1932)は、東京美術学校を卒業後、渡仏し帰国後は小樽で暮らし、後進とのつながりも深かった。

この長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎の3人が小樽洋画の先駆的存在で「小樽洋画の大先輩」といわれた。そして、この大先輩たちのグループ「羊蹄画会」に感銘を受け、画家の道を志すようになったのが、大正中期から末期にかけて小樽洋画を担うことになる三浦鮮治(1895-1976)である。三浦は、12歳の時に工藤三郎に油絵の手ほどきを受け、20歳の時に上京、日本美術院洋画部や本郷洋画研究所で学んだが、2年後に家庭の事情で小樽に戻ることとなり、小樽稲穂町に「小樽洋画研究所」を設立、後進の指導を始めた。

この研究所は家賃が払えず場所を転々としていたが、夜になると14、5人が集まり熱心に絵の研究をしていたという。毎年開く展覧会には、三浦のほかに中村善策、兼平英示、山崎省三、加藤悦郎らが出品していた。そして大正13年、この研究所が母体となって、小樽ではじめての大きな美術団体である「太地社」が設立された。太地社には、札幌からも山田正、今田敬一らが参加し、のちに同人として能勢真美、山本菊造、石野宣三が加わり、この結集がさらに輪を広げ、大正14年の北海道美術協会(道展)の結成につながっていった。

工藤三郎(1888-1932)
明治21年小樽生まれ。東京美術学校卒業。同校で同期だった片多徳郎、萬鉄五郎、金沢重治、栗原忠二らと40年社を結成。また、国民美術協会の会員だった。大正4年第9回文展、翌年同10回展に出品。大正9年に渡仏して約3年間滞在し、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボサーに出品した。帰国後は小樽に定住し、太地社の創立会員となった。昭和7年、44歳で死去した。

長谷川昇(1886-1973)
明治19年福島県会津若松生まれ。同年小樽に移住し、量徳小学校、札幌中学を経て、明治40年に東京美術学校に入学、在学中から文展に入選した。明治44年渡欧、パリ画壇の作家たちと交わった。大正4年に帰国し、日本美術院同人となり、大正12年春陽会の創立に参加、道展にも特別会員として出品した。昭和32年日本芸術院会員となった。昭和48年、87歳で死去した。

小寺健吉(1887-1977)
明治20年岐阜県生まれ。その後小樽に移住した。東京美術学校卒業後、大正13年に渡欧した。早くから官展に出品し、昭和3年第9回帝展に出品した「西欧の或日」が特選になった。昭和6年の北海道美術家連盟の創立にも参加している。昭和52年、90歳で死去した。

三浦鮮治(1895-1976)
明治28年神奈川県生まれ。幼いころに小樽に移住。12歳ころ工藤三郎に油絵の手ほどきを受けた。20歳で画家を志し、小樽稲穂尋常高等小学校で同級だった山崎省三とともに上京、日本美術院洋画部絵画自由研究所の研究生となり、のちに本郷洋画研究所でも学んだ。大正6年、22歳の時に家業を継ぐために小樽に戻り、同年小樽洋画研究所を設立、後進の指導を始めた。研究所には中村善策がいた。大正13年太地社を設立。大正14年北海道美術協会の設立に参加、創立会員となった。昭和11年小樽出身の美術家らと北方美術協会を結成。昭和22年小樽市美術展覧会創立委員となった。昭和51年、81歳で死去した。

兼平英示(1898-1946)
明治31年神奈川県生まれ。三浦鮮治の弟。幼いころ小樽に移住。16歳の時に日本水彩画会小樽支部研究科に入り、加藤悦郎らとともに平澤大暲に指導を受けた。大正4年日本水彩画会展に入選。大正6年兄とともに小樽洋画研究所を設立、以後もグループ結成の際には兄と行動をともにする。昭和13年児童画塾を開くが、同年写生旅行中に体調が悪化し、以後闘病生活が続いた。昭和21年、48歳で死去した。


有島武郎と美術グループ「黒百合会」

2018-08-14 | 画人伝・北海道

やちだもの木立ち 有島武郎 北海道大学農学部蔵

文献:有島三兄弟それぞれの青春、北海道の美術100年、北海道美術史

「生れ出づる悩み」「或る女」などで知られる小説家・有島武郎(1878-1923)も、黎明期における北海道美術の発展に貢献したひとりである。東京に生まれた有島は、学習院中等科卒業後に農学者を志して札幌農学校に進学、アメリカ留学を経て、明治40年に母校が前身である東北帝国大学農科大学(現北大)の英語教師として札幌に赴任した。その翌年には同校内に結成された絵画グループ「黒百合会」の指導者となり、有島自身も印象派風の油彩画を描き、同展に出品した。

有島は、この「黒百合会」の活動方針に、同人だった文芸雑誌「白樺」の美術運動を取り入れた。年に1度行なわれていた黒百合会の展覧会には、参考作品として岸田劉生、弟の有島生馬らの絵画や、後期印象派の複製画、ロダンの彫刻なども展示し、中央での盛んな美術活動を伝えるとともに、西洋美術の新思潮を積極的に紹介した。この有島の美術啓蒙活動は学生にとどまらず、一般市民を含めて大きな影響を与え、幅広い美術愛好家を生んだばかりでなく、その後の本格的な芸術運動の基盤を形成したといえる。

大正3年、安子夫人の病気療養のため大学教授の職を辞して鎌倉に移り住んだが、大正5年に夫人と父親の武を相次いで亡くし、有島は小説家として出発することを決意する。39歳の遅いデビューだったが、大正6年「カインの末裔」、大正7年「生れ出づる悩み」、大正8年「或る女」と矢継早に発表、文壇の地位を確かなものとした。しかし、大正12年、当時「婦人公論」記者で既婚者だった波多野秋子と心中をはかり、45歳で死去。わずか6年の短い作家生活だった。

有島武郎(1878-1923)
明治11年東京生まれ。明治29年学習院中等科卒業、同年札幌農学校予科5年に編入学した。明治34年同校本科農業経済科を卒業。明治36年アメリカに渡りハヴァフォード大学大学院に入学、明治37年にハーバード大学大学院に入学した。明治39年3年間のアメリカ留学を終え、欧州旅行を経て翌年帰国。同年東北帝国大学農科大学(現北大)の英語講師となり、翌年学内の美術団体「黒百合会」を結成、同年同大学予科教授となった。明治43年学習院の3つの回覧雑誌が合流し、同人雑誌「白樺」が創刊され、同人となった。大正5年から執筆活動を本格化し、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表。大正12年、波多野秋子との心中により45歳で死去した。


北海道で日本画の普及につとめた菅原翠洲

2018-08-13 | 画人伝・北海道

出山之釈迦 菅原翠洲

文献:北海道美術の青春期、北海道の美術100年、美術北海道100年展、北海道美術史

洋画家の林竹治郎(1871-1941)に続いて、北海道に美術教師として赴任してきたのが、日本画家の菅原翠洲(1874-1931)だった。東京に生まれた菅原は、東京美術学校日本画科に入学、在学中は狩野派の流れを汲む橋本雅邦に師事し、歴史人物画を得意とした。明治37年に北海道師範学校の教師として北海道を訪れて以来、長年教壇にたち、美術教育に尽力した。また、伝統のない北海道には日本画は育ちにくいとされていたが、のちに「北海道美術協会」(道展)の創立にあたって日本画部をつくるなど、北海道における日本画の普及に貢献した。

また、明治38年に北海道師範学校の生徒によって結成された美術団体「野馬会」では、指導者として、のちに北海道の水彩画を担う多くの俊才を育てた。野馬会の結成は有島武郎の黒百合会よりも早く、会の名称は、黒田清輝、久米桂一郎らが結成した「白馬会」にちなんだものらしい。日本画家の菅原翠洲が指導者だったが、水彩画がほとんどの洋画団体で、主に学内展を開いていた。繁野三郎、藤野高常、戸坂太郎、新妻清、野村英夫らのほか、朝倉力男、桜庭彦治、砥上重雄ら油彩の画家も出ている。

菅原翠洲(1874-1931)
明治7年東京生まれ。旧姓中山次郎、明治37年菅原の姓になった。明治29年東京美術学校日本画特設科卒業。在学中は橋本雅邦に師事した。明治30年東京開成尋常中学助教諭、明治31年青森師範学校助教諭となり、明治37年には北海道に渡り札幌の北海道師範学校助教諭となった。大正13年に退職して嘱託になり、その後庁立札幌高等女学校、庁立札幌第二中学校の嘱託として教壇にたった。明治38年に師範学校内で創立された野馬会では指導者として多くの水彩画家を育てた。大正14年北海道美術協会(道展)の創立会員となり、第1回展から昭和5年の第6回展まで毎年出品した。昭和6年、57歳で死去した。