松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

野口彌太郎と長崎ゆかりの洋画家

2017-10-16 | 画人伝・長崎


文献:長崎の肖像、天成の画家の全貌 野口彌太郎展

野口彌太郎(1899-1976)は、諫早市出身の銀行家・野口彌三の長男として東京に生まれ、父の仕事の関係で各地を転々としたが、父の田園生活を送らせたいとの思いから、明治44年の約半年間を諫早の小学校で過ごしている。野口彌太郎と長崎との関係は、この少年時代からはじまっており、生涯長崎を愛し続け、幾度となく諫早や長崎を訪れ多くの作品を残している。ほかには、プロテスタント画家として活躍した石河光哉(1894-1979)、長崎創作版画の先駆者・田川憲(1906-1967)らがいる。

野口彌太郎(1899-1976)
明治32年東京生まれ。諫早市小野出身の銀行家・野口弥三の長男。小学校時代の明治44年から年末まで小野尋常小学校に学んだ。大正9年関西学院中学部を卒業、画家を志して川端画学校に学んだ。大正11年、第9回二科展に初入選。大正15年に1930年協会の会員となった。昭和4年から8年まではフランスに滞在、サロン・ドートンヌ出品作がフランス政府買い上げになった。帰国後は独立美術協会会員として活動した。戦後は長崎・諫早をしばしば訪れ多くの作品を残した。昭和35年に再渡欧。39年毎日芸術賞、47年芸術選奨文部大臣賞を受賞、同年日本芸術院会員となった。昭和51年、76歳で死去した。

石河光哉(1894-1979)
明治27年長崎生まれ。島原藩剣道指南・石河光英の末子。長崎鎮西学院で洗礼を受けた。のちに東京の青山学院に転校し、同校卒業後、本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助の指導を受けた。大正2年に内村鑑三門下生となり、この頃雑誌白樺でゴッホに心酔、画家を志し、内村の勧めで東京美術学校洋画科に入った。大正10年の卒業制作が帝展に入選。同年、長崎県立女学校の絵画教師となり、前田寛治同行でフランスに留学した。プロテスタント画家として活躍した。昭和54年、84歳で死去した。

辻利平(1900-1988)
明治33年松浦市生まれ。長崎県師範学校卒業後、教職を経て、昭和3年に東京美術学校を卒業。斎藤与里に師事した。昭和8年東光会創立展でT氏奨励賞を受賞、同年帝展に入選した。昭和15年に東光会会員となり、昭和41年第9回日展で菊華賞を受賞。昭和44年の改組第1回日展で審査員となり、翌年日展会員となった。昭和52年に副理事長となった。昭和63年、87歳で死去した。

田川憲(1906-1967)
明治39年長崎市生まれ。長崎市立商業卒業後の昭和元年画家を志して上京、宮内省主馬寮につとめた。翌年、恩地孝四郎に出会い創作版画を志すようになった。昭和3年川端画学校に入学、昭和8年に帰郷し長崎県立長崎図書館で版画個展を開催、同年「詩と版画の会」を結成した。昭和10年国画会に出品、昭和15年日本版画協会会員となったが、翌年から上海に移住し、「上海版画協会」「上海版画研究所」を設立、終戦後に帰国し、以後は長崎を拠点に制作した。昭和24年に「原爆遺跡・浦上天主堂」を出版、没後には「長崎東山手十二番館」が刊行された。長崎創作版画の先駆として長崎県文化功労者表彰、第1回長崎新聞文化章を受けた。昭和42年、60歳で死去した。

小川緑(1906-1988)
明治39年北海道生まれ。本名は緑治。昭和12年に長崎に移り住んだ。本郷洋画研究所で岡田三郎助、辻永に学び、昭和14年春陽展に初入選。昭和28年春陽会会員となった。長崎市展・県展の審査員をつとめ、「長崎市中島川を守る会」では初代会長として長崎の美術振興に尽力した。昭和36年に長崎県文化功労者表彰を受けた。昭和63年、81歳で死去した。

大塚伊次(1909-1986)
明治42年長崎市生まれ。昭和14年二科展初入選。昭和20年同志とともに「長崎洋画家倶楽部」を結成、昭和25年には長崎市民美術展設立に協力するなど、戦後の長崎市の美術振興に尽力した。また、山本鼎の自由画運動時代に平山国三郎、荒川秀男らと長崎の児童美術教育改革につとめた。昭和32年からは一陽会に出品、昭和46年一陽会会員となった。昭和61年、77歳で死去した。

池野清(1914-1960)
大正3年長崎市生まれ。長崎市立長崎商業学校卒業後、独学で画家を志し、昭和12年独立展に初入選し、昭和16年に会友となり、戦中を除いて独立展に出品した。草創期の長崎県展や市展で審査員をつとめるなど、長崎の美術振興に貢献した。昭和35年、46歳で死去した。


大正初期の美人画作家・栗原玉葉と長崎ゆかりの日本画家

2017-10-10 | 画人伝・長崎


文献:長崎の肖像、長崎歴史文化博物館研究紀要 第11号、美人画づくし

大正初期の文展で美人画作家として活躍した栗原玉葉(1883-1922)は、現在の雲仙市に生まれ、上京して寺崎広業に学んだ。大正2年、第7回文展に初入選し、第8回展では褒状を受け、人気画家としての地位を確立していった。当時、美術鑑賞者のあいだでは美人画ブームがおこっており、文展ではこのブームを受け、翌年の第9回展で美人画室を新設、美人画作品を一堂に集めて展示した。歌舞伎「阿波の鳴門」に取材した玉葉の入選作《お鶴》もこの部屋に展示されたが、昭和9年に『日本画大成』で紹介されて以降、その所在が分からなくなっていた。

このほど、この第9回文展入選作《お鶴》が発見され、「長崎歴史文化博物館研究紀要 第11号」(2016)の「栗原玉葉研究:出生から新出作品《お鶴》まで」(五味俊晶)において詳しく検証されている。同論文には「《お鶴》は、美人画ばかりを集めた「美人画室(第三室)」に展示され、北野恒富《暖か》(滋賀県立近代美術館蔵)などと共に大衆の眼を愉しませた。」と記されたおり、当時話題を呼んだ北野恒富の問題作《暖か》などと共に展示された当時の様子がうかがい知れる。

また、長谷川雪塘の長女で父に狩野派を学んだ長谷川雪香(1873-1937)は、武者絵、美人画、仏画、肖像画などを得意とし、大正2年からは「グラバー図譜」に約180枚の魚図などを描いた。同図譜には、長崎市生まれの萩原魚仙(1873-1942)も、約180点描いている。ほかには、島原出身の四条派の閨秀画家・今坂雪光(1899-1988)、「長崎の女」の連作で知られる甲斐宗平(1902-1988)、長崎南画の中興の祖として活躍した小柳創世(1906-1983)らがいる。昭和になると、長崎市生まれの松尾敏男(1926-2016)らが中央画壇で活躍した。

栗原玉葉(1883-1922)
明治16年南高来郡山田村生まれ。家業は酒造業。本名はあや子。父は栗原宰、母はクマ、破魔寿、貞男、源治、吉郎の4人の兄がいる末子。明治34年長崎東山手の梅香崎女学校に入学。長崎教会の瀬川浅牧師に洗礼を受けた。明治43年東京女子美術学校を卒業、寺崎広業に師事した。大正2年第7回文展で初入選し、以後文展・帝展に出品。寺崎広業没後は松岡映丘に師事した。東京の女性画家の団体「月耀会」の創立に参加するなど、女性画家の地位確立に努めた。大正11年、40歳で死去した。

長谷川雪香(1873-1937)
明治6年唐津生まれ。本名はサダ。長谷川雪塘の長女。7歳で父に狩野派の技法を学び、明治23年の雪塘没後は、母ハナ、弟妹と共に長崎に移住した。武者絵、美人画、仏画、肖像画など描いた。大正2年から6年まで「グラバー図譜」約180枚を描いた。昭和12年、65歳で死去した。

萩原魚仙(1873-1942)
明治6年長崎市丸山町生まれ。青楼・萩原龍二郎の二男。本名は鎮之助。小波魚青に四条派の画法を学んだ。大正元年から4年にかけ「グラバー図譜」の魚図約180点を描いた。鯉図を得意とし、東浜町傘ぼこ垂れに「さんごと魚群」を描いた。昭和17年、70歳で死去した。

今坂雪光(1899-1988)
明治32年島原市生まれ。大正4年京都に出て、同郷の小林観爾に日本画の手ほどきを受けた。翌年四条派で京都美術工芸学校教授の川北霞峯塾に入り本格的に日本画を学んだ。霞山と号して島原で霞山画会を主宰。昭和8年に長崎に移住した。雲仙、安中梅林などの画作のかたわら塾を開き、長崎県展・市展の審査員を歴任、長崎県日本画の発展に貢献した。昭和63年、88歳で死去した。

甲斐宗平(1902-1988)
明治35年大分県生まれ。明治44年に長崎に移住、24歳の時に画家を志して上京した。大正10年県立長崎図書館で創作画個展。大正13年には横手貞美らと3人社展を開催した。戦後は長崎県展・市展の創立審査員をつとめた。鶴陽社を主宰。昭和63年、86歳で死去した。

小柳創世(1906-1983)
明治39年長崎市生まれ。本名は種義。初号は創生。京都府立絵画専門学校卒業。土田麦僊、橋本関雪に師事した。昭和8年に院展初入選。昭和45年に長崎に移住した。日本南画院創立会員理事、長崎県展審査員。昭和58年、77歳で死去した。

松尾敏男(1926-2016)
大正15年長崎市生まれ。3歳の時に一家で上京した。堅山南風に師事し、昭和24年再興第34回院展に初入選、51回展、53回展、55回展で日本美術院賞・大観賞を受賞、昭和46年同人に推挙された。以後も院展を中心に活躍、昭和54年に日本芸術院賞を受賞、平成6年に日本芸術院会員となった。平成12年文化功労者になり、平成24年に文化勲章を受章した。平成28年、90歳で死去した。


旧派の代表画家・荒木十畝と長崎出身の門人・小林観爾

2017-10-04 | 画人伝・長崎

文献:荒木十畝とその一門

明治5年、現在の大村市に生まれた荒木十畝(1872-1944)は、20歳の時に上京して荒木寛畝に師事、寛畝の娘と結婚して家督を継いだ。谷文晁の流れを汲む南北合派の名門である荒木家を継いだ十畝は、日本美術協会、日本画会で頭角を表していった。明治40年に文展が創設されると、審査員の人選を不服とする会員たちとともに正派同志会を結成し、新しい日本画を標榜する岡倉天心を中心とした国画玉成会に対抗した。いわゆる旧派新派による対立である。伝統的な日本画の枠組みを守り続けた十畝は、旧派の代表画家として位置づけられているが、その一方で国画正成会の活動にも理解を示しており、日本画の変革を否定していたわけではない。伝統を基礎とした新しい日本画の創造を目指した十畝もまた、日本画の理想を追った画家のひとりだったのである。

十畝の門人である小林観爾(1892-1974)は、島原に生まれ、京都に出て京都市立絵画専門学校に学んだ。京都で帝展に出品していたが、のちに上京して荒木十畝に師事した。京都画壇では、福田平八郎と技を競ったほど注目されていたという。

荒木十畝(1872-1944)
明治5年長崎県東彼杵郡大村久原郷生まれ。士族・朝長兵蔵の二男。本名は悌二郎。初号は琴湖。明治25年、20歳の時に同郷の渡辺清を頼って上京、その友人である野村泰介の紹介で荒木寛畝に入門した。翌年、寛畝の娘と結婚して養子となり十畝と号した。明治28年、日本美術協会展で一等褒状を受賞し、同会の会員となった。明治30年日本画会が結成され、創立委員となった。明治38年、寛畝を会長とする読画会の設立に副会長として参加、同会で展覧会や研究会を開催、寛畝歿後は十畝が会長となった。明治40年、文展開催に伴い審査員選考を不服として有力会員によって結成された正派同志会に幹事長として参加、新派旧派の対立はありながらも文展審査委員をつとめた。海外での作品発表や交流も積極的にすすめ、パリ万国博覧会、セントルイス万国博覧会にも出品。日華聨合美術展や暹羅日本美術展覧会を開催した。また、教員検定委員会臨時委員や文部省視学委員をつとめ、東京女子高等師範学校では教鞭をとるなど教育にも尽力した。大正13年帝国美術院会員となった。昭和19年、73歳で死去した。

小林観爾(1892-1974)
明治25年島原生まれ。島原中学校を卒業後、京都に出て京都市立絵画専門学校で学んだ。大正13第5回帝展に初入選。翌年の第6帝展で特選となり、以後入選を重ねた。米国博覧会、聖徳太子奉讃展、仏印日本画展、伊太利日本画展にも推挙され出品した。それまで京都に住んでいたが、昭和10年頃に上京し、のちに荒木十畝に師事し、読画会展に出品した。一時は京都画壇の福田平八郎と技を競ったほど注目されていたという。戦後は日展に依嘱出品したが、身体が不自由になったため、制作数も少なくなった。昭和49年、82歳で死去した。

長崎(21)-ネット検索で出てこない画家


佐伯祐三と行動を共にしフランスで客死した横手貞美

2017-09-23 | 画人伝・長崎


文献:未完の青春 横手貞美、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

昭和2年、横手貞美(1899-1931)は、東京美術学校を卒業したばかりの荻須高徳(1901-1986)、山口長男(1902-1983)とともに、横浜港からパリへ向かう旅客船に乗り込んだ。すでに2度目の渡仏を果たしパリに住んでいた佐伯祐三(1898-1928)を頼ってのパリ行きだった。荻須と山口は、東京美術学校での佐伯の後輩にあたる。横浜を出た船は、神戸に寄港し、ここで偶然乗り込んできた旧知の大橋了介(1895-1943)と合流した。約40日におよぶ船旅の末にマルセイユに上陸した4人は、夜行列車でパリに向かった。

すでにパリで制作していた佐伯は4人を歓迎し、佐伯と初対面だった横手はその親切さに感激したという。佐伯は彼らにパリ生活でのノウハウを教えたり、芸術論を説いたりした。すぐに佐伯を中心にしたサークルが形成され、パリ郊外で合宿して1日3点主義を実行するなど、風景画を中心に精力的な制作が展開された。パリ市内のグランド・ショミエールなどで人物画の研究もした。しかし、その旺盛なグループ活動も翌年の佐伯の死によって突然終わる。

佐伯と制作を共にし、佐伯の影響を強く受けていた横手は、佐伯の死とともに独自の表現を追求するようになるが、横手もまた、その3年後に31歳の若さでフランスで客死することになる。場所はスイス国境に近いフランス南東部の町オトヴィルのサナトリウムで、胸郭切除手術を受けた末での死だった。佐伯の後を追うような人生を送り、佐伯の影に隠れがちな横手の画業だが、近年見直されてきており、再評価の動きも見られる。

横手貞美(1899-1931)
明治32年宮崎市生まれ。父は大分県宇佐郡出身の判事で、仕事の関係で九州各地を移り住んだ。大正2年、14歳の時に父が死去したため、長崎で耳鼻咽喉科を開院していた次兄のもとに身を寄せ、翌年長崎市の私立海星中学校に入学した。同校のフランス人図画教師アルベール・ブレザッケルの指導で絵画に興味も持ち、大正8年同校卒業後に上京して小林萬吾の私塾・同舟社で石膏デッサンを学び、東京美術学校を受験するが「胸廊変態」と診断され入学を拒否されたという。この頃から岡田三郎助の本郷絵画研究所に通い人体写生を研究した。同研究所で山口長男、大橋了介らと知り合った。昭和2年、荻須高徳、山口長男とともに佐伯祐三を頼って渡仏、偶然同じ船に乗り合わせた大橋了介と4人で佐伯を訪ねた。以後佐伯と制作を共にし、佐伯の影響を強く受けるが、昭和3年に佐伯が死去したのちには、独自の表現を追求するようになる。昭和5年、革命祭の絵を最後に病床につき、翌6年、フランスにおいて31歳で死去した。


外光派の風景画家・山本森之助と早世した人気画家・渡辺与平

2017-09-19 | 画人伝・長崎


文献:長崎が生んだ風景画家 山本森之助展、渡辺与平展、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

明治10年、山本森之助(1877-1928)は長崎市新橋町の料亭一力の長男として生まれた。明治27年に画家を志して大阪の山内愚仙に入門、翌年には上京して浅井忠の明治美術学校研究所に入り、さらに、東京美術学校で黒田清輝のクラスに学び、外光派の画家として画壇デビューした。自然を忠実に写し取るといういわゆるアカデミックな手法で、白馬会、官展、光風会を中心に発表、初期文展では3年連続して受賞し、当時の風景画の分野で第一人者と目されるほどだった。

山本が日本アカデミズムの風景画家として大成していったころ、長崎県出身の気鋭の新人が文展デビューした。長崎市生まれの渡辺与平(1889-1912)は、山本が三等賞を受けた第1回文展で初入選、山本が新審査員となった第4回文展で三等賞を受賞した。さらに第5回展にも入選し、将来を嘱望されたが、病を得て24歳で死去した。与平は文展出品作のほかにも、新聞や雑誌に掲載されたコマ絵で注目され、竹久夢二の「夢二式」に対して、渡辺与平の「ヨヘイ式」という言葉が生まれるほど人気を博した。

山本森之助(1877-1928)
明治10年長崎市生まれ。長崎市新橋町の料亭一力の長男。13歳の頃に長崎の洋画家・田口松之助に洋画の手ほどきを受け、明治27年、17歳の時に大阪に出て山内愚僊の門に入った。翌年上京、明治美術学校研究所に入り、浅井忠、山本芳翠の指導を受けた。翌年同校を卒業し、その後、天真道場で黒田清輝の指導を受け、その翌年新設された東京美術学校西洋画選科に入学、黒田教室に学んだ。同校在学中から白馬会展に出品し、のちに文展に出品、第4回展からは審査員をつとめた。大正元年、35歳の時に岡野栄、中澤弘光、小林鐘吉、跡見泰、三宅克己、杉浦非水らと光風会を創設した。昭和3年、51歳で死去した。



渡辺与平(1889-1912)
明治22年長崎市生まれ。旧姓は宮崎。宮崎徳三の二男。はじめ日本画を学ぶため京都市立美術工芸学校に入学、在学中に鹿子木孟郎の私塾にも通った。卒業後の明治39年に中村不折にあてた鹿子木孟郎からの紹介状を持ち上京、太平洋画会研究所に入り、中村不折から本格的な洋画の指導を受けた。この年はじめて『ホトトギス』にコマ絵が掲載された。明治41年の第2回文展で初入選。翌年の42年に不折の仲人で満谷国四郎門下の女性画家・渡辺ふみ子(のちの亀高文子)と結婚し、以後渡辺姓を名乗った。明治43年第4回文展で三等賞を受け、翌年の第5回展にも入選した。また、コマ絵の仕事では、竹久夢二の「夢二式」に対して「ヨヘイ式」と呼ばれた画風で人気を博し、将来を嘱望されたが、大正元年、病のため24歳で死去した。


存命中に遺作展を開催された長崎洋画の先駆者・彭城貞徳

2017-09-14 | 画人伝・長崎


文献:生誕150年記念 彭城貞徳展、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

長崎出身の明治初期の洋画家としては、まず彭城貞徳(1858-1939)の名があげられる。彭城は、18歳の時に画家を志して上京、高橋由一が主宰する天絵楼に学び、さらに、初の官立美術学校である工部美術学校の第一期生として入学、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージから本格的に油絵の基礎を学んだ。同期には浅井忠、小山正太郎、山本芳翠ら、のちに初期日本洋画史を彩る錚々たる画家たちがいた。しかし、彭城の名が語られるのはこの時代までである。明治26年にはシカゴ万博出品総代として渡米、さらにヨーロッパを歴遊し、フィラデルフィア美術学校にも学んだが、滞欧生活7年の帰国後は、中央画壇と離れ、展覧会などに出品することもほとんどなく、晩年には筆を折ったまま生涯を終えた。

美術業界から遠ざかりすぎたためか、存命中でありながら遺作展が開催されたことがある。昭和7年、銀座の画廊で開催された「榊貞徳画伯遺作展」に出品されていたのは、彭城貞徳の作品だったのだが、作品を売りにきた外国人が言う「サカキテイトク」という画家の名前を画廊主が知らず、榊貞徳と誤って表記したものだった。さらに、その外国人が「画家はとっくに死んでいる」と言ったため、遺作展となった。2年後、彭城本人が画廊に現れ、その作品が自分のものだと告げて発覚したという。

手記などで伝わる彭城の活動範囲は広く、多彩な才能を持ち、絵画だけでなく音楽や踊りなどにも通じていたことが分かる。にこやかに笑う人物画や、猫が三味線をひくユーモラスな作品を手掛けるなど、サービス精神も旺盛だが、その反面、集合写真に参加しないなどの協調性のなさも垣間見える。長崎では近隣の者たちに絵を教え、求めに応じて絵を描いていたが、活動は絵画だけにとどまらず、政治家を志し、商売人の道へと進むことになった。画家を志して上京し、工部美術学校一期生というエリートコースを歩みはじめたはずが、やがて中央画壇から忘れ去られ、晩年には存命中に遺作展を開催されることとなってしまったのである。

彭城貞徳(1858-1939)
安政5年長崎市生まれ。家業は代々続く唐通事。幼いころから彭城家第10代唐通事になるべく英才教育を受けたが、明治維新とともに唐通事の役目が終わった。13歳の頃に長崎広運館でフランス語を学び、同時期に通っていた西園寺公望と交友を持った。15歳の時、京都のフランス語学校で、教師が所蔵していた油彩で描かれたナポレオン三世の肖像画をみて、その迫真性に驚き、洋画家を志すようになった。明治8年、18歳の時に上京、高橋由一が主宰する天絵楼に入門し、油絵を学び始めた。さらに明治9年に日本初の官立美術学校である工部美術学校が創設されると第一期生として入学、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージから本格的に油絵の基礎を学んだ。同期には、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らがいた。21歳の時、フォンタネージが帰国したのをきっかけに同校を退学、石版会社・玄々堂に就職した。明治17年長崎に帰り、市会議員や絵画教師など様々な職に就いた。明治26年にはシカゴ万国博覧会出品総代として渡米、さらにヨーロッパを歴遊し、明治33年に帰国、神戸で外国人向けの作品を描いた。明治36年に長崎に帰り洋画塾などを開いたが、大正4年病のため筆を折り、上京して海産物問屋を営んだ。昭和14年、82歳で死去した。


長崎版画と版下絵師

2017-09-11 | 画人伝・長崎


文献:長崎版画と異国の面影、長崎の肖像、神戸市立南蛮美術館図録Ⅲ

長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。

現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。

天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。

江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。

幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。
長崎三画人後の三筆、守山湘帆・中村陸舟・伊東深江

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。


長崎三画人後の三筆、守山湘帆・中村陸舟・伊東深江

2017-09-06 | 画人伝・長崎


文献:九州南画の世界展、長崎絵画全史

長崎三画人らによって大成された南画は、その後も門人たちによって引き継がれ、鉄翁祖門に学んだ守山湘帆と中村陸舟、三浦梧門に学んだ伊東深江の三人は、長崎後の三秀とも崎陽後の三筆とも称された。ほかにも、鉄翁の門からは松尾琴江、立花鉄嵒、木下逸雲の門からは、池辺蓮谿、小曽根乾堂、池島邨泉、成瀬石痴らが出て、長崎南画の画系は引き継がれた。大正、昭和に入ってからも鉄翁直系の正統を継いだ帯屋青霞が長崎南画の第一人者として活躍、伝統継承と後進の育成につとめた。

守山湘帆(1818-1901)「帆」は正式には「馬+風」
文政元年長崎生まれ。通称は愛之助、諱は吉成、字は士順。伊東甚八義重の三男、のちに桜町の守山家の養子となった。出島組頭をつとめた。幼いころから鉄翁祖門について南画を学んだ。明清画家の作品も独習し、文久年間に徐雨亭が来舶すると、画法、書法を学んだ。明治34年、83歳で死去した。

中村陸舟(1820-1873)
文政3年生まれ。本名は利雄、通称は六之助、字は浄器。別号に梅香がある。家は代々遠見番で、家業を継ぎ長崎奉行組下遠見番役人をつとめた。高島晴城について西洋の砲術を学び、ほかにも、造船学、航海学、機関学、算術などを修めた。その一方で、鉄翁祖門について南画を学んだ。明治6年、54歳で死去した。

伊東深江(1835-不明)
天保6年生まれ。通称は福太郎、諱は孝正、字は中甫。別号に春農がある。伊東家は代々町乙名の家系であり、深江も恵比寿町乙名の役をつとめ、幕末には居留地係となり、明治元年には長崎取締助役となった。養豚業に従事するも失敗、以後、長崎を去り神戸に移住した。三浦梧門に南画を学び、山水図と芦雁図を得意とした。

松尾琴江(1836-1865)
天保7年生まれ。松尾其賞の兄。通称は禎造、諱は正、字は端士。鉄翁祖門に南画の画法を学んだ。病気がちで、生涯独身で通した。慶応元年、30歳で死去した。

松尾其賞(1839-1907)
天保10年生まれ。通称は恵三太。三歳年上の兄である琴江に書画を学んだ。守山湘帆の影響を受けた松画を得意とした。また、唐船を描くことのも巧みだった。晩年は引地町に居を構え、風雅な生活を楽しんだ。明治40年、69歳で死去した。

立花鉄嵒(不明-1892)
鉄翁祖門に南画を学び、拙嵒に書を学んだため、鉄嵒と号した。嘉永5年から明治25年まで、41年間、観善寺の第13代住持をつとめた。明治25年死去した。

池島邨泉(1844-1907)
弘化元年生まれ。通称は嘉吉、のちに正造に改めた。初号は尊泉。15、6歳のころに木下逸雲に南画を学んだ。芦雁の絵に打ち込み、自宅でも飼育していた。慶応2年に父の池島正兵衛が没したため、その跡を継いで池正という名の骨董商としても成功した。東京、京阪方面にも進出した。明治40年、63歳で死去した。

大倉雨邨(1845-1899)
弘化2年生まれ。名は行、字は顧言、越後の南画家。生家は代々医者。松尾紫山に画を学び、長崎では鉄翁祖門のもとで学んだ。明治5年清にわたり中国絵画の習得にいそしんだ。明治32年、55歳で死去した。

江上瓊山(1861-1924)
文久元年生まれ。幼名は辰三郎、名は景逸、字は希古雨。守山湘帆に師事した。のちに京都に移り住んだ。大正13年、63歳で死去した。

阿南竹坨(1864-1928)
元治元年豊後竹田生まれ。旧姓波多野。本名は衡。別号として酔竹山人、臨泉、二雄、龍洞がある。長崎で守山湘帆に南画を学んだ。長崎市八幡町に住み、のちに兵庫県に、さらに名古屋、東京に移り住んだ。昭和3年、65歳で死去した。

立花素嵒(1869-1951)
明治2年生まれ。立花鉄嵒の子。昭和26年、83歳で死去した。

帯屋青霞(1889-1977)
明治22年長崎市銭座町生まれ。本名は善三郎。初号は梅窓。旧海星商業卒業後、三菱長崎造船所に入所した。大正5年24歳の時に立花素嵒に南画を学び、鉄翁直系の正統を継いだ。はじめは梅窓と号して梅図を得意とした。昭和8年頃から青霞に改号した。長崎県・市展審査員を歴任し、長崎南画の伝統継承と後進の育成につとめた。昭和52年、87歳で死去した。


幕末の長崎三画人、鉄翁祖門・木下逸雲・三浦梧門

2017-09-01 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、九州南画の世界展、長崎絵画全史

来舶四大家のひとり江稼圃は、文化元年から6年頃まで来日し、弟の江芸閣とともに長崎の南画興隆の基礎をつくった。さらに続いて来日した徐雨亭、王克三らによって長崎の南画は一段と本格的なものになっていった。幕末の長崎三画人と称された、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も江稼圃に学んでいる。江稼圃の来日前は、鉄翁祖門と木下逸雲は石崎融思に、三浦梧門は渡辺鶴洲にそれぞれ漢画の画法を学んだが、江稼圃の渡来後は彼について南画を学び、これを大成した。南画は全国に広まり、池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、谷文晁らが活躍、江戸後期の日本画壇に主要な地位を占めた。

鉄翁祖門(1791-1872)
寛政3年長崎市銀屋町生まれ。俗姓は日高。鉄翁の号は30歳代半ばから用いた。文政3年から春徳寺の第14代住持をつとめ、嘉永3年に退隠した。はじめは石崎融思に師事したが飽きたらず、28歳の頃に来日した江稼圃について南画の画法を習得、特に退隠後は画禅三昧にひたり、蘭図を得意とし、蘭の鉄翁と称された。田能村竹田らとも交友し、多くの門人を育てた。明治4年、81歳で死去した。

木下逸雲(1799-1866)
寛政11年長崎市八幡町生まれ。通称は志賀之助、名は相宰、諱は隆賢。別号に養竹山人、如螺山人、物々子などがある。18歳で八幡町乙名をつとめ、文政12年退役。本業は内科外科を兼ねる医者だった。亀山焼の発展に寄与し、日中文化交流の長崎丸山花月楼清譚会の世話人もつとめた。画法は、鉄翁と同じく最初は石崎融思に学び、のちに最も影響を受けた江稼圃について南画を学び、鉄翁とともに幕末長崎南画界の大御所的存在となった。
天保3年に建てられた諏訪神社の能舞台には、大和絵風に松の絵を描くなど、広く画法を学び、西洋画にも関心を寄せた。篆刻も巧みで、鉄翁にも印を贈っている。慶応2年、江戸に遊び、横浜から長崎への帰路、海上で遭難し、68歳で死去した。

三浦梧門(1808-1860)
文化5年生まれ。本興善町乙名三浦惣之丞の長男。通称は惣助、諱は惟純。別号に秋声、荷梁、香雨などがある。邸内に植えていた梧桐のなめらかな美しさを愛し、梧門と号したという。長崎本興善町乙名や長崎会所目付役などをつとめた。渡辺鶴洲や石崎融思に画法を学び、さらに中国の名画を独学で研究し、南画の大家と称された。土佐派の画や肖像画も得意とした。万延元年、53歳で死去した。


来舶四大家、伊孚九・張秋谷・費漢源・江稼圃

2017-08-30 | 画人伝・長崎


文献:九州南画の世界展

18世紀の後半から19世紀の中頃になると、渡来の途絶えた黄檗僧に代わって清人が盛んに渡来するようになった。彼ら来舶清人によって南画の画風が伝えられると、長崎の画家のみならず、各地の文人たちに注目され、空前の中国ブームが出現した。江戸時代に長崎にやってきた清の画家のうち、伊孚九、張秋谷、費漢源、江稼圃は、来舶四大家と称され、なかでも何度も来日した伊孚九は、日本の文人たちと交流し、その詩書や南画の教養は、池大雅や田能村竹田らの南画家に大きな影響を与えた。

伊孚九(1698?-不明)
中国呉興の人。名は海、字は孚九、莘野、莘野耕夫と号した。別号に匯川、也堂、雲水伊人、養竹軒などがある。本業は船主。享保5年から延享末頃にかけて来航した。延享4年8月付の『伊孚九書上船員名簿』には「船主伊孚九年五十歳」とあり、生年は康熙37年だと推測され、最初の来舶時は23歳だったと思われる。

張秋谷(不明-不明)
中国仁和の人。名は崑、字は秋谷。幼いころから画を好み、天明年間に来日。帰国後は名を莘、字を秋穀と改め、倪雲林の山水、呉鎮の蘭竹を手本とした。来舶四大家の中では、中国で最も名の通った画人であり、椿椿山や渡辺崋山らに大きな影響を与えた。天明8年に長崎遊学した春木南湖は、唐大通事清河栄左衛門の紹介で弟子となった。南湖の手記『西遊日簿』によると、秋谷は背が高く痩せ型で、静かな人物だったという。

費漢源(不明-不明)
中国茗渓の人。名は瀾、字は漢源、浩然と号した。宝暦6年頃までの間に数回来舶したとみられる。南京船主としての最初の来舶は、元文2年とされるが、嘉永4年刊行の『続長崎画人伝』や寛政2年刊行の『玉洲画趣』などでは、享保19年に初めて来舶したとされている。初来日は、信牌目録に名をとどめないような立場で来航したのかもしれない。長崎では建部凌岱、楊利藤太などに画法を授けた。

江稼圃(不明-不明)
中国臨安の人。名は泰交、字は大来、連山。張栄蒼らに書や画法を学んだ。文化元年から6年まで財副として来舶し、以後数回来舶が記録されている。長崎三画人と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門らが画法を学んでおり、長崎南画の発展に貢献した。長崎遊学した菅井梅関に南画を教えた。梅関の号は江稼圃より梅の図を贈られたことに由来する。


シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀

2017-08-28 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、シーボルトと町絵師慶賀

文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

川原慶賀(1786-不明)
天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

川原慮谷(不明-1872)
川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

田口慮慶(不明-不明)
絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。


洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

2017-08-23 | 画人伝・長崎


文献:石崎融思筆 唐館図蘭館図絵巻肥前の近世絵画、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、唐絵目利と同門、長崎画史彙伝

長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

原南嶺斎(1771-1836)
明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。

西苦楽(不明-不明)
経歴は不詳。原南嶺斎らと同時代の人と思われる。作品「紅毛覗操眼鏡図」が残っており、西肥崎陽東古河町住西苦楽という落款が入っている。

城義隣(1784-不明)
天明4年生まれ。経歴は不詳。君路と刻んだ印が残っており字と思われる。絵事を好み、唐絵、油絵、泥絵などを手掛けた。他地方で泥絵が発見されたため、泥絵作家として知られているが、泥絵の作品は必ずしも多くはない。大徳寺に天井画が残っている。

梅香堂可敬(不明-不明)
絵事をよくし、唐人、紅毛人、丸山遊女、異国人、異国女などを描いている。肉筆も版画も残っており、長崎版画の中にも可敬の描いた画がある。『長崎系洋画』には「本名は中村利雄、陸舟とも号したと言ふ」とあるが真意は定かではない。

玉木鶴亭(1807-1879)
文化4年生まれ。通称は官平、字は又新。別号に一源、九皐、錦江などがある。明治に入って、鶴亭を通称とした。幼いころから画を好み、北宗画にも、南宗画にも通じ、洋画も得意とした。代々西築町に住み、唐船掛宿筆者の役をつとめた。明治12年、73歳で死去した。


長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元

2017-08-16 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、百花繚乱の世界-江戸・化政期の絵画-

キリスト教の禁止令とともに、西洋画もその弾圧の対象とされ、さまざまな制約が加えられるようになった。唯一の開港地だった長崎では、西洋や中国の文化が流入する得意な環境のもと、オランダ人やオランダ船などの西洋の風俗が描かれていたが、それは従来の日本画の手法によるものだった。これに対し、蘭学の流行とともに西洋の絵画を理論的に研究し制作しようとする気運が高まり、江戸では司馬江漢や亜欧堂田善らによって洋風画が描かれるようになった。

長崎で洋風画が本格的になるのは、江戸より遅れて、寛政年間の若杉五十八(1759-1805)が初めであり、ついで文化年間の荒木如元(1765-1824)がそれを完成させた。五十八と如元の作品は、その多くがカンヴァス地に油彩で描いた本格的なもので、ときには輸入の油絵具を使うこともあった。彼らは、同時代の秋田や江戸の洋風画家たちがなしえなかった本場の洋画技法を用いていたが、西洋原画の模写と構成に終始し、題材や手法も洋画に酷似していることから、独自性に欠けていたともいえる。

若杉五十八(1759-1805)
宝暦9年長崎生まれ。父は左斎といい鍼療を営む盲人だった。母は久留米藩用達の井上政右衛門の妹。師承関係は判明していないが、直接オランダ人に画法を学んだともいわれ、麻布油彩の本格的な西洋風俗画を描いた。唐絵目付の画家たちと違い、在野の画家だったため、画業を明らかにする資料は、遺作以外ほとんど残っていない。明和8年、その前年に従兄の若杉敬十郎が没したため、その後を受けて長崎会所請払役並となり、安永9年には、敬十郎の実子登兵衛が成人したのでこれに職を譲り、さらに会所請払役の久米豊三郎の養子となって再び会所請払役見習となり、のち寛政6年養父豊三郎の隠退とともに請払役に昇進した。文化2年、47歳で死去した。



荒木如元(1765-1824)
明和2年生まれ。通称は善十郎、のちに善四郎、字は直忠。もと一瀬氏。唐絵目利の荒木元融に絵を学び、養子となって元融の跡を継いだが、短期間で辞職し再び一瀬氏に戻った。洋風画は、その表現から長崎系洋風画の先駆者・若杉五十八に洋画法を学んだと思われる。長崎系の中でも最も西洋画に近い作品を残した。文政7年、60歳で死去した。



南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人

2017-08-08 | 画人伝・長崎


文献:沈南蘋と南蘋系絵画展、江戸の異国趣味-南蘋風大流行-、宋紫石とその時代

南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。

熊代熊斐(1712-1772)
正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。

沈南蘋(1682不明)
清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。

高乾(不明-不明)
清の浙江省の人。字は其昌、萍菴と号した。沈南蘋の門弟。師とともに長崎に渡来した。一説には南蘋が帰国した年の翌年渡来。

鄭培(不明-不明)
清の浙江省呉興県苕溪の人。字は山如、号は古亭。沈南蘋の門弟。享保16年に沈南蘋とともに来日したと伝えられてきたが、宋紫岩と一緒に来日したとする説もある。

高鈞(不明-不明)
霽亭と号した。沈南蘋の門弟。師とともに長崎に渡来した。

宋紫石(1715-1786)
正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。

鶴亭(1722-1785)
享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。

黒川亀玉(初代)(1732-1756)
元禄15年生まれ。江戸の人。名は安定、字は子保。号は松蘿館・商山処士。はじめ狩野派を学び、のちに沈南蘋の筆意を慕った。宝暦6年、55歳で死去した。

真村蘆江(1755-1795)
宝暦5年生まれ。長崎の人。名は斐瞻、通称は長之助。別号に耕雲山人がある。熊斐に画を学んだ。寛政7年、41歳で死去した。

大友月湖(不明-不明)
長崎の人。名は清、通称は内記。別号に沈静がある。熊斐に画を学び、山水を得意とした。

熊斐文(1747-1813)
延享4年生まれ。熊斐の長男。通称は銭屋利左衛門、名は章。繍山と号した。文化10年、67歳で死去した。

熊斐明(1752-1815)
宝暦2年生まれ。熊斐の二男。名は斐明、通称は神代陽八。繍滸、竹菴と号した。父に画を学んだ。文化12年、64歳で死去した。

諸葛監(1717-1790)
享保2年生まれ。江戸両国の人。通称は清水又四郎、字は子文、静齋または古画堂と号した。名は来舶清人の諸葛晋にちなんだもの。長崎に行くことなく、独学で南蘋風を学んだと思われる。寛政2年、74歳で死去した。

松林山人(不明-1792)
長崎の人。姓ははじめ松林、のちに林、名は儼、字は雅膽。熊斐に師事した。着色に秀で花鳥を得意とした。安永年間に江戸に出て浅草に住んでいた。寛政4年、江戸で死去した。

宋紫山(1733-1805)
享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。

藤田錦江(不明-1773)
江戸の人。出羽国庄内藩酒井家藩士。名は景龍、包擧ともいった。字は瑞雲、錦江は号。通称は宇内。画を宋紫石に学んだと伝わっている。安永3年死去した。

森蘭斎(1740-1801)
元文5年生まれ。越後の人。名は文祥、字は九江・子禎。別号に鳴鶴がある。本姓は森田氏。長崎に出て熊斐に学んだ。熊斐没後の安永2年に大坂に移り、『蘭斎画譜』8冊を刊行、江戸に移り没後の享和2年に『蘭斎画譜続編』が刊行された。熊斐の画風を遵守し、南蘋派が受け入れられるところに移動していったと思われる。享和元年、61歳で死去した。

董九如(1745-1802)
延享元年生まれ。名は弘梁、字は仲漁。別号に廣川居士、黄蘆園などがある。宋紫石に画を学んだ。享和2年、59歳で死去した。

勝野范古(不明-1758)
長崎の人。柳溪と号し、二蔵と称した。師系は不明だが、南蘋の画法を学んだと思われる。宝暦8年死去した。

宋紫崗(1781-1850)
天明元年生まれ。宋紫山の子。名は琳、字は玉林。別号に雪溪、聴松堂がある。嘉永3年、70歳で死去した。

洞楊谷(1760-1801)
宝暦10年生まれ。長崎の人。片山楊谷。名は貞雄、通称は宗馬。沈南蘋の画法を学んだ。寛政5年因州の茶道家・片山宗杷の家を継いだ。享和元年、42歳で死去した。
紫の糸で長い髪を束ね、大道を闊歩した鬼才・片山楊谷

福田錦江(1794-1874)
寛政6年生まれ。長崎の人。名は範、字は君常、通称は範二郎。別号に竹園がある。はじめ画を熊斐に学び、のちに南蘋の画法に倣った。明治7年、81歳で死去した。

鏑木梅溪(1750-1803)
寛延2年生まれ。長崎の人。名は世胤・世融、字は君冑・子和、通称は弥十郎。はじめ田中氏、また平氏を名乗った。江戸に出て鏑木氏の養子となった。荒木元融の門人で、沈南蘋に私淑したと思われる。享和3年、59歳で死去した。


唐絵目利広渡家の画系

2017-08-02 | 画人伝・長崎


文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史

唐絵目利四家のひとつである広渡家は、武雄鍋島藩で御用絵師をつとめていた初代広渡心海に学んだ広渡一湖(1644-1702)に始まる。一湖は熊本の生まれだが、24歳で長崎に移り住み、心海が一時長崎に滞在していた際に画法を学んだ。一湖は末次姓だったが、心海とは親族の間柄だったため、心海の許しを得て、氏を広渡に改めることとなった。さらに一湖は、長崎に渡来した陳清斎にも学び、元禄12年唐絵目利兼御用絵師に命じられた。その後も広渡家は代々唐絵目利職を世襲し、長崎画壇の中心として活躍した。

広渡一湖(1644-1702)
正保元年生まれ。通称は小左衛門、熊本の人。細川越中守のお抱え絵師・末次弥次兵衛の弟。寛文7年、24歳の時に長崎に移り住んだ。その後、広渡心海が長崎に来遊して滞留していた際に、師事してその画法を受けた。一湖と心海は同族だったため、心海の許可を得て、広渡と改姓した。さらに延宝年間には、長崎に渡来していた唐人・陳清斎に画法を学んだ。長崎奉行所の御用などを勤めていたが、その功労によって、元禄12年、長崎奉行大島伊勢守在勤の時に、唐絵目利兼御用絵師に命じられた。元禄15年、59歳で死去した。

広渡湖笛(不明-1746)
広渡一湖の子。湖春の兄。玉壺斎と号した。本覚寺の山伏になり、成実坊と称した。花鳥人物山水すべて得意とし、自ら一家を成した。延享3年死去した。

広渡湖春(不明-1746)
広渡一湖の子。通称は伴助。長崎奉行永井讃岐守在勤の時に、父一湖の後を継いで唐絵目利兼御用絵師となった。延享3年死去した。

広渡湖亭(1717-1762)
享保2年生まれ。広渡湖春の子。通称は小平太。延享3年、長崎奉行田附阿波守在勤の時に、父湖春の後を継いで唐絵目利兼御用絵師となった。安永2年、46歳で死去した。

広渡重次平(不明-不明)
広渡湖亭の子。宝暦7年、長崎奉行坪田駿河守在勤の時に、唐絵目利見習役を命じられた。

広渡湖秀(1737-1784)
元文2年生まれ。通称は八平太、字は元厚。長崎画人伝によると、石崎元章に師事したとあり、古画備考25名画の部には、熊斐の弟子とある。宝暦12年唐絵目利見習となり、翌年唐絵目利兼御用絵師となった。天明4年、48歳で死去した。

広渡猪三郎(不明-不明)
広渡湖秀の子。石崎元章に師事した。

広渡湖月(不明-1807)
広渡湖秀の子。通称は八左衛門、字は清輝。熊斐の高弟である真村蘆江に師事して南蘋風の画法を修めた。文化4年死去した。

広渡虎蔵(不明-不明)
石崎融思に学び、唐絵目利になった。

広渡作三郎(不明-不明)
石崎融思に学び、唐絵目利になった。

広渡為八郎(1795-1860)
寛政7年生まれ。石崎融思に学び、唐絵目利となった。文久元年、66歳で死去した。

広渡湖峰(不明-不明)
広渡系の画人に師事して広渡の名称を譲り受けたと考えられる。

広渡大輔(1806-1844)
文化3年生まれ。通称は大輔、諱は元貫。出島組頭を勤めていた川村伊兵衛の子で、唐絵目利の広渡為八郎の養子になった。弘化元年、39歳で死去した。

広渡丈輔(1826-1846)
文政9年生まれ。大輔の跡を継いで唐絵目利になった。弘化3年、21歳で死去した。

広渡桂洲(1833-1866)
天保4年生まれ。もと小林氏。はじめ敬蔵といい、さらに盛之助と改めた。諱は宗信、字は子恭。居を吟秋軒と称し、吟秋軒主人とも号した。はじめ叔父の荒木千洲に画法を学び、養子となり、さらに広渡姓を名乗った。広渡氏由緒書では広渡大輔の弟となっいる。嘉永元年、大輔の跡を継いで16歳で唐絵目利となった。慶応2年、34歳で死去した。

黒川正山(不明-不明)
『長崎人書画源流』に広渡一湖の弟子とある。

西村嬾竜(不明-不明)
『長崎人書画源流』に広渡一湖の弟子とある。