松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

佐賀美術協会の創立と佐賀出身の画家たち

2017-06-16 | 画人伝・佐賀


文献:佐賀幕末明治500人、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

大正2年、東京上野の茶屋に久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀県出身の画家が集まった。メンバーは久米、岡田のほかに、田雑五郎、山口亮一、御厨純一、北島浅一、さらに藤田遜ら東京美術学校の在学生たちも加わった。この会合で佐賀で展覧会を開くことが決まり、さっそく佐賀美術協会が創設された。第1回展の出品者は、日本画が高取稚成、納富介次郎、水町和三郎ほか7名。洋画は久米桂一郎、岡田三郎助、小代為重、高木背水、松本弘二ほか8名だった。第12回展からは公募となり、「佐賀の帝展」と称され、佐賀の美術家を多く輩出した。昭和に入るとアバンギャルド運動を展開した古沢岩美や池田龍雄が活躍、最後の美人画家と称された立石春美も佐賀出身である。

高取稚成(1867-1935)
慶応3年神埼郡東脊振村松隈生まれ。通称は熊夫。別号に山桜がある。土佐派を学んだ。文展に出品し、審査員もつとめた。また、宮内省嘱託となり、大正天皇御大典の九大絵巻、伊勢神宮遷宮絵巻などを描いた。明治神宮絵画館には、「征東大正軍京都御出発の図」の壁画がある。晩年は宮内省御用のみを描いた。昭和10年、69歳で死去した。

腹巻丹生(1877-1951)
明治10年神埼郡千歳村渡瀬生まれ。本名は勝太郎。明治36年東京美術学校日本画科を首席で卒業。佐賀高等女学校教諭、熊本県鹿本中学、佐賀龍谷中学、成美女学校、有田工業学校の教諭を歴任した。昭和4年神埼高等女学校教諭を最後に退職。晩年は千歳村の自宅「七合庵」の画室で制作に専念した。教え子に古賀忠雄がいる。昭和26年、74歳で死去した。

高木背水(1877-1943)
明治10年佐賀市生まれ。本名は誠一郎。義兄に広津柳浪がいる。明治22年に上京し、26年頃に岡田三郎助を知り、翌年大幸館画塾に入り堀江正章らの指導を受け、のちに白馬会洋画研究所に通った。明治36年ベルツ博士の朝鮮行に同行、翌年渡米し39年に帰国した。さらに明治43年には渡英、滞英中にロイヤル・アカデミーにも出品した。大正4年「明治天皇像」を制作。同年から8年まで朝鮮に滞在し、9年に再渡欧した。その後朝鮮美術展設立に尽力し、帝展、光風会展、白日会展にも出品した。昭和18年、67歳で死去した。

三根霞郷(1883-1946)
明治16年武雄市生まれ。本名は貞一。多良尋常小学校から明治30年長崎尋常中学校入学したが、翌年退学。明治33年に洋画を志し上京した。翌34年小山正太郎の画塾不同舎に入門し、青木繁、坂本繁二郎らと知り合う。明治37年帰郷し、翌年から肖像画揮毫を仕事とした。その後は佐賀市に移り住んだ。明治41年に青木繁の来訪を受けた記録が残っている。明治42年シベリア経由でフランス留学を志し、ウラジオストックに2年間滞在し、44年に帰国した。大正1年伊万里円通寺に参禅。大正3年からはたびたび京都に滞在した。昭和9年小倉山滝口寺が創建され堂主として隠棲した。昭和21年、63歳で死去した。

武藤辰平(1894-1965)
明治27年佐賀市生まれ。佐賀中学校で森三美に洋画の手ほどきを受けた。同級生に池田幸太郎がいた。大正2年佐賀美術協会設立に参加。大正5年第5回光風会展に出品。大正9年東京美術学校西洋画科を卒業した。昭和5年に渡仏、サロン・ドートンヌに入選した。昭和9年に帰国し、渡欧作品展を佐賀市公会堂で開催した。昭和40年、71歳で死去した。

松本弘二(1895-1973)
明治28年佐賀市生まれ。明治45年佐賀中学校を中退、高木背水を頼って上京した。大正3年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝の指導を受けた。このころ広津和郎と知り合う。大正6年雑誌「解放」の編集に関与し、アルス企画部長をつとめるなど出版活動に従事した。明治10年二科展に初入選。昭和4年に渡仏し、グラン・ショミエールで学び、昭和6年に帰国、同年新美術家協会に入った。昭和36年二科会理事となり、45年には二科展で内閣総理大臣賞を受賞した。昭和48年、78歳で死去した。


北島浅一ら東京美術学校に学んだ佐賀の洋画家

2017-06-12 | 画人伝・佐賀


文献:東京藝術大学百年史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

明治20年に東京美術学校が創設され、29年に西洋画科が新設されると、佐賀県の若者たちも上京して洋画を学ぶようになった。明治期に東京美術学校西洋画科に学んだ佐賀県出身の者としては、明治35年に入学した陣内貞義が最初である。次いで、38年入学の北古賀順橘、39年の山口亮一、中溝四郎、40年の北島浅一、御厨純一、41年の藤田遜がいる。40年入学の北島と御厨は卒業後はともに渡仏、帰国後は美校の同期生「40年社」の同人たちや、先輩の青山熊治、吉田久継らと昭和4年に第一美術協会を結成した。かれら東京美術学校の卒業生たちは地元で指導的な役割を果たし、佐賀の洋画振興に貢献した。

北島浅一(1887-1948)
明治20年小城郡牛津町生まれ。小城中学校を卒業して上京、本郷研究所に学んだのち、明治40年東京美術学校西洋画科に入学した。同級生には萬鉄五郎や同郷の御厨純一らがいる。明治45年に同校を卒業し、同年第1回光風会展に3点出品。大正2年には第7回文展に初入選した。その後、大正8年に渡仏しアカデミー・コラロッシに学んだ。滞仏中には大正10年サロン・ドートンヌに入選、翌11年に帰国した。大正13年に白日会に参加した。この頃満谷国四郎の家の離れに住んでいた。大正14年第6回帝展で特選受賞。昭和4年第一美術協会創立に参加した。昭和23年、62歳で死去した。

御厨純一(1887-1948)
明治20年佐賀市高木町生まれ。明治39年佐賀中学校を卒業、上京して白馬会菊坂洋画研究所で長原孝太郎に学んだのち、明治40年東京美術学校西洋画科に入学した。同級生に同郷の北島浅一がいる。明治45年同校を卒業、卒業制作が学校買い上げとなった。大正4年に美術学校の同窓生と40年社を組織して同人となった。大正15年渡欧、パリではサロン・ドートンヌ、サロン・ナショナルに出品した。昭和3年に帰国、翌4年に青山熊治、片多徳郎らと第一美術協会を創立した。昭和12年海軍省の委嘱となり海洋美術協会会員となり、その後は海軍従事画家として多数の戦争画を発表した。昭和23年、62歳で死去した。

山口亮一(1880-1967)
明治13年佐賀市生まれ。6歳の時に佐賀市与賀町の医師・山口亮橘の養子となった。佐賀中学校、早稲田中学校を経て、明治39年に東京美術学校西洋画科に入学した。明治43年第4回文展に初入選し、以後官展に出品した。翌年美校を卒業し帰郷。大正2年岡田三郎助らの指導を得て佐賀美術協会を創設。大正10年佐賀師範学校に勤務。大正13年与賀町に佐賀洋画研究所を設立。昭和21年には佐賀美術工芸研究所を設立した。昭和37年佐賀県知事より文化功労者として表彰された。昭和42年、87歳で死去した。


明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎と岡田三郎助

2017-06-09 | 画人伝・佐賀


文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

黒田清輝とともに日本洋画に外光派の画風を取り入れ、洋画団体白馬会を結成するなど、明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎(1866-1934)は、佐賀城下に生まれ、8歳の時に家族とともに上京した。幼いころから画に関心を示していた久米は、18歳で藤雅三に師事、その後は藤の紹介により渡仏し、外光派の画家、ラファエル・コランに入門した。ここで同門の黒田清輝(1866-1924)と出会い、以後行動をともにすることとなる。

久米より3歳年下の岡田三郎助(1869-1939)も佐賀城下に生まれ、幼いころに上京、同郷の画家・百武兼行の油絵を見て西洋画を志すようになった。明治27年に同郷の久米桂一郎を介して黒田清輝と知り合い、黒田がフランス留学で修得した明快で明るい色調の画風を授かることになる。黒田の清新な色彩感覚に魅了された岡田は、黒田に作品の批評を乞いつつ、初めて屋外の明るい光の下で人物を描くことを試みた。

以降、三人は活動を共にし、明治29年には日本の洋画壇に新境地を拓くべく洋画団体白馬会を結成、明治洋画壇に新風を巻き起こした。

久米桂一郎(1866-1934)
慶応2年佐賀城下八幡小路生まれ。明治7年、8歳の時に家族とともに上京し築地に移り住んだ。9歳の頃には役者絵を写したり、単色版の挿図に着色したり、絵画への関心を示した。明治12年尋常小学校を卒業し、工部大学への進学を望んだが、父の方針で進学せず、父の傍らで左伝、史記、戦国策などの漢籍を読まされた。明治14年に第2回内国勧業博覧会出品のコンテ画を見て西洋画研究を志し、明治17年、18歳の時に藤雅三の門に入った。明治19年に渡仏し、ラファエル・コランに入門、同門の黒田清輝を知り行動を共にするようになる。明治26年に帰国し、黒田とともに天真道場を開設、明治29年には白馬会を創立するなど画壇に新風を吹き込んだ。明治31年東京美術学校教授に就任。その後は制作発表から遠ざかり、美術教育、行政、啓蒙活動などに尽力した。大正11年から昭和6年まで帝国美術院幹事をつとめた。昭和9年、69歳で死去した。

岡田三郎助(1869-1939)
明治2年佐賀城下生まれ。旧姓は石尾。幼いころに上京し、少年期を東京麹町区葵坂の鍋島直大邸で過ごした。そこで見た同郷の洋画家・百武兼行の油絵に深い感銘を受け、洋画を志すこととなった。明治20年小代為重の紹介で曾山幸彦の門に入り徹底した素描教育を受け、曾山の没後は堀江正章に学んだ。明治27年同郷の久米桂一郎を介して黒田清輝と知り合い、黒田、久米が指導する天真道場に入門した。明治29年白馬会の結成に加わり、また、同年新設された東京美術学校西洋画科の助教授になった。翌30年に渡仏し、ラファエル・コランに師事した。留学を通して古代から近代に至る西洋美術の様々な美術思想や表現様式などを学び、帰国後は美校教授に就任、官展の中心作家として活躍した。大正8年帝国美術院会員、昭和9年帝室技芸員となり、昭和12年第1回文化勲章を藤島武二、竹内栖鳳、横山大観らと受章した。昭和14年、70歳で死去した。


百武兼行によってはじまる佐賀洋画

2017-06-06 | 画人伝・佐賀


文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-、佐賀幕末明治500人

佐賀藩最後の藩主となった鍋島直大は、維新後は新政府の要職につくほか、明治4年には政府派遣の欧米視察団としてアメリカに渡り、その後はイギリスに留学した。その時に直大に随行したのが、御相手役として直大に仕えていた百武兼行(1843-1884)である。百武は、明治7年と12年に一時帰国しているが、15年までロンドン、パリ、ローマに滞在し、公務のかたわら洋画の研究を続けた。このイギリスにおける百武の洋画技法の修得によって、佐賀県の近代洋画がはじまることになる。のちに佐賀洋画を牽引する岡田三郎助は、8歳の頃に鍋島直大邸に掛けられていた百武の絵を見て、陰影を入れた絵を描きはじめ、小代為重(1860-1951)は百武を通じてはじめて本格的な油絵にふれることになる。百武は明治15年に帰国し、その2年後に病を得て42歳で没しているが、その存在は佐賀出身の若者が洋画を志す大きなきっかけとなった。

百武兼行(1843-1884)
天保14年佐賀城下片田江生まれ。幼名は安太郎。8歳の時にのちに佐賀藩最後と藩主となる鍋島直大の御相手役となり、終生側近として仕えた。はじめ古川松根に師事して絵を学び、明治4年に英国留学する直大に随伴して渡英、ロンドン、パリ、ローマと公務のかたわら画技習得に励んだ。ロンドン時代は主に風景画を描いていたが、パリでレオン・ボンナに師事して飛躍的に画技が高まり、ローヤル・アカデミーに日本服を着た英国婦人を出品して評判になった。また、明治13年には駐伊特命全権公使としてイタリアに赴任した直大の書記官として随行してイタリアに滞在、マッカリについて洋画を研究した。この頃、外務書記官で経済学を専攻していて、画業は余技だったが、数々の傑作を残している。明治15年に帰国、農商務省に出仕したが、病を得て、明治17年、42歳で死去した。

小代為重(1860-1951)
文久元年佐賀城下生まれ。旧姓は中野、小代家の養子となった。明治8年に上京して慶応義塾幼稚舎に入るが、本科を中退して工部省修技校に学んだ。明治16年千葉師範学校助教員となり、この頃郷里の先輩である百武兼行に油絵の指導を受けたとされる。明治19年工部大学校雇となり、工部大学の造家学教室で曽山幸彦と建築装飾を講じた。明治22年に明治美術会創立に会員として参加したが、退会して明治29年の白馬会創立に参加した。明治33年パリ万博事務員として渡仏し、帰国後は青山学院で教鞭をとった。昭和26年、88歳で死去した。


天龍道人ら肥前佐賀の南画家と岸派

2017-06-02 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀幕末明治の500人

18世紀に入ってから盛んになった南画では、文化6年に92歳で没した異数の人・天龍道人(1718-1809)がいる。天龍道人は、肥前鹿島に生まれ、のちに諸国を漫遊し諏訪で一家を成した。鷹や葡萄の画をよくし、晩年は葡萄和尚と称した。幕末期に文人趣味による画をよくした武富圯南(1806-1875)は、佐賀の文化、学術の発展につとめた。圯南に学んだ柴田花守(1809-1890)は、画論『画学南北辨』を著して絵画界に新風を吹き込んだ。成富椿屋(1814-1907)、高柳快堂(1824-1909)は長崎に遊学し、鉄翁、逸雲について学んでいる。また、写生画では、京都岸派の創始者・岸駒に学んだ小城出身の岸天岳(1814-1877)がいる。

天龍道人(1718-1809)
享保3年鹿島生まれ。鹿島藩家老・板部堅忠の四男。姓は王、名は瑾、字は公瑜。14歳の時に父が佐賀藩主の怒りにふれ改易され浪人となり、道人の流浪の人生が始まる。18歳で長崎に遊学し、沈南蘋の門人・熊斐に学んだとされる。その後諸国を漫遊、随所でその才能を発揮したようである。ある時は龍造寺主膳と称して、尊王論者・竹内式部らとともに国事に奔走し、事破れて姿をくらまし、10年余り経ってから信濃の諏訪にあらわれ、その湖畔の風光を愛してそこのとどまったという。たまたま藩主諏訪家でお家騒動が起こり、これを請われて鎮めたことから名が高まった。藩の勧めにより諏訪に一家を興し、渋河貫之と称して、諏訪の渋川家の始祖となった。鷹や葡萄の画をよくし、天明年間頃から葡萄和尚と称した。文化6年、92歳で死去した。

武富圯南(1806-1875)
文化3年佐賀市白山町生まれ。名は定保、元謨、通称は文之助。別号に密庵、碧梧樓などがある。武富坦堂の孫、安貞の子。幼いころから学問を好み、中村嘉由について経学を学んだ。壮年になって江戸に3年間遊学し、帰郷後は弘道館の教授となった。詩文、書画、音楽をよくし、佐賀の文化、学術の発展につとめた。明治8年、68歳で死去した。

牛島藍皐(不明-不明)
名は璋、通称は和三郎。別号に越山道人がある。武富圯南の幼少の頃の師。伊万里の人でのちに佐賀城下白山町に住み、儒者・古賀朝陽、古賀穀堂らと交わり画をよくした。

柴田花守(1809-1890)
文化6年小城生まれ。姓は紀氏。小城藩士・柴田礼助の子。6歳の時に武富圯南、牛島藍皐に学んだ。画にすぐれ、画論『画学南北辨』を著して絵画界に新風を吹き込んだといわれる。書画、和歌をよくし、端歌「春雨」は長崎遊学の歳、丸山の料亭「花月」で作ったものといわれる。明治23年、82歳で死去した。

成富椿屋(1814-1907)
文化11年蓮池生まれ。名は鵬明。別号に荷笠漁者がある。旧蓮池藩士。蓮池藩主に仕え、そのかたわら剣道、砲術を修めた。安政・万延の間、藩主鍋島直與の兵制改革に際して長崎に派遣され、洋法を学んで帰藩し、指南役となり藩兵を養成した。画ははじめ佐賀の中島藍皐に学び、のちに長崎で鉄翁および木下逸雲に学んだ。有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治40年、93歳で死去した。

高柳快堂(1824-1909)
文政7年久保田生まれ。名は高致、通称は文次。武富圯南に漢学、画法を学び、のちに大阪で篠崎小竹らに学び、特に詩文に励んだ。画は鉄翁、中林竹洞、田能村直入に学んだ。明治42年、86歳で死去した。

岸天岳(1814-1877)
文化11年小城生まれ。名は譲、通称は英作、または俊平。別号に天岳、取長堂、吟龍軒、梅津、漁耕、無聲書屋がある。のちに佐賀藩士・小林氏の養子となった。幼いころから画を好み、12歳の時に藩侯に従って上京、巨勢家の門に入った。天保5年に岸駒に師事して岸姓に改めた。星巴の紋を用いることを許され、譲の名を与えられた。天岳の号は天山に因むものと思われ、花鳥のほか虎図をよくした。明治10年、63歳で死去した。


名所図会絵師として名を高めた長谷川雪旦と唐津藩

2017-05-29 | 画人伝・佐賀


文献:江戸の絵師 雪旦・雪堤 その知られざる世界、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志

唐津藩の御用絵師としては、文化14年以降この地を治めた小笠原氏の絵師となった江戸の画家・長谷川雪旦(1778-1843)が知られている。雪旦は、40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となり、藩主小笠原長昌と一緒に唐津に随行した時の道中の景観や様子を画帖に仕立てている。唐津には2度ほど滞在し、江戸ではあまり見ない構図や画題の漢画系の作品を残しているが、文政6年の長昌の没後は唐津藩とは疎遠になったようである。雪旦とその子・長谷川雪堤(1813-1819)は唐津に住むことはなかったが、雪堤の門人で長谷川姓を名乗った長谷川雪塘(1836-1890)は唐津に住み、この地で維新後に没している。

国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」と称した、父子の大量の下絵、模写類の作品群が一括保存されている。それらによる近年の研究調査では、長谷川雪旦の師として長谷川雪嶺の名が確認されている。雪嶺は雪舟の十三代目を名乗る絵師で、雪旦の模写の中には、雪嶺や雪舟の作品が複数存在する。また、雪堤にも狩野派を含むそれに類する漢画系の模写がある。模写の中には、琳派風、円山四条派風、伝統的な仏画なども認められることから、父子は流派の枠を超えて、様々な絵を学んでいたと推測される。

雪旦の名前を一躍有名にしたのは、斉藤月岑が祖父・父を継いで三代で編纂した『江戸名所図会』に挿絵を描いたことによる。本書は、天保5年と7年の2度に分けて刊行されたもので、雪旦は650景にもおよぶ挿絵を描いている。子の雪堤も、相模国の名所旧跡のうち、徳川家康由来の事績を記録した地誌『相中留恩記略』に挿絵を描き、父親同様、名所図会画家として名を高めた。

長谷川雪旦(1778-1843)
安永7年生まれ。本姓は後藤、名は宗秀、俗称は茂右衛門、または長之助。別号に一陽庵、巌岳斎、岩岳斎、岳斎がある。住居は下谷三町橋(現台東区)で、元来彫刻大工と伝わっているが詳細はわかっていない。俳諧を好み、五楽という俳号で文人たちとの交流も盛んだった。斉藤月岑が祖父・父を継いで三代で編纂した『江戸名所図会』の挿絵を担当した。40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となったが、その詳細は分かっていない。実際に唐津および周辺を歩いてスケッチを残しているようではあるが、文政6年の長昌の没後は疎遠となった。のちに法橋となり、晩年には法眼の位を得た。天保14年、66歳で死去した。

長谷川雪堤(1813-1819)
文化10年江戸生まれ。名は宗一。別号に梅紅、巌松斎などがある。画は父に学んだ。父親譲りの技量を発揮し、風景画や人物画を主とする作品を多く残している。幕府の地誌編纂係りとも繋がりのある相模国藤沢渡内村の名主・福原高峰の依頼により、相模国内の家康有縁の名所や旧蹟を記録した地誌『相中留恩記略』に挿絵を描いた。さらに『成田名所図会』にも挿絵を描いており、父親同様、名所図会画家として名を高めた。明治15年、70歳で死去した。

長谷川雪塘(1836-1890)
天保7年生まれ。奥州の人。本姓は清原。庄内藩松田稔左衛門の子。別号に永麟がある。安政3年20歳にして狩野永悳について絵を学んだ。慶応8年、長谷川雪堤の門人として唐津藩の御用絵師となり、姓を長谷川と改めた。廃藩後も唐津江川町に住み、一般の求めに応じて画を描いたため、唐津界隈に多くの作品が残っている。明治23年、54歳で死去した。


草場佩川と多久の先覚者

2017-05-26 | 画人伝・佐賀


文献:佐賀偉人伝 草場佩川、多久の先覚者書画

早い時期から東原庠舎や多久聖廟が創建された多久では、文教の基盤が確立され、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した先駆者を多く輩出した。多久生まれの草場佩川(1787-1867)は、詩歌書画にすぐれ、東原庠舎、弘道館の教授として多くの人材を育てた。その子・草場船山(1819-1887)は、幼いころから頭角をあらわし、東原庠舎の教授となり、さらにその子・草場金台(1858-1933)も書画にすぐれ、佩川、船山を継ぎ、学者として、文人として草場三代と称された。また、同じ多久生まれの石井鶴山(1744-1790)は、佐賀八代藩主・鍋島治茂に才学を認められ藩校弘道館の設立に参画し、藩主の顧問として優遇された。弘道館からは、明治新政府で活躍した佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信らが出ている。

草場佩川(1787-1867)
天明7年多久町生まれ。肥前佐賀藩領の多久家の家臣・草場泰虎の二男。通称は瑳助。3歳にして母から口づてに習った国詩を暗誦したという。8歳で東原庠舎に入り頭角をあらわし、のちに弘道館で学んだ。画は江越繍浦に学び、特に墨竹を好んで描いた。23歳の時に江戸に出て昌平黌に入学、古賀精里に学んだ。文化8年には第12回朝鮮通信使を迎えるため対馬に派遣され、国書の草案や対応にあたった。東原庠舎、弘道館の教授となり多くの人材を育てた。詩歌書画にすぐれ、多くの作品、著書を残している。慶応3年、81歳で死去した。

草場船山(1819-1887)
文政2年多久町生まれ。草場佩川の長男。名は廉、通称は立太郎。東原庠舎で頭角を表し、19歳で東原庠舎の教官になった。天保12年江戸に遊学し、昌平黌の古賀侗庵に学んだ。昌平黌や大阪で多くの学者と交わり、帰郷後は東原庠舎の教授となり、そのかたわら私塾「千山樓」を開いた。安政2年再び京都に出て勤皇の志士らと交わった。伊万里に啓蒙塾を開いたが、まもなく西本願寺の招きにより京都に出た。多くの作品、著書がある。明治20年、69歳で死去した。

草場金台(1858-1933)
安政5年西町生まれ。草場船山の三男。幼名は謙三郎、字は士行。慶応元年東原庠舎に入学した。明治10年東京外国語学校に入学。明治12年陸軍参謀本部から北京に留学し、帰国後大阪鎮台で中国語を教授。のちに台湾総督府、朝鮮総督府などの通訳官をつとめた。隠居後は京都寺町頭に隠棲し、漢詩、絵画、彫刻三昧で、特に書画にすぐれ、佩川、船山を継ぎ、学者として、文人として草場三代と称された。書画には、絹本彩色の春景山水図、秋景山水図がある。昭和8年、78歳で死去した。

石井鶴山(1744-1790)
延享元年多久生まれ。名は有、字は仲車、通称は有助。幼いころから学問を好み、17歳で東原庠舎の塾頭となった。また、長崎諏訪神社神官青木某に伴われて京都に出て、高葛坡について学んだとされる。のちに佐賀八代藩主・鍋島治茂にその才学を認められ、藩校弘道館の設立に参画し、伴読国学教諭に任じられ、さらに藩主の顧問として優遇された。寛政元年藩主に伴い江戸に赴き、翌2年、摂津において病気のため47歳で死去した。

深江簡斎(1771-1848)
明和8年多久生まれ。通称は三太夫。弘道館に学び、弘道館監察をつとめ、のちに東原庠舎の教授となった。また邑の大監察、鉄砲物頭など諸役をつとめた。著書に多久の地誌『丹邱邑誌』(5巻)がある。嘉永元年、78歳で死去した。


鱗が1枚欠けた蟠龍・御厨夏園による多久聖廟の天井画

2017-05-22 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志

佐賀藩多久領四代領主・多久茂文(1669-1711)は、幼いころから学問を好み、18歳で家督を相続してからは、多久の人々の教育促進のため、学問所である東原庠舎や、孔子像を安置した多久聖廟を建立、文教の地の基盤をつくった。現在でも多久市は「孔子の里」としてその精神を受け継いでおり、多久聖廟は国の重要文化財に指定されている。

多久聖廟の天井には巨大な蟠龍が描かれており、多久の画人・御厨夏園(不明-1722)の筆とされる。蟠龍とは、とぐろを巻いている龍、天に昇りきっていない龍、うずくまって休んでいる龍のことで、夏園の描いた蟠龍には鱗が1枚欠けている部分がある。これは、まるで生きているような出来栄えの素晴らしさから、夜な夜な天井を抜け出しては人々を驚かすので、鱗を1枚はがして抜け出さないようにしたとの説や、あまりの迫力に龍が飛び去ってしまうのを恐れて鱗を1枚描かずに未完成にしてあるなど、さまざまな伝説が語り継がれている。

御厨夏園(不明-1722)
御厨家は嵯峨源氏の流れを汲み、その末裔。諱は守澄。画を狩野文周に学んだ。多久聖廟内陣の天井板面に蟠龍の巨画を描いた。龍画は朱墨で描かれ、縦12尺横9尺の大画である。門人として江口栄春がいる。正智軒様画像(茂文像)や正善寺の着色絹本仏涅槃図(多久市重要文化財)などの作品が残っている。生年は不明だが、80歳の時の作画が確認されている。享保7年死去した。

多久茂文(1669-1711)
寛文9年生まれ。佐賀藩多久領四代領主。佐賀藩二代藩主・鍋島光茂の三男。2歳の時に多久領三代領主・多久茂矩の養子となり、18歳で家督を相続、佐賀藩多久領四代領主となった。本藩では筆頭家老をつとめた。幼いころから儒学を好み、實松元琳を師として学問に励んだ。東原庠舎、多久聖廟を建立して政教の基本とした。以来、多久は文教の地として多くの人材を輩出した。正徳元年、42歳で死去した。

江口栄春(不明-不明)
「旧多久邑人物小誌」には御厨夏園の弟子とある。また、『多久諸家系図』の「源姓御厨氏系図」には夏園の養子とあり、夏園を継いだ多久の絵師とみられる。専称寺に落款署名のある「十王図」と「観無量寿経変相図」が残っている。


二人の広渡心海と肥前武雄の絵師

2017-05-19 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志

肥前武雄では、広渡雪山の弟にあたる初代広渡心海(1596-1685)が、武雄邑主のお抱え絵師として活躍した。心海の没後は、心海に嫡男がいなかったため、女婿の広渡武則に家督を継がせて絵師としたが、武則の嫡男・権八に子がなく、その技法を継ぐものもおらず、武雄での広渡家は一時途絶えてしまった。一方で、広渡家の支流として、初代心海に学んだ広渡一湖が長崎で唐絵目利となり、その職は代々世襲で継がれるようになった。武雄においては、幕末期になって、第28代武雄邑主・鍋島茂順が、家臣の中から絵の技量に優れた加々良良寛に広渡家を再興させ、2代広渡心海(1806-1888)を名乗らせた。その跡は、子の広渡三舟(1841-1931)が継いだ。二人の心海を区別するため、初代心海を法橋心海、2代心海を良寛心海と呼んでいる。また、白如斎成真(不明-不明)とその子・温古斎(不明-不明)、さらにその子・柏山(不明-不明)も、第25代武雄邑主・鍋島茂昭に絵師として仕え、武雄鍋島家に襖絵などを残している。

広渡心海(初代)(1596-1685)
慶長元年生まれ。法橋心海。広渡雪山の弟。幼名は三弥。別号に幽甫がある。狩野洞雲の門人で、延宝2年から4年までの宮中新院造営の際には、狩野永真、狩野洞雲らと共に招かれ、内侍所、東の間に花鳥画を描いた。寛文4年には法橋に叙された。武雄邑主のお抱え絵師だったが、一時長崎に滞在し、熊本の末次小左衛門(広渡一湖)に画法を伝えた。貞享2年、90歳で死去した。

広渡心海(2代)(1806-1888)
文化3年生まれ。良寛心海。名は加々良良寛。藩武雄邑主・鍋島茂順の家臣・加々良上野守の末裔。江戸で狩野良信の門に学んだ。初代心海の娘婿・広渡武則の子権八に子がなく、心海の家系は途絶えたが、権八を継いで広渡心海を名乗った。法橋心海と区別するため、良寛心海と呼ばれている。明治21年、82歳で死去した。

広渡三舟(1841-1931)
天保12年生まれ。2代広渡心海(良寛心海)の長男。名は文太郎。別号に静嘯斉がある。父に狩野派の画法を学んだ。長崎の武雄屋敷に一年余り滞在し、この間、全国に配布された各種の植物を写生し、その技量の高さで人々を驚嘆させたという。山水花鳥を得意としたが、確認される作品の多くは晩年のもので、鍋島茂義の肖像画なども残っている。昭和6年、90歳で死去した。

白如斎成真(不明-不明)
本名は岩谷周助。名は守成。武雄25代邑主・鍋島茂昭に絵師として仕えた。武雄神社拝殿の合天井に描かれた絵は、白如斎、温古斎父子の筆によるものと伝わっている。また、武雄鍋島家の襖絵なども残っている。

温古斎(不明-不明)
白如斎成真の子と伝わっている。武雄鍋島家の襖に父と描いたほか、杉戸絵などが多く残っている。


佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂とその時代の画人

2017-05-16 | 画人伝・佐賀


文献:鍋島綱茂の文芸、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画

肥前佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂(1652-1706)は、博学で諸芸に通じ、才智無双の殿様として世人に称嘆されたという。幕府の学問を司っていた林家一門、殊に林鳳岡や人見竹洞と懇意にしており、鳳岡、竹洞の詩文集にもしばしばその名がみられる。二代藩主・勝茂の頃までは乱世の時代で、佐賀藩としても儒者を召し抱えることはなく、文章などを書くのは主に僧侶だったが、三代綱茂は学問を好み、詩や書画をよくし、自らも致徳斎と号して画をよくした。それに呼応するかのように綱茂の時代には絵師の名が多くみられる。佐賀市の「与賀神社縁起図」を描いた永永松玄偲(不明-不明)をはじめ、成富独幽、成富峰雪、医術で本藩に仕えながら達磨の画をよくした馬渡高雲らが活躍した。さらに、元禄期の一時期だが、中国から渡来した黄檗僧逸然の画風を汲む河村若元が綱茂に任用された。

鍋島綱茂(1652-1706)
慶安5年江戸生まれ。肥前佐賀藩三代藩主。二代藩主・鍋島光茂の長男。母は上杉氏。幼名は彦法師丸、のちに左衛門佐といった。号は致徳斎、休復、松柏堂、活水、静観堂、適和などがある。文学を好み、詩歌書画をよくし、将軍綱吉に面前で経書を輪講した。父・光茂の建てた「二の丸聖堂」を、西御屋敷に移し拡張するなど、文教の興隆をはかった。著書に『観頤荘記』がある。宝永3年、55歳で死去した。

永松玄偲(不明-不明)
友関斎の子。永松秀精の父。佐賀藩二代藩主・光茂は取り立てられ、延宝6年光茂の夫人に請われて「与賀神社縁起図」を描いた。鹿島市の普明寺に伝わる「涅槃絵」も玄偲の作と伝わっている。

永松秀精(不明-不明)
名は源左衛門。元鍋島弥平左衛門の家臣だったが、寛保2年に絵師として本藩に召し抱えられた。

成富独幽(不明-不明)
名は茂階。諫早三代領主・諫早茂敬の子。のちに成富兵庫助茂安の養子となり、佐賀成富家を名乗った。初代広渡心海に師事した。別号に白雲軒月階がある。

成富峰雪(不明-不明)
元禄の頃の人

馬渡高雲(不明-不明)
医を以って本藩に召された。達磨の画をよくした。元禄中頃の人。


肥前佐賀藩の絵師たち

2017-05-12 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画

肥前佐賀藩においては、初代藩主・鍋島勝茂、三代・綱茂、八代・治茂の代に比較的多くの絵師の名前がみられる。しかし、藩御用絵師の世襲、または門人らによる画風の継承はきわめて断続的だったようである。初代藩主の勝茂の時代には、葉山朝湖、狩野友巴、大園明政、小原友閑斎、広渡雪山らが藩の絵師として名前が残っているが、葉山朝湖(不明-不明)は、藩主の命によって江戸で狩野派を学び江戸に住んでいた時に、藩に対する謀反を企てていたことが発覚、嘉永14年頃に切腹、家系は断裂している。狩野友巴(不明-1654)の跡は門人の大園明政が継いだが、明政は明暦3年に勝茂に殉死したため、その後は続いていない。承応2年に藩絵師となった広渡雪山(不明-1674)も、佐賀本藩においてその跡を継ぐものはいなかった。明暦2年に藩絵師となった小原友閑斎(不明-不明)は、その系譜をつなげてはいたが、享保年間になって子孫の友閑が贋札を作ったことにより家系は断絶、一門による継承もなかった。

葉山朝湖(不明-不明)
龍造寺豊後守信親の二男。本名は藤井氏、のちに姓を葉山と改めた。通称は二介。藩主の命により江戸で狩野派を学び、絵師として仕え江戸に住んでいた。寛永14年頃、藩に対して不穏な謀計を企てたのが発覚、妻子郎党とも佐賀に送還され、のちに切腹を命じられた。唐の李瀚撰の書「蒙求」の故事を好んで描いていた。また、加藤清正の求めに応じて熊本城の障壁画を描いたとも伝わっている。

狩野友巴(不明-1654)
名は友坡、または宗俊。本姓は甲斐氏。朝鮮の役に従ったと伝わっている。承応3年死去した。

大園明政(不明-1657)
名は七兵衛。狩野友巴の門人。明暦3年初代藩主・鍋島勝茂に殉死した。

小原友閑斎(不明-不明)
名は有信。明暦2年より佐賀本藩の絵師となった。鍋島家所蔵の「河上之図」、佐賀市与賀神社所蔵の「七夕の図」などが知られている。

広渡雪山(不明-1674)
祖先は九州探題渋川氏の一族の家来で、藤津郡大草野に渋川氏が浪居するのに従って大草野に住んだ。父の弥左衛門は、画を得意とし、武雄城主・後藤家信に仕えた。雪山は、はじめ武雄鍋島家の絵師として仕え、のちに佐賀本藩の御用絵師となった。朝鮮の役に軍功があり、寛永14年の島原の役には、兄の万右衛門とともに絵図方として従軍したと伝わっている。兄の没後、その未亡人を妻として跡を継いだ。周継雪村の門人と伝えられ、雪村の画風を慕い、墨竹梅、山水をよくした。延宝2年死去した。