松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

制作と評論を並行して行ない前衛美術の世界を切り開いた瑛九

2018-03-30 | 画人伝・宮崎

カオス 瑛九 1957年

文献:瑛九とその仲間たち展、瑛九とその周辺、瑛九 フォト・デッサン展、モダニズムの光跡、浦和画家とその時代

宮崎を代表する画家に、既成の美術団体や権威主義を拒否し、独学で前衛表現の道を切り開いた瑛九(1911-1960)がいる。宮崎市に生まれた瑛九は旧制宮崎中学校を中退し、14歳で上京、日本美術学校に入学するが、ここも1年あまりで退学した。この頃から美術評論を手がけるようになり、16歳で「アトリエ」「みずゑ」などの美術雑誌に美術評論を執筆、その後も制作と評論を並行して行ない、フォト・デッサン、油彩画、エッチング、リトグラフ、ガラス絵など、幅広い分野で常に新しい技術を用いた表現を試みた。

16歳で美術評論家デビューした瑛九は、宮崎と東京を行き来しながら油絵の制作にも取り組んだ。しかし、公募展では思うような結果が出せず、19歳の時にオリエンタル写真学校に入学、写真技術の基礎を固めるとともに、写真評論も始めた。その後も宮崎で油絵の制作にはげむが、帝展、二科展など、どれも落選した。25歳の時にデッサンと印画紙を使った「フォト・デッサン」を創始、作品集『眠りの理由』を刊行し、その幻想的表現が注目を集めた。この時から瑛九(Q・Ei)の名を使うようになった。

26歳の時に抽象美術を標榜する自由美術家協会の創立に参加、第1回展にフォト・コラージュによる「レアル」シリーズを出品した。この頃、ガラス絵、点描による作品、油彩による抽象作品を制作していたが、その後、印象派的な写実に取り組んだり、東洋的なものへの回帰を見せるなど、模索の時代が続いた。

40歳の時に自由と独立の精神で制作することを主張し、デモクラート美術家協会を結成。この年に埼玉県浦和に転居、ここを生涯の地とした。この時期には、エッチングやガラス絵を制作するとともに、リトグラフによる実験的表現にも取り組み、エア・コンプレッサーによる吹き付けの作品も制作した。表現は次第に点描に移行、抽象的な油彩作品を多数制作していたが、病に倒れ48歳で死去した。

瑛九(1911-1960)
明治44年宮崎市生まれ。本名は杉田秀夫。眼科医・杉田直の二男。父の直は作郎と号した日向俳優の先駆者で、祖父は国学者であり歌人だった。大正13年旧制県立宮崎中学校に入学したが1年で中退して上京、日本美術学校洋画科に入学し油絵の制作を始めたが、ここも1年あまりで退学した。この頃から、「アトリエ」「みずゑ」などの美術雑誌に美術評論を執筆した。昭和5年、オリエンタル写真学校に入学、写真評論も手がけた。昭和10年郷里の宮崎で「ふるさと社」を結成。翌年フォト・デッサン集「眠りの理由」を瑛九(Q・Ei)の名前で発表。昭和12年自由美術家協会の創立に参加するが、翌年退会。昭和15年再び自由美術家協会展に出品して会友となるが翌年再び退会、昭和24年自由美術家協会会員に復帰した。昭和26年自由と独立の精神で制作することを主張しデモクラート美術家協会を結成。この年、埼玉県浦和に転居、生涯の地とした。昭和35年、48歳で死去した。


宮崎の水彩画発展に貢献した古川重明と版画の黒木貞雄

2018-03-29 | 画人伝・宮崎

人物(読書)古川重明

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、宮崎の洋画100年展、郷土作家美術コレクション展、宮崎近代美術創成期の美術家

宮崎の水彩画発展に貢献した画家として宮崎市の古川重明と、えびの市の吉田敏がいる。二人とも小中学校の美術教師をしながら水彩画を描き、主に日本水彩画会展に作品を発表した。古川は、宮崎の庶民生活を主題に描き、戦後は日本水彩画会の県支部長をつとめた。また、小説やラジオドラマを書いたり、新聞にカットや子ども向きの物語を連載したりと様々な方面で活躍した。

版画では、延岡市の黒木貞雄がいる。黒木は中学校の美術教師のかたわら、郷土をテーマに風景や石仏、郷土芸能などを多色刷りの木版画で色鮮やかに表現し、日本版画協会や国画会を舞台に活躍した。昭和38年に延岡市で開催した個展の際には、棟方志功が「兄の豪気あふれる充実された気魄と豊麗なる色彩は正に堂々の域を超えて真実なる版画の動脈に入っているのだ」と評している。長男の郁朝、二男の良典も木版画家として活躍した。

古川重明(1901-1956)
明治34年宮崎市生まれ。大正10年宮崎県師範学校を卒業し、県内の小中学校の教師をした。昭和9年戦後の宮崎美術協会の創立に参加、日本水彩展に出品し入選を重ねた。日本水彩画会においては戦後も県支部長をつとめながら出品、会友となった。戦後の県水彩画の発展に貢献した。昭和31年、55歳で死去した。

吉田敏(1915-1965)
大正4年えびの市生まれ。昭和10年宮崎県師範学校を卒業した。延岡市立恒富小学校を振り出しに県内の小中学校に勤務しながら制作活動を続けた。戦後、油彩画から水彩画に転向し、日本水彩展に出品。昭和34年の第47回展では日本水彩画会賞を受賞。同年会友に推薦されて以後無鑑査となった。昭和40年には第1回宮崎美術家集団展にも出品した。昭和40年、小林中学校に教頭として在職中、50歳で死去した。

黒木貞雄(1908-1984)
明治41年延岡市東海生まれ。浦々庵とも号した。昭和6年宮崎県師範学校専攻科を卒業後上京、川端画学校で入学、在学中から平塚運一に版画を学んだ。のちに恩地孝四郎にも教えを受けた。昭和10年日本版画協会展に、翌年国展に初入選、以後両展に出品した。昭和13年日本版画協会展で版画道賞を受賞、昭和15年記念大賞次賞を受賞し日本版画協会会員に推挙された。昭和26年延岡市文化功労賞を受賞。昭和32年宮崎県文化賞を受賞。昭和58年置県百年記念教育文化功労賞を受賞した。昭和59年、76歳で死去した。


宮崎県女性洋画家の草分け・落合ラン

2018-03-28 | 画人伝・宮崎

百日草 落合ラン

文献:延岡先賢遺作集(下) 、宮崎近代美術創成期の美術家

落合ランは、宮崎県の女性洋画家で初めて帝展に入選し、宮崎の女性画家の草分けとされる。ランは、明治20年北方町曽木の名家に生まれ、延岡高等小学校を首席で卒業、16歳の時に上京して女子美術学校で学んだ。23歳の時に結婚するが、結婚生活がうまくいかず、宮崎高等女学校で美術教師として1年余りつとめたが、その後再び上京して、本郷絵画研究所で岡田三郎助の指導をうけ、昭和の初め、40歳の頃に帝展に宮崎の女性として初入選した。

落合ラン(1887-1938)
明治20年東臼杵郡北方町曽木生まれ。名は落合蘭子、または落合ラン子。父は菊池慶太郎、母はクマ。北方小学校から延岡小学校高等科を卒業。16歳の時に上京して女子美術学校入学した。のちに落合直文の経営する国語伝習所に入り、卒業後米国から帰国した田添雪江について擦筆画や油絵を学んだ。明治44年東京体育専門学校卒の教師・落合円次郎と結婚したが、性格的な違いなどから結婚生活はうまくいかず、やがて帰郷して宮崎高等女学校の美術教諭を1年余り勤めたが、円次郎の東京勤務を機に再び上京し、本郷洋画研究所で岡田三郎助の指導を受けた。昭和の初め、40歳の頃「花」が帝展に初入選した。その後は台湾から満州へと旅をしていたが、満州の旅先で長男が病に倒れたと知らされ帰国、看護の甲斐なく長男は死去し、ランも疲労が重なり病に伏せ、昭和13年、52歳で死去した。


東京で学んだ宮崎県の洋画家

2018-03-27 | 画人伝・宮崎

冬着のアーニャ 山田新一

文献:宮崎の洋画100年展、郷土作家美術コレクション展、都城美術史、都城 美の足跡、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家

宮崎から新しい美術を求めて東京に向かった画家としては、日本画では山内多門益田玉城大野重幸根井南華があげられる。洋画では塩月桃甫が、東京美術学校に学び、その後台湾に渡っている。塩月に続いて東京をめざした洋画家としては、山田新一、鱸利彦、出水勝利、末原晴人、岩下資治、小野彦三郎、落合ランらがいる。

山田新一は、東京美術学校卒業後朝鮮に渡ったが、戦後は京都に住み、日展、光風会の重鎮として活躍した。千葉県出身で、幼少時を宮崎で過ごし鱸利彦は、東京美術学校で学び、卒業後は旺玄社、二科会、一陽会などに所属したが、いずれも退会して以後は無所属として個展を中心に作品を発表、一貫して穏健な自然美を追求した。出水勝利は、東京美術学校卒業後は宮崎で教職につき、宮崎県美術協会の設立に参加、会長として美術団体の育成と会の運営に尽力した。

日南高校に勤務したのち千葉県に移り住んだ岩下資治は、一水会会員として活動、一貫して千葉県の花畑やそこで働く女性を明るい色彩で描いた。末原晴人は、白を基調とする「地中海シリーズ」を手がけ、具象だけでなく抽象も描くなど幅広い画風を展開した。小野彦三郎は、帝国美術学校に学んだ後、創元会、日展で活躍、のちに渡欧し、独自の大和絵風の風景画を完成させた。

山田新一(1899-1991)
明治32年台北市生まれ。父の転勤により青森、小樽、東京、栃木を転々とした後、旧制都城中学校に入学、図画教師・野村房雄に絵画を学んだ。大正6年に上京して川端画学校に入学、佐伯祐三らと交友した。翌年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事した。大正12年から京城に移住し、高等学校で教職についた。昭和3年に渡欧し、パリでアマン・ジャンに師事。帝展、朝鮮美術展で入選、受賞を重ね、昭和16年朝鮮総督から美術功労者として表彰された。終戦直後はGHQからの依頼で戦争記録画の収集を行なった。戦後は京都に住み、日展、光風会展に出品、日展参与、光風会名誉会員をつとめた。平成3年、92歳で死去した。

鱸利彦(1894-1993)
明治27年千葉県生まれ。明治29年に宮崎市に移住し、幼年期を宮崎で過ごした。明治45年旧制県立宮崎中学校を卒業。大正2年東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝らに師事した。大正7年同校を卒業し、昭和5年パリに2年間留学した。昭和21年二科会会員になった。昭和25年に共立女子大学教授に就任。昭和30年に二科会を退会し、一陽会を創立したが、昭和40年に同会を退会し、以後無職として活動、個展を主として意欲的に作品発表を行なった。平成2年には宮崎県文化賞を受賞。平成5年、98歳で死去した。

出水勝利(1906-1990)
明治39年南那珂郡北郷町生まれ。旧制県立飫肥中学校で柏原覚太郎に指導を受け、東京美術学校に進んだ。同校卒業後は旧制県立飫肥中学校をはじめ、兵庫県立伊丹高等女学校、兵庫県師範学校、昭和21年には宮崎師範学校につとめ、昭和24年宮崎大学学芸学部教授となった。また、宮崎県美術協会の設立に参加し、昭和45年に会長に就任、美術団体の育成と会の運営に尽力した。昭和62年に宮崎県文化賞を受賞。平成2年、84歳で死去した。

末原晴人(1907-1990)
明治40年大阪市生まれ。明治43年父の故郷である都城市に転居した。大正15年県立都城商業学校を卒業し上京。同舟舎洋画研究所、川端画学校に入り、藤島武二にデッサンを学んだ。昭和8年から都城市立明道小学校教員をはじめ、旧制都城中学校、泉ヶ丘高校、宮崎南高校、宮崎女子短期大学で教職についた。昭和26年日展、光風会展に初入選し、以後両展に出品を続け、昭和35年光風会会員となった。昭和40、41、47年に渡欧、白を基調とする「地中海シリーズ」を手がけた。昭和41年宮崎県文化賞を受賞した。平成2年、83歳で死去した。

岩下資治(1908-1989)
明治41年串間市生まれ。旧制県立飫肥中学校卒業後、東京美術学校図画師範科に進んだ。昭和4年同校卒業、二科展に入選し、昭和16年まで出品を続けた。昭和18年まで千葉県で教師をつとめた。終戦後帰郷し、県立日南高校で昭和14年に退職するまで美術を教えた。その間、県展(現宮日展)にも出品、奨励賞を受賞した。昭和45年に再上京し、その年から一水会展に出品を続け、昭和52年会員となった。平成元年、81歳で死去した。

小野彦三郎(1912-1971)
明治45年小林市生まれ。昭和7年旧制県立小林中学校を卒業。はじめ川端画学校で学び、のちに帝国美術学校に入学、昭和13年同校を卒業した。大久保作次郎に師事し、昭和17年文展に初入選、同年創元展で創元賞を受賞した。昭和24年には日展で特選となった。昭和28年から2年間政府留学生として渡仏し、昭和30年に帰国した。昭和32年に創元会を退会し、翌33年に十一会の結成に参加し創立会員となった。その後、十一会も脱会して無所属として活動、毎年個展を開催した。昭和40年と41年には県展(現宮日展)の審査員をつとめた。昭和46年、59歳で死去した。


台湾美術振興に大きく貢献した塩月桃甫

2018-03-26 | 画人伝・宮崎

舞子 塩月桃甫

文献:台湾を描いた画家たち、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、 東京美術学校に学んだ郷土の画家、郷土作家美術コレクション展

宮崎県西都市に生まれた塩月桃甫(1886-1954)は、宮崎師範学校を出て東京美術学校に進んだ。卒業後は大阪の浪華小学校、松山の師範学校で教師をつとめ、松山では、高浜虚子ら文人と交流、南画風の作品も残している。その後、妻子を伴って台湾に渡り、彼の地で25年間制作に励み、また、台湾における美術振興にも尽力した。しかし、情熱をそそいだ台湾美術展覧会の審査委員問題などで糾弾され、多くの作品を残したまま、住みなれた台湾を引き揚げることとなった。

大正10年、36歳の時に台湾に渡った塩月は、台北一中と台北高校で教師として美術教育に携わった。在職中の塩月は教師に義務付けられていた官服は一度も身に付けず、教育方法は当時では珍しい個性と創造を重んじた自由主義教育法だったという。昭和2年に創設された台湾美術展覧会(台展)では第1回展から運営と審査に携わり、日本画壇から藤島武二や梅原龍三郎らを審査員として招くなど、台湾の美術振興に情熱をそそいだ。

また、昭和6年には日本の「独立美術協会」の台北巡回展を開催。この展覧会は、台日新報で「大いに在台の画家たちを刺激し(中略)眠れる画壇を刺激した」と評されるなど、革新的展覧会として受け入れられ、その結果、台湾では新興洋画会、台野美術協会、台湾美術連盟などの在野の美術団体が次々と設立されることとなった。しかし、このことが原因で台湾の美術界の分裂を招くことにもなった。

当時の台湾には塩月より14年早く渡っていた水彩画の石川欽一郎(1871-1945)が育てた台湾人画家を中心とする石川派が勢力を占めていた。石川派は自然主義的な画風を主としていたが、塩月が開催した独立美術展以降は、絵画の主流は新興絵画へと移っていき、時代の趨勢もあり、石川派の勢力は弱まっていった。そんな折、第9回の台展で、それ以降の台展では台湾人の審査委員が取り消されることとなり、これが塩月による「台湾人審査委員はずし」とされ、塩月への反発は強まっていったのである。

台展の「台湾人審査委員はずし」がどのような意図で行なわれ、塩月の意志なのかどうかは定かではないが、塩月は台湾人を審査委員から排斥した張本人とされ、台湾を追われることとなった。多くの作品を台湾に残し、昭和21年に宮崎に引き揚げた際には、絵の具も買えないほど逼迫した生活だったというが、そんな中でも旺盛な制作活動を展開し、後進を育て、戦後の宮崎県美術のリーダーとして活躍した。

塩月桃甫(1886-1954)
明治19年宮崎県西都市三財生まれ。本名は善吉。旧佐土原藩士永野家の三男。都農町の塩月家の養子になった。宮崎県師範学校に学び、教職につくが、絵画への道を志して東京美術学校に進み、明治45年に卒業。大阪、松山で教師としてつとめながら画業に励み、大正4年文展に初入選した。大正10年台湾に渡り、台湾美術界の振興に努めた。昭和21年宮崎に引き揚げ、宮崎大学講師と県展(現宮日展)の審査員をつとめるなど宮崎県美術界に大きく貢献。昭和27年宮崎県文化賞を受賞した。昭和29年、69歳で死去した。


宮崎の美術教育に尽力したボヘミアン・有田四郎

2018-03-24 | 画人伝・宮崎

霊峰霧島 有田四郎 宮崎県立美術館蔵

文献:明星大学研究紀要第24号「有田四郎-ボヘミアンと呼ばれた芸術家」、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家

宮崎の美術教育に大きく貢献した人物に有田四郎(1885-1946)がいる。有田は東京に生まれ、幼時を熊本県で過ごした。東京美術学校では黒田清輝に師事し、和田英作とも親しく交流した。熱心なキリスト教信者で在学中に洗礼を受けている。歌人、著述家としての顔も持ち、芥川龍之介や有島武郎ら多くの文化人たちと交流した。

また、ボヘミアンと称されるほどに旅を好み、田園生活にあこがれて転居も繰り返した。宮崎には大正14年に訪れ、農耕にたずさわる一方、旧制県立延岡中学校、高鍋中学校、宮崎師範学校で美術教師として教鞭をとった。独特のヒゲを蓄えていたことから延岡中学の学生からは「延中の沙翁(シェークスピア)」と呼ばれ慕われた。

そのヒゲ面に蝶ネクタイをキリリと締めた有田の姿に、教え子たちは「さすがは美術教師、時代の先端を行くスタイリストだ」と惹き付けられ、東京の美術学校を目指すものが急増した。旧制県立延岡中学校での教え子からは、東京美術学校西洋画科に岡田和夫と高見清一、彫刻科に渡辺小五郎、漆工科に今村亨が進学した。また、平原美夫、河野扶らが有田の薫陶を受けて美術の道に進んだ。

有田四郎(1885-1946)
明治18年東京生まれ。雅号に残暮庵、ペンネームに田沢藤郎がある。明治36年東京美術学校洋画科に入学、黒田清輝に師事、和田英作と交流した。在学中の明治40年第1回文展入選、その後も文展出品。黒田らが創設した白馬会展にも2度参加した。熱心なキリスト教信者として本郷教会に所属し、在学中に洗礼を受けている。明治44年秋から翌春にかけて、南方への旅に出た。大正4年から鎌倉に転居、芥川龍之介や有島武郎ら文化人たちと交流した。大正12年関東大震災後は愛媛県に転居、大正14年に宮崎県富高町伊勢ケ浜に転居した。昭和2年に旧制県立延岡中学校、昭和10年に宮崎県師範学校の美術教師となり、宮崎の美術教育に尽力した。昭和17年に東京に引き揚げ、エッチングを手がけた。昭和19年瀬戸内海に憧れ香川県に転居。宮崎在住時からのスケッチをもとに水墨や淡彩の制作に励んだ。晩年は仏画も描いた。昭和21年、61歳で死去した。

岡田和夫(1910-1937)
明治43年延岡市生まれ。旧制延岡中学校で有田四郎に学び、東京美術学校に進学、在学中に帝展に初入選し、卒業制作は奨励賞を受けた。将来を嘱望されたが、昭和12年、27歳で死去した。

高見清一(1912-1964)
明治45年延岡市生まれ。旧制延岡中学校で有田四郎に学び、東京美術学校に進学した。卒業後は東京の満州映画協会に入社し映画制作に道を歩んだ。新京国展に佳作入選。戦後は開拓者として都農に入植し制作した。昭和39年、52歳で死去した。

平原美夫(1911-1975)
明治44年東臼杵郡東郷町生まれ。昭和5年宮崎県師範学校を卒業後、教職についたが、有田四郎の勧めで上京、新写実派研究所で学んだ。東京の王子中学校で教師をしながら制作に励み、昭和11年文展に入選、昭和13年に一水会展に入選した。昭和14年旧制県立延岡中学校に転任のため宮崎に帰り、その後美術教師として後進の指導にあたった。高鍋高校時代は野球部の指導に力を注ぎ、昭和29年に甲子園出場に導いた。昭和46年の退職後は再び絵筆をとり制作に専念した。昭和49年、64歳で死去した。

河野扶(1913-2002)
大正2年日向市生まれ。昭和5年旧制県立高鍋中学校を卒業。同時に有田四郎に入門し、デッサン、油絵を学んだ。同年東京美術学校の受験に失敗し、翌年川端画学校に学んだ。昭和10年京都の旧制第三高等学校理科甲類に入学。在学中、独立美術協会京都研究所で須田国太郎に人体デッサンを学んだ。昭和16年東京大学理学部数学科を卒業し会社勤めをするが、戦後は大学で数学を教えた。その間制作も続け、昭和35年独立展に出品、会友となったが、その後退会、無所属として活動した。昭和45年教職を辞め、毎年個展を行なった。平成14年、89歳で死去した。


90年の生涯いっぱいに多彩な画業を展開した中澤弘光

2018-03-23 | 画人伝・宮崎

カフェの女 中澤弘光 宮崎県立美術館蔵

文献:生誕140年 中澤弘光展-知られざる画家の軌跡、都城 美の足跡、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家、日本近代洋画名品展-白馬会創立会員を中心に、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流

宮崎出身ではないが、ゆかりの画家に中澤弘光(1874-1964)がいる。中澤は父親が旧佐土原藩士で、東京に生まれた。早くに両親を亡くし、10代の前半から鹿児島の知人を頼って曽山幸彦や堀江正章の画塾に学び、そこで岡田三郎助や和田英作らと出会った。明治29年東京美術学校に入学して黒田清輝に学び、卒業後は白馬会の創立に参加した。明治40年から始まった文展では受賞を重ね、帝展審査員、帝国美術院会員になった。大正に入ると、光風会、日本水彩画会の創立に参加し、48歳の渡欧後には有志とともに白日会を創立した。

洋画家として着実に歩みを進めながらも、装幀や挿絵、旅行記などでも多彩な才能を開花させていった。与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」では早くもアール・ヌーヴォーを意識した口絵を寄せており、鉄幹の妻・与謝野晶子作品の装幀も数多く手がけた。晶子の大作「新訳源氏物語」では、源氏物語に取り組み、中澤独自のデザインを完成させている。与謝野作品のほかにも多くの装幀を担当し、雑誌では「中学世界」「新小説」といった文芸誌を中心に表紙絵や口絵を描き、さらに、新聞の挿絵、絵はがき、ポスターなども手がけた。

また、中澤はその90年の生涯の大半を旅に費やしており、旅の途中に見かけた人々や光景を描いた作品を『日本名勝写生紀行』『畿内見物』などの旅行記に収録、『日本大観』『西国三十三所巡礼画巻』などの木版画集も刊行して人気を博した。

中澤の主要なモチーフのひとつである「舞妓」も旅によって得たもので、明治36年に岡田三郎助とともに京都で描いたのが始まりとされ、その後足しげく京都に通い舞妓や芸妓を描き、のちに土田麦僊と並んで「舞妓の画家」と称されるほどになった。

90歳を迎えた年も旅を続けており、旅の途中で突然体調を崩し、老衰のため息を引き取ったという。

中澤弘光(1874-1964)
明治7年東京生まれ。父親は元日向佐土原藩の藩士。明治20年曽山幸彦の画塾に入り洋画を学び、明治25年の曽山の没後は画塾を引き継いだ堀江正章の大幸館で学び、明治26年第5回明治美術会展に初入選した。明治29年東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝に師事、白馬会の創立にも参加した。明治40年東京勧業博覧会で1等賞を受け、同年第1文展で3等賞となり、以後受賞を重ね、文展・帝展の審査員をつとめた。大正元年に白馬会の解散をうけて光風会を創立、大正2年には日本水彩画会の創立に参加した。大正11年にフランス、イギリス、スペインを歴訪し、帰国後の昭和13年、白日会を結成した。昭和5年帝国美術院会員、昭和19年帝室技芸員、昭和32年文化功労者になった。昭和39年、90歳で死去した。


米国で肖像画家として活躍した伊達孝太郎

2018-03-22 | 画人伝・宮崎

少女 伊達孝太郎

文献:宮崎の洋画100展、20世紀回顧 鹿児島と洋画展、かごしま文化の表情-絵画編、宮崎近代美術創成期の美術家

宮崎における最初の本格的洋画家は、伊達孝太郎(1878-1964)とされる。伊達は、宮崎県高岡町に生まれ、宮崎師範学校を卒業後、旧制小、中学校で図画教師をつとめていたが、明治35年にセントルイスで開催された大博覧会見学のために渡米、そのまま米国に留まり、翌年セントルイスの美術学校に入学した。在学中は全米から選ばれて特待生になるなど優秀な成績を残し、卒業後も選抜試験に合格して、明治40年ニューヨーク美術学校裸体科に入り2年間ここで学んだ。

卒業後はフランスに渡ることを希望したが、第一次大戦勃発のため、パリ行きを断念、セントルイスの肖像画館主任をつとめるなど、肖像画家として活躍した。

大正8年の帰国後は、東京に住み肖像画を描いていたが、関東大震災後に帰郷、しばらく高岡に住んでいたが、のちに鹿児島市に移った。昭和6年には池之上町に伊達洋画研究所を設立、制作のかたわら後進の指導にあたっていたが、研究所は太平洋戦争の空襲で焼失した。戦後は鹿屋市の米軍基地で、進駐軍相手に通訳をしたり、占領軍将校の肖像を描いたりした。

伊達孝太郎(1878-1964)
明治11年宮崎県高岡町生まれ。宮崎県立師範学校を卒業後、明治30年佐賀県の小城中学校に図画教師として赴任。明治35年渡米、翌年セントルイスの美術学校に入学した。明治40年ニューヨーク美術学校裸体科に入学、2年間学んだ。卒業後は第一次大戦勃発のため、パリ行きを断念し、セントルイスの肖像画館の主任をつとめ、アーチスト・ギルド・アートリーグの正会員となった。大正8年帰国し、黒田清輝の推薦により国民美術協会会員になった。大正11年9月9日からの3日間、県議会議事堂で個展を開いている。関東大震災後は、鹿児島市に移り、鹿児島の福山中学校で教鞭をとった。昭和6年には池之上町に伊達洋画研究所を設立し、後進の指導にあたっていたが、太平洋戦争の空襲で研究所は焼失した。戦後は鹿屋市で進駐軍相手に通訳をしたり、肖像画を描いたりした。昭和39年、86歳で死去した。


戦後の宮崎の日本画家

2018-03-13 | 画人伝・宮崎

鵜 大野重幸 宮崎県立美術館蔵

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

戦後を代表する宮崎の日本画家としては、都城市に生まれ山内多門に師事した大野重幸(1900-1988)がいる。大野は、一時疎開で帰郷していた際には都城美術協会の初代会長をつとめ郷里の美術振興につとめた。その後再上京し、院展を舞台に活躍した。ほかには、日本画団体・黒潮会を中心となって設立した松井富民夫(1914-1976)、宮崎県で女性で初めて日展に入選した児玉実枝(1918-1972)、創画会で活躍した塩見仁朗(1929-1996)らがいる。

戦後の宮崎の美術団体としては、昭和24年に宮崎県美術展が始まり、その後の宮崎画壇をリードした。同展は、昭和49年の第26回展から宮日総合美術展と改称され、その翌年から宮崎県教育委員会主催の宮崎県美術展が開催されるようになり現在に至っている。日本画家では、河村春生、宅間古峰らが初期から無鑑査として出品している。

昭和31年には、松井富民夫、黒木亮、服部蕃らが中心となって日本画団体・黒潮会が設立された。これに河村春生、宅間古峰、古峰に学んでいた延岡の東宏静、京都在住の塩見仁朗が加わって、同年第1回展が開催された。その後、昭和34年に彫刻、工芸、洋画の作家、昭和40年には写真の作家、昭和47には書の作家が加わり、同展は総合的な美術団体へと変化していき、昭和53年の解散までに延べ69名が会員として出品した。

黒潮会が創設される前に、宮崎県日本画家協会という団体があり、洋画家の出水勝利が会長をつとめ、黒木亮、大野重幸、服部蕃、東宏静、遠藤裕目らが参加した。3回ほど開催した展覧会では、作品の販売をしていなかったこともあり、次第に会員が減少し、結果として一時的に集まったグループという形で終わった。

大野重幸(1900-1988)
明治33年都城市生まれ。別号に柔剛子がある。大正2年五十市高等小学校を卒業後、都城地区の裁判所に勤務するかたわら、通信教育で日本美術院日本画部に学び、大正7年上京し、翌年山内多門に入門した。大正10年の九州沖縄八県連合美術展入選、大正11年平和記念東京博覧会に入選、昭和5年には帝展に初入選した。昭和7年に多門が没したため川合玉堂に師事した。以後新文展などで活躍したが、昭和20年に疎開のため帰郷、戦後しばらくしては都城で農業をしながら制作し中央画壇から離れた。昭和25年都城美術協会結成にあたり会長となった。昭和29年53歳の時に再び上京、翌年から日本美術院展に入選を続け、昭和50年院展特待となった。昭和36年に宮崎県文化賞受賞した。昭和63年死去した。

河村春生(1904?-1958)
明治37年頃東京生まれ。京都市立絵画専門学校に学び、卒業後は大阪で7年ほど中村貞以に師事した。戦後、三財村(現在の西都市三財)の女性と結婚していた弟を頼り三財村に移住した。昭和33年死去した。

新名柏風(1905-1989)
明治38年大分県臼杵市生まれ。千葉県立高等園芸学校に進んだが2年で中退、川端画学校を経て東京美術学校日本画科に入学した。昭和9年に同校を卒業、松岡映丘の主催する木之華会に入った。昭和13年に延岡高等女学校の美術教師として赴任。昭和23年からは恒富高等学校で教え、かたわら延岡市の美術団体である延岡アートクラブの代表をつとめた。昭和38年に延岡西高等学校に転任し、昭和41年退職。その後も画塾で絵の指導した。教え子からは宮崎県美術展や宮日総合美術展で活躍する画家が多く出ている。昭和63年横浜市に転居、翌昭和64年、84歳で死去した。

宅間古峰(1911-1996)
明治44年高知県生まれ。本名は松亀。大正15年から15年間、四条派の疋田拡邦の内弟子として学んだ。昭和18年日本水墨会同人になった。戦後川南町に移り住み、昭和26年の第3回県展で初受賞。昭和29年には県展無鑑査になった。この間、都農町、延岡市と転居した。昭和34年に全九州県展選抜展で鹿児島市立美術館友の会賞を受賞。昭和38年には延岡市文化賞を受賞した。平成8年、85歳で死去した。

服部蕃(1911-1997)
明治44年宮崎市生まれ。昭和9年に國學院大学を卒業後、県立小林中学校に社会科の教師として赴任した。その後、県立宮崎女子高等技芸学校に転任。日本画は独学だが、同校在学中に同僚の三浦善作に手ほどきを受けている。昭和20年代後半には塩見仁朗にも手ほどきを受けた。昭和28年に県展で奨励賞を受賞し、以後同展で受賞を重ねた。昭和31年に黒潮会創立に参加した。平成9年、86歳で死去した。

松井富民夫(1914-1976)
大正3年台湾生まれ。父は山口県の人。昭和10年に京都市立絵画専門学校に進み、昭和16年に同校を卒業後、鹿児島県立志布志高等女学校に赴任した。昭和23年に同校を辞し、宮崎市のカトリック系の日向学院に赴任した。クリスチャンであり宗教的な題材の作品を多く残している。油彩画も手がけた。昭和51年、61歳で死去した。翌年宮崎市芸術文化功労賞が授与された。

児玉実枝(1918-1972)
大正7年都城高崎町生まれ。号に実津恵、実津衣、璽津依の文字も用いている。高崎尋常高等小学校から都城高等女学校に入学するが2年でやめ、昭和6年福岡県八幡市に移住した。その頃百貨店で開かれていた日本画の個展を見て画家を志すようになり、昭和13年に上京し、田中青坪に師事した。昭和18年に疎開のため高崎町に帰郷。昭和25年上村松園に師事するために京都に出たがかなわず、約2年間京都にとどまり、その間、創造展や新制作日本画部に入選した。昭和27年に宮崎県内女性初で日展に入選。昭和28年中村岳陵に師事した。その後も日展で入選を重ねたが、晩年は闘病を続けながら描いた。昭和47年、54歳で死去した。

塩見仁朗(1929-1996)
昭和4年宮崎市生まれ。昭和22年京都市立美術専門学校に入学し、上村松篁、秋野不矩の指導を受けた。昭和26年に同校を卒業し2年間ほど中学校の教壇に立ったが、その後は日本画の制作に専念した。京都にいながら宮崎美術協会展に参加し、黒潮会には22回のすべての展覧会に出品した。中央では、新制作展で受賞を重ね、昭和44年に新制作協会会員となった。現代美術京都秀作展、山種美術館賞展などにも出品した。平成8年、67歳で死去した。


大正・昭和前期の宮崎の日本画家

2018-03-12 | 画人伝・宮崎

鮎図 甲斐常一

文献:延岡先賢遺作集、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

明治に入って近代日本画が形成されていくなか、明治、大正の空気を反映した作品を制作する日本画家たちが活躍した。宮崎県を代表する日本画家である山内多門益田玉城をはじめ、美人画の丸田省吾、写実的な虎の絵を描いた小山田秋甫、東京美術学校に学んだ秋月可山らのほか、資料は少ないが、日高牧僊、山本泰業、甲斐常一らも同時代の画家である。

日高牧僊(1881-1965)は東京美術学校に入学したが、のちに日本画に転向、帰郷後は宮崎美術協会の委員になっている。山本泰業(1888?-1947)は東京で活動していたが、師から破門され妻の故郷の延岡に移り住んだ。のちに宮崎市に移り、料亭の紫明館などの屏風絵を描いている。終戦のころは進駐軍相手に絵を描いたという。

やや時代は下るが、現在の延岡市北方町曽木に生まれた甲斐常一(1893-1966)は、上京して川合玉堂に学び、鮎を描くことを得意とし、多くの作品を郷里に残している。延岡市立図書館に寄贈された作品は、火災のため焼失している。

日高牧僊(1881-1965)
明治14年国富町生まれ。旧制宮崎中学校を卒業後、明治35年に東京美術学校に入学、翌年西洋画科に進んだが、卒業の記録はなく、なんらかの理由で卒業にはならなかったと思われる。その後日本画に転向しているが、その時期は明らかではない。一時広告会社につとめ、その後帰郷。明治23年の宮崎美術協会の総会で新委員になったという記録がある。昭和40年、84歳で死去した。

山本泰業(1888?-1947)
明治21頃生まれ。若いときの号は挿雲。東京で活躍していたが、師から破門され妻の故郷の延岡に移り住み、のちに宮崎市に移った。宮崎美術協会の副会長をつとめた。昭和22年、60歳で死去した。

甲斐常一(1893-1966)
明治26年北方町曽木生まれ。常一は本名。明治26年北方町曽木生まれ。青年のころ上京し川合玉堂に師事した。昭和5年第2回聖徳太子奉讃美術展覧会に入選、昭和7年帝展に初入選した。鮎を描くことが得意で、郷土に多くの作品が残っている。画人としての生涯は不遇だったが、晩年は埼玉県の子息のもとに身をよせていた。昭和41年、78歳で死去した。


蒔絵にすぐれ日本画も手がけた秋月可山

2018-03-10 | 画人伝・宮崎

武者絵 秋月可山 高鍋町歴史総合資料館蔵

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

大正9年(1920)に発行された「県政評論」では、秋月可山(1867-1932)、土居彩畝(1891-1987)に、延岡から宮崎に移り住んでいた佐藤小皐(1861-1928)を加え「三画人」と称し、「可山は蒔絵を独壇場、彩畝女史は花鳥の天品。一枝の花彼によって生き、一羽の鳥彼によって歌う。女史と小皐で画界の半々をしめる。小皐氏は軽快、瀟洒、平遠、清浅、淡雅、風自らすだれを開き、月自ら軒をうがつ」と評している。

秋月可山は、高鍋藩主秋月家の分家に生まれ、東京美術学校で蒔絵のほか四条派の画を修めた。漆工が専門だったが、東京美術学校の普通科では日本画家に指導を受けており、卒業後も日本画を多く描いた。高鍋町歴史総合資料館には明治42年作の「武者絵」(掲載作品)が収蔵されており、主題は特定できないが、何らかの場面を描いた歴史画と思われる。大正9年には宮崎に後援会「可山会」ができたという。

また、土居彩畝は、夫が宮崎刑務所の典獄だった時期の6年間を宮崎で過ごした。土佐派の荒木寛畝に師事し、日本美術会展で1等賞を受けるなど活躍した。

秋月可山(1867-1932)
慶応3年生まれ。父は高鍋藩主秋月家分家の新小路秋月家・秋月良種。幼名は兎太郎、のちに復郎。別号に紫明、炗雲がある。明治初年に上京し、明治22年に東京美術学校に第1回生として入学した。同校では普通科で2年間学び、専修科は漆工部に進み、明治27年蒔絵科を卒業した。その後、同校で明治29年2月から1年あまり調漆の教師、明治33年のパリ万国博覧会事務官などをつとめ、官命により渡仏し油絵の研究も行なった。また、宮内省で昭和天皇御成婚用の漆塗りの馬車制作にも携わった。昭和7年、66歳で死去した。

土居彩畝(1891-1987)
明治24年東京浅草生まれ。明治33年、9歳の時に荒木寛畝の門に入り、明治34年の第11回日本絵画協会共進会に入選した。以後は師の寛畝が関わった日本美術協会に出品した。明治41年には東宮殿下(後の大正天皇)が日本美術協会を訪れた際の御前揮毫を行なった。明治40年東京勧業博覧会、43年日英博覧会、大正12年から大正15年まで朝鮮美術展覧会に入選した。大正3年に夫が宮崎県典獄補として現在の宮崎市に赴任し、大正10年に朝鮮総督府典獄となって京城に渡るまでの6年間宮崎に滞在し、県内に数点の作品を残している。昭和62年、96歳で死去した。


大橋翠石に私淑した都城の虎の画家・小山田秋甫

2018-03-09 | 画人伝・宮崎

彩色双虎図 小山田秋甫

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

山内多門(1878-1932)や益田玉城(1881-1955)らと同時代の都城の画家に、虎の絵を専門とした小山田秋甫(1873-1927)がいる。秋甫は、幼いころから絵筆をとっていたが、ある時、岐阜の日本画家・大橋翠石(1865-1945)の虎図を見て感嘆し、それ以来翠石に私淑し、独学で虎の絵を専門とする画家となった。虎を描くために自宅周辺にいた猫を観察したり、ひげの描写に実をとった稲穂を用いたりしたという。ほかに、都城の同時代の画家として、菊池栖月、江夏英璋らがいる。

小山田秋甫(1873-1927)
明治6年都城生まれ。本名は篤二。家は染織業を営んでいた。父・篤定は中原南渓に画を学んだ。秋甫も画才があり、幼いころから絵を好み絵筆をとっていたが、虎の絵の第一人者・大橋翠石の虎図を見てから、翠石に私淑し、模写を繰り返し、虎の専門画家になった。音曲や薩摩琵琶も得意とした。昭和2年、東京において54歳で死去した。

菊池栖月(1874-不明)
明治7年都城甲斐元生まれ。本名は武二。別号に芳岳、玉州がある。明治22年から四条派の赤池南鳳、北郷南水について学び、速見晴文、中原南渓のところに行き来した。のちに志布志の重玉峰という人について学んだ。明治27年近衛師団に入り上京、余暇に山内多門と交流した。のちに除隊して帰郷。京都日本美術展覧会その他に出品した。

江夏英璋(1876-1946)
明治9年都城上町生まれ。本名は三之助。別号に漁舟、豊山外史がある。はじめ都城で独学し、のちに上京して川端玉章、川合玉堂に師事した。『都城古今墨蹟集』『江夏家』によると、長野や高田馬場にある寺の壁画を手がけたという。県内に残された作品としては、孔雀や鶴など緻密な花鳥画、山水画、仏教的主題などの作品がある。飫肥城下の旧高橋源次郎家には板絵や襖絵が残されている。昭和21年、70歳で死去した。


多門や玉城と親しく交わり絵を学んだ丸田省吾

2018-03-08 | 画人伝・宮崎

おしろい花 丸田省吾 宮崎県立美術館蔵

文献:都城 美の足跡、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

都城に生まれた丸田省吾(1880-1961)は、従兄である山内多門(1878-1932)や、義兄にあたる益田玉城(1881-1955)と親しく交わり絵を学んだ画家である。省吾は従兄に多門を持つにもかかわらず、家人に画家になることを反対され陸軍技手になるが、画家の夢があきらめきれずに上京、多門や玉城に画の手ほどきを受けた。掲載の作品「おしろい花」は、第8回明治絵画展覧会で褒状2等を受けた作品だが、作風から玉城の影響をうかがうことができる。帰郷後は図画教師となり、教え子には花房芳秋、石川翆村、洋画の野口徳次らがいる。

丸田省吾(1880-1961)
明治13年都城市生まれ。山内多門の従弟。幼いころから画が好きだったが家人の反対で画家になることを許されず、東京築地の工手学校(現在の工学院大学)に進み、明治31年に同校を卒業、陸軍技手として築地部本部につとめ、日露戦争では韓国湾で防衛造物建築などに従事した。しかし、画家になることをあきらめきれず、大正3年に陸軍省をやめ、多門や義兄である益田玉城に絵を学びはじめた。大正5年明治絵画会展に入選、翌年巽画会展入選、大正7年明治絵画会展で褒状を受けた。大正8年に帰郷し、旧制都城中学校の図画教師になり約10年間つとめた。昭和4年退職後、市役所の建築係嘱託となった。昭和36年、81歳で死去した。

花房芳秋(1902-1975)
明治35年都城市庄内町生まれ。本名は義明。別号に芳洲がある。旧制都城中学校で丸田省吾に学んだ後、京都市立絵画専門学校に入学、昭和5年卒業した。帰郷して1年間小学校の代用教員をつとめた後、鹿児島に移り鹿児島実業学校、旧制鹿屋中学校、旧制国分女学校、国分高校に勤務し、昭和37年に退職した。その間、昭和21年の第1回南日本美術展で県知事賞を受賞、のちに同展の審査員もつとめた。昭和50年、73歳で死去した。

石川翆村(1909-1994)
明治42年都城市生まれ。名は主計。旧制都城中学校で丸田省吾に学び、昭和5年に京都市立絵画専門学校に入学、福田平八郎、石崎光瑤、堂本印象らに学んだ。昭和9年第13回関西美術展で特選を受賞。昭和11年同校卒業時には卒業制作が校友会賞を受けた。卒業後一時東京に出て絵の勉強を続けたが間もなく帰郷し、高等小学校の代用教員を1年間つとめた。その後、日南の旧制飫肥中学校に移り、昭和23年からは都城泉ヶ丘高校の美術教師になった。昭和29年から新美術協会展に出品、昭和50年には常任審査員になった。サロン・ドートンヌ、ル・サロンにも入選した。平成6年、85歳で死去した。

野口徳次(1908-1999)
明治41年都城市高城町生まれ。旧制都城中学で丸田省吾に学び、卒業後は代用教員として高城小学校につとめた。同僚の栗谷増雄や宮崎師範の広高群の影響で美術を志し川端画学校を経て、昭和6年東京美術学校に入学、岡田三郎助の教室で学んだ。在学中から光風会展、東光会展に入選していたが、昭和11年の同校卒業後は新聞社で映像などの仕事に携わった。以来、記録映画の制作に没頭。昭和16年には映画コンクールで文部大臣賞を受賞した。昭和23年に退職して帰郷し、都城泉ヶ丘高校高城分校の美術教師になった。昭和33年50歳の時に本格的に制作を再開し、二科展に出品。昭和56年同会会員となった。同年初代都城市立美術館館長に就任した。昭和57年宮崎県文化賞を受賞した。平成11年、91歳で死去した。


第9回文展の美人画室でデビューした都城の美人画家・益田玉城

2018-03-07 | 画人伝・宮崎

現代隅田川風景 益田玉城 都城市立美術館蔵

文献:益田玉城展、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

都城に生まれた益田玉城(1881-1955)は、15歳の時に京都に出て京都市美術工芸学校に入学したが、体を壊し休学して故郷に戻った。失意の玉城を励ましたのは同郷の山内多門(1878-1932)だと思われる。その後、玉城は東京に出て川端玉章に師事、東京美術学校日本画科にも学んだ。玉城の東京美術学校での卒業制作「羽衣」は、雲の上に浮かぶ天女を描いたもので、すでにこの頃から女性像を主なモチーフとする方向にあったと思われる。

大正4年、玉城は、鹿の子絞りを業とする下町娘を描いた「かの子屋の娘」を第9回文展に出品、初入選で褒状を受けた。この第9回文展では、当時ブームとなっていた美人画が第3室に一堂に集められ「美人画室」と呼ばれた。この美人画室からは受賞が相次ぎ、池田輝方が2等賞、池田蕉園と伊藤小坡が3等賞、そして玉城の他、北野恒富、島成園、島御風が褒状を受けている。

美人画室は、一般からは人気を得たが、識者からは批判を受けることとなった。特に多くの批判が集まったのは、大阪画壇の悪魔派と称された北野恒富の「暖か」で、長襦袢をまとったしどけない姿で、うつろな視線を送る女性像が、「挑発的で、はしたない」と評された。大正デカダンスの時代、退廃的で背徳感のある恒富の女性像は、一般愛好家には人気だったが、文部省主催の展覧会芸術としては、識者の道徳観を刺激しすぎたのかもしれない。

これに対し、玉城の「かの子屋の娘」は、こちらを直視する構図は恒富の「暖か」と共通しているが、その清楚で上品な佇まいから、「厭味がない」と好感を持って迎えられた。その後も玉城は、古典的な品格をもった現代女性を描き、昭和8年の第15回帝展には、黒い薄衣の女性像を描いた「現代隅田川風景」(掲載作品)を出品、以後も帝展、新文展で活躍した。

益田玉城(1881-1955)
明治14年都城生まれ。本名は珠城。別号に長久堂がある。はじめ都城で四条派の赤池南鳳に師事し、明治28年京都市美術工芸学校に入るが病気のため間もなく休学して帰郷し、のちに上京して川端玉章に入門した。明治33年には東京美術学校日本画科入学。同校卒業後は、日本絵画協会、美術研鑽会、巽画会などの展覧会に出品し、明治42年に川端画学校の創立に伴い教授になった。大正4年文展で褒状を受け、以後、文展、帝展で受賞を重ねた。大正11年山内多門と中国に写生旅行。昭和2年『都城古今墨蹟集』を刊行。昭和7年から帝展無鑑査となるが、昭和10年に帝展の主催機関である帝国美術院から改組に伴い無鑑査を外される。旧無鑑査の作家たちと再改組運動を行ない、実行委員をつとめた。昭和12年帝展にかわり新文展がスタートし、翌年の第2回展に無鑑査出品。やがて日中戦争が始まり、昭和15年に従軍画家をつとめた。昭和19年新文展は戦時特別美術展覧会として開催されたが、この展覧会を最後に官展には出品していない。昭和30年、74歳で死去した。


宮崎県を代表する日本画家・山内多門

2018-03-06 | 画人伝・宮崎

驟雨之図 山内多門 宮崎県立美術館蔵

文献:没後60年記念山内多門回顧展、山内多門生誕130年展、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

宮崎県を代表する日本画家に都城の山内多門(1878-1932)がいる。多門は、西南戦争の翌年である明治11年に都城市に生まれ、郷土の狩野派・中原南渓に画法を学んだ。その後、小学校の教師となるが、日本美術院の機関紙『日本美術』を見て触発され上京、川合玉堂の門に入り、その1年後には、玉堂の勧めで玉堂の師である橋本雅邦に師事した。

雅邦門下で学んでいた多門の最初の号は都洲といった。この号を使っていた頃の絵は、雅邦の影響が色濃く見え、主なテーマは人物だった。その後、雅号を本名の多門にするのを機に、それまでの人物画をやめ、本格的に山水画に取り組むようになった。明治40年に創設された第1回文展では「驟雨之図」(掲載作品)が三等賞になり、それ以後は山水画家としての道を歩んでいく。

実直に画技を高め、文展でも受賞を重ねるなど、地位を確立していった多門だったが、画壇における多門の評価は厳しいものだった。多門の没後にその不遇の理由を分析した小林源太郎は、論文「山内多門の画跡」の中で「彼の北宗の筆技と顔料殊に岩絵具の装飾的効果との矛盾は遂に容易に彼のうちに調和することが出来なかった」としている。時は横山大観らが文展を離れて再興した日本美術院の新しい潮流へと向かっており、大観らが提唱した朦朧体は、当初は批判を浴びていたが、次第に市民権を得るようになっていた。

苦悶の中にいた多門だったが、重ねて大病を患い、二ヶ月以上生死の淵を漂うこととなった。病が癒え、改めて自分と向きなおした多門は、時流の向かうところと自己の資質を生かせる場所が同じではないことを悟り、新たな挑戦へと向かう。新たな挑戦といっても、時流の好む革新に取り組むということではなく、あくまでも自己の筆技を深め、新しい表現を試みるというものだった。つまり、わが道を行き、新たな境地を開拓していこうとしたのである。その後の多門は、取材の場所を朝鮮半島の金剛山、あるいは中国へと求め、荘厳な山水画を生み出していった。

山内多門(1878-1932)
明治11年都城市上東町生まれ。都城島津家家臣・山内勝麿の三男。初号は都洲。多門は本名。別号に都洲、空谷子、起雲閣、蜀江山房、自足子、藪谷山樵がある。兄が二人いたが、西南戦争で戦死したため、山内家を継いだ。明治26年、16歳の時に狩野派の中原南渓に師事した。明治27年から都城尋常高等小学校で教職につくが、明治32年に日本美術院の機関紙『日本美術』を見て触発され上京、上原勇作の仲介で川合玉堂の門に入った。同年第7回日本絵画協会絵画共進会で三等褒状を受賞。明治33年に玉堂の勧めで橋本雅邦に師事した。明治36年日本絵画協会で銅賞を受け、その後も日本絵画協会、日本美術協会、二葉会の展覧会で受賞を重ねた。明治40年第1回文展で「驟雨之図」が三等賞になり、以後、文展、帝展、巽画会、その他多くの展覧会で活躍した。帝展では第9回を除いて第2回から第10回まで審査委員または審査員をつとめた。第5回文展で主席三等賞になった「日光四季」は文部省買い上げとなった。大正9年に朝鮮半島、大正11年には中国を旅し、その取材をもとに山水画の新しい表現を試みた。昭和5年には明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「中国西国巡幸鹿児島着御」を描いた。門人に大野重幸がいる。昭和7年、54歳で死去した。