松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

異色の抽象画家・荒井龍男と昭和期の大分県の洋画家

2018-02-02 | 画人伝・大分

過失に於ける歓喜への頌歌 荒井龍男 目黒区美術館蔵

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

昭和に入ると、それまで官展中心だった大分県出身の洋画家のなかでも、在野団体で個性的な作品を発表し、名をなす者が出てきた。荒井龍男(1904-1955)は中津市に生まれ、幼くして家族とともに朝鮮に渡り、独学で絵を修得、急逝するまでの23年間に次々と問題作を発表し、常に日本洋画壇の先頭に立って活躍した。

昭和7年に二科展に初入選して画業を開始した荒井は、昭和9年にはシベリア経由で渡仏し、デュフィやザッキンのアトリエを訪問して指導を受けた。帰国後は、東京に居を定め、昭和12年に山口薫、長谷川三郎、村井正誠、難波田龍起らと自由美術家協会(のちに自由美術協会と改称)を設立するが、昭和25年、左翼的リアリズム派とは同調しかねるとの理由から、山口薫、村井正誠、小松義雄らとともに自由美術協会を脱退、同年モダンアート協会を結成した。この年を境に自然形態は簡略化され、詩的な抽象へと画風が変化していった。

昭和27年には米国へと旅立ち、昭和30年に帰国するまで、ニューヨーク、パリ、サンパウロなど各地で個展を開催し好評を博した。その後の活躍も期待されたが、昭和30年の帰国後、同年ブリヂストン美術館で開催した個展の直後、ガンのため急逝した。

ほかには、独立美術協会の結成に尽力した日本的フォーヴの代表的画家のひとり・林重義、官展を脱退して同志と新制作派協会を創立して反官展の気勢をあげた佐藤敬、版画から油彩画に転じて異色な純粋抽象画家として国際展などで活躍した宇治山哲平、心象絵画の表現を続け、独自の画境を確立した糸園和三郎らが次々と登場してきた。

また、武藤完一と武田由平は、ともに岐阜県生まれだが、武藤は県師範学校に、武田は中津中学校に教員として赴任し、教育者として、または版画家として多くの後進を育て、大分県の美術振興に尽力した。

戦後は、荒井龍男、佐藤敬、宇治山哲平、糸園和三郎に加え、国画会の重鎮として重厚な画境を示した熊谷九寿、「狂女シリーズ」などを発表しユニークな活動を続けた美術文化協会の幸寿らも、独自の表現様式を求め、充実した創作活動を展開した。なかでも宇治山哲平は戦後ほとんどの時期を大分の地で制作し、地元美術界に大きな影響力を持った。

荒井龍男(1904-1955)
明治37年中津市生まれ。幼くして家族とともに朝鮮に渡り、朝鮮総督府の官吏となったが、二科展や朝鮮美術展に入選したのを機に職を辞して30歳の時に渡仏、彫刻家のオシップ・ザッキンと親交を持った。帰国後、昭和12年自由美術家協会の結成に参加し、戦後までここを主な作品発表の場とした。戦後は美術団体連合展や読売アンデパンダン展でも活躍するが、作風は次第に抽象化の方向に傾いていった。昭和25年村井正誠、山口薫らとともに自由美術協会を退会して、新たにモダンアート協会を設立。昭和27年にアメリカ、フランス、ブラジル、翌28年にはニューヨークのリバーサイド美術館、パリのギャラリークルーズ、翌29年にはサンパウロ近代美術館と各地で個展を開催、大きな成功をおさめて翌30年に帰国した。帰国直後、サンパウロ・ビエンナーレに出品。また、ブリヂストン美術館で帰朝展を開催して将来を嘱望されるが、病を得て、昭和30年、51歳で死去した。

林重義(1896-1944)
明治29年兵庫県神戸市生まれ。大正2年中学を中退して庭山耕園塾に入門。翌年京都府立絵画専門学校に入学するが、大正5年同校を退学して関西美術院に入った。翌年強度の神経衰弱のため父の郷里である大分県臼杵市に帰った。大正9年京都に出て鹿子木孟郎に師事した。大正11年小林和作とともに上京。翌年第10回二科展に初入選。大正14年には第6回中央美術展で中央美術賞を受賞した。翌年1930年協会の会員となるが、まもなく古賀春江らと脱退した。同年二科展で二科賞を受賞。昭和3年小林和作らと渡仏。昭和4年二科会会員となった。翌年フランスから帰国し、二科展で渡欧作20点を陳列するが、同年退会して独立美術協会の結成に参加した。昭和12年に同会を脱退。以後は主に新文展に出品し、昭和17年国画会会員となった。昭和19年、49歳で死去した。

佐藤敬(1906-1978)
明治39年大分市生まれ。大正14年上京し川端画学校で学び、翌年東京美術学校西洋科に入学した。在学中から帝展に出品。昭和4年第10回帝展に初入選した。昭和5年渡仏。翌年東京美術学校を卒業した。パリではサロン・ドートンヌに出品する一方、帝展にも作品を送り続け、昭和7年第13回帝展では特選となった。昭和9年帰国。翌年帝展改組にともなう第二部会の設立に参加、同年の第1回文展で文化賞を受賞、新会員に推挙された。昭和11年猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平らとともに新制作派協会を創立、以後この会で活躍した。戦時中は軍の報道班員として戦争記録画を描いた。昭和27年再び渡仏し、以後はパリを中心に個展を開催したほか、ヴェニスベ・ビエンナーレ、日本国際美術展などに出品した。昭和53年、71歳で死去した。

宇治山哲平(1910-1986)
明治43年日田市豆田町生まれ。本名は哲夫。昭和4年日田工芸学校描金科に入学、漆芸蒔絵の技術を習得した。昭和6年次第に版画の世界に引き付けられ、この年の第一美術協会展に木版画作品を出品、初入選となった。昭和14年国画会で油彩画が入選。昭和18年国画会会友に推挙され、翌年には会員になった。昭和25年国画会中堅会員らと型生派美術協会を結成。昭和46年毎日芸術賞を受賞。同年大分県立芸術短期大学長に就任した。昭和48年西日本文化賞を受賞。昭和61年、75歳で死去した。

糸園和三郎(1911-2001)
明治44年中津市生まれ。昭和2年、16歳の時に上京し父の勧めで川端画学校に通い、昭和4年には前田写実研究所に入った。昭和8年、塚原清一らと四軌会を結成、翌年飾画と改称した。昭和13年、飾画の作家を中心に創紀美術協会を結成した。昭和14年美術文化協会の創立に参加。昭和18年井上長三郎の呼びかけにより新人画会の結成に参加。昭和22年美術文化協会を退会し、自由美術家協会に移った。昭和39年自由美術協会を退会し、以後無所属となった。昭和44年前田寛治門下生による涛の会、自由美術協会時代の友人と樹会を起こした。平成13年、89歳で死去した。

武藤完一(1892-1982)
明治25年岐阜県鷺田村生まれ。川端画学校洋画科に入学し、藤島武二に師事した。大正14年大分県師範学校の図画教師として赴任、以来美術教育に従事した。そのかたわら、平塚運一の講習会を機に木版画の制作を始め、昭和6年日本版画協会展に入選。同年版画誌「彫りと擦り」(のちに九州版画と改題)を創刊した。この頃からエッチングを制作、官展に出品した。昭和14年日本版画協会会員。翌年日本エッチング協会創立に参加した。昭和35年棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと日版会を創立した。著書に『大分風景五十景版画集』『創作版画集』がある。昭和57年、89歳で死去した。

武田由平(1892-1989)
明治25年岐阜県高山市生まれ。大正3年岐阜師範学校卒業後、13年間教壇に立った。大正6年頃山本鼎に感銘を受け、版画制作に入った。昭和4年、大分県立中津中学校の図画教師となった。日本版画協会展、春陽会展、新版画集団展などに出品、昭和11年文展に初入選した。以後、新文展、日展に出品し、国際展にも出品した。昭和10年中津市耶馬渓クラブで個展した。平成元年、97歳で死去した。

熊谷九寿(1908-1993)
明治41年中津市生まれ。本名は久寿夫。関西美術院を卒業。昭和17年梅原龍三郎、福島繁太郎の推薦により国画会会員に迎えられ、以後同展を主な作品発表の場とした。昭和25年国画会の杉本健吉、香月泰男、須田剋太、原精一、宇治山哲平、国松登らと型生派美術家協会を結成した。翌26年第2回秀作美術展、第5回美術団体連合展、昭和30年第6回秀作美術展に出品。昭和37年渡欧し、帰国後も杉本健吉、須田尅太らとグループ展を続けた。平成5年、84歳で死去した。

幸寿(1911-2003)
明治44年大野郡千歳村生まれ。早稲田大学中退後、独学で絵を学んだ。昭和11年独立展に初入選。3年間出品を続けた。昭和15年から美術文化協会展に出品し、昭和18年同展で受賞し会員となった。戦後、昭和31年から2年間大分の精神病院に起居し、「狂女シリーズ」を描いて特異な画風を確立した。昭和33年新象作家協会の創立に参加。昭和35年現代日本美術展に出品したのをはじめ東京、九州各地で精力的に個展を開いた。平成15年、92歳で死去した。



荒井龍男作品集
美術出版社

片多徳郎と西ヶ原グループ

2018-02-01 | 画人伝・大分

秋果図 片多徳郎

文献:豊後高田市史、大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

明治40年に開設された文展に大分県出身の洋画家として初めて入選したのは豊後高田市出身の片多徳郎(1889-1934)だった。片多は、東京美術学校在学中の明治42年、第3回文展に「夜の自画像」が初入選し、以後褒状を連続して獲得、早熟な画才は周囲の注目を集めた。大正に入ると、独自の東洋風で日本的な表現を展開、大正8年には第1回帝展で無鑑査出品、大正11年には33歳で帝展の審査員をつとめた。

若くして目覚しい活躍をする片多の周辺には多くの大分県出身たちが集まるようになった。彼らは、当時片多が東京都北区西ヶ原に住んでいたことから「西ヶ原グループ」と総称された。この集まりは、片多が指導者的役割を果たしていたわけではなく、自由気ままな親睦会的なものだったようである。しかし、こうした官展系の画家たちの同郷意識に基づくゆるやかな人間関係は、地元大分画壇にも影響を与え、片多を媒介としたこの人脈が中心となって、後の大分の洋画界は展開することになる。

西ヶ原グループの主なメンバーとしては、東京美術学校の同級生だった権藤種男をはじめ、菅一郎、長野新一、池辺一夫、後藤真吉、保田善作、三浦直政、江藤純平らがいた。また、彫刻家や歌人たちも多く集まった。

若くして画才を発揮し、将来を嘱望された片多だったが、酒を好み、それが次第に体をむしばむにつれ作品も生気を失っていき、44歳の若さで自ら命を絶つこととなってしまった。

片多徳郎(1889-1934)
明治22年豊後高田市生まれ。明治34年大分中学入学、図画教師の松村古村に指導を受けた。明治40年東京美術学校に入学。明治42年の第3回文展で「夜の自画像」が初入選。在学中に3回連続で文展に入選し2回褒状を受けた。以後、大正6年第11回文展と12回文展で連続特選となった。大正8年安宅安五郎、牧野虎雄、高間惣七らと新光洋画会を創設、大正9年には明治40年に東京美術学校の同期と四十年社を結成した。この頃から酒を好み、晩年は中毒症状が出て入退院を繰り返した。早くから南画に興味を持ち、またセザンヌに多大な影響を受けながら、独自の東洋風で日本的な油絵を模索し続けた。昭和9年、44歳で死去した。

権藤種男(1891-1954)
明治24年大分市長池町生まれ。明治45年東京美術学校図画師範科を卒業。同級生に片多徳郎がおり、二人は一時日暮里に同宿して勉学に励んでいた時期があり、その後も極めて親しい交友関係を続けた。大正6年第11回文展に初入選。以後帝展、新文展にも入選を続けた。大正9年第2回帝展と昭和5年第11回帝展で特選を受けた。その他、第一美術協会展、春台美術展などにも出品した。第二次大戦後は郷里に帰り、大分県美術協会会長として郷土の美術の発展に尽力した。昭和29年、63歳で死去した。

菅一郎(1894-1975)
明治27年佐伯市生まれ。明治45年大分中学校を卒業後上京、大正8年同郷の先輩の彫刻家・片岡角太郎の家に寄宿しながら川端画学校に通い、また片多徳郎宅へ出入りした。大正10年第3回帝展に初入選し特選を受けた。その後たびたび帝展に出品し、昭和12年以降の新文展では無鑑査となった。大正15年から昭和17年まで佐伯中学校の図画教師として郷里の美術教育に貢献した。昭和50年、81歳で死去した。

長野新一(1894-1933)
明治27年速見郡日出町生まれ。大正9年東京美術学校図画師範科卒業後、山口県師範学校、東京第五中学校などで教壇に立った。大正8年第1回帝展に初入選。大正13年から昭和5年まで連続して7回帝展に入選した。以後、帝展のほか中央美術展、春台美術展にも出品を続けた。昭和4年東京美術学校助教授になるが、昭和7年に辞職し、翌8年、39歳で死去した。

池辺一夫(1895-1952)
明治28年大分市生まれ。大正8年東京美術学校図画師範科卒業後、一時大分県女子師範学校で教えていたが、大正12年再度上京し、片多家に出入りした。昭和3年第9回帝展に初入選した。昭和27年、57歳で死去した。

後藤真吉(1896-1961)
明治29年佐伯市生まれ。大分工業学校を卒業後、上京して川端画学校に入学して洋画を学んだ。昭和4年には渡欧し3年間画技の研鑽に励んだ。中央美術、光風会、文展などに出品した。昭和36年、62歳で死去した。

保田善作(1897-1992)
明治30年佐伯市生まれ。明治44年宮崎県立尋常高等小学校高等科卒業。大正13年第5回帝展に初入選。その後も帝展、新文展に出品した。昭和5年聖徳太子奉讃美術展に出品。その他、春台美術展、第一美術協会展などに出品、戦後は日展委員もつとめた。平成4年、95歳で死去した。

三浦直政(1897-1988)
明治30年速見郡日出町生まれ。大正10年東京美術学校図画師範科を卒業。その頃片多家をよく訪問した。一時熊本県第二師範学校に勤務したが、昭和3年から7年まで母校の美術学校で手工・自在画を教えた。昭和17年第5回新文展に初入選。ほかに創元会展、光風会展に出品した。戦後は郷里に帰り、大分県の美術教育に貢献した。昭和62年、91歳で死去した。

江藤純平(1898-1987)
明治31年臼杵市生まれ。大正5年臼杵中学校卒業後、同郷の彫刻家・日名子実三を頼って上京し、岡田三郎助に師事した。大正12年東京美術学校西洋画科を卒業。大正13年第5回帝展で初入選。その後、昭和3年、4年、8年と帝展で特選を受けた。また、春台美術展、第一美術協会展にも出品した。昭和12年には光風会会員に迎えられ、以後出品を続けた。戦後しばらくは郷里の臼杵で生活したが、昭和27年に再び上京し、日展、光風会展を中心に活躍した。昭和62年、89歳で死去した。



モダン百花繚乱「大分世界美術館」
ブックエンド

消えた近代日本洋画の開拓者・藤雅三

2018-01-31 | 画人伝・大分

破れたシャツ 182.9×243.8cm 藤雅三 米国ジョスリン美術館蔵
この作品は、米国ネブラスカ州オマハのジョスリン美術館に所蔵されていたもので、来歴などの問い合わせを受けた愛知県美術館の高橋秀治美術課長(当時)の調査により、平成20年(2008)、藤雅三の作品であることが確認された。「破れたシャツ」は、明治21年(1888)にソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに入選した藤雅三の代表作で、120年間所在が不明だった。調査の経緯については美術研究第396号「藤雅三《破れたシャツ》発見報告」で報告されている。なお、藤雅三のよみ方は「ふじ・まさぞう」ではなく「ふじ・がぞう」であることは、アメリカでの藤の活動を研究している瀧井直子によって明らかにされているが、この作品の作家名リストにも「FOUJI(G.)」とあった。

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県文化百年史、大分県地方史147号「日本近代洋画と藤雅三」(著者:後藤龍二)、明治美術学会誌 近代画説14「藤雅三の仕事-アメリカでの活動を中心に」・同15「美術史探訪 藤雅三の墓」(著者:瀧井直子)、美術研究第396号「藤雅三《破れたシャツ》発見報告」(著者:高橋秀治)

近代日本洋画の発展において大きな役割を果たした画家に黒田清輝(1866-1924)、そして久米桂一郎(1866-1934)がいる。彼らが渡仏後に日本にもたらした外光派風の画風は、やがて近代日本洋画の主流となり、のちの官展アカデミズムにも大きな影響を与えた。しかし、フランスで外光派を学んだ日本人は黒田、久米だけではなく、二人よりも早く外光表現を学び、黒田を画家の道に導き、久米に絵の指導をした人物がいた。その人物こそが、五姓田義松についで日本人で2番目にサロン入選を果たし、画家としての活躍が見えてきた矢先、なぜか消息を絶った藤雅三(1853-1916)である。

藤雅三は大分県臼杵市に生まれ、はじめ南画を学び、10代の頃には陶器の絵付けも手掛けた。その後上京して彰技堂に学び、ついで工部美術学校でイタイア人教師・フォンタネージに洋画技法を学んだ。同窓に、浅井忠、松岡寿、五姓田義松、山本芳翠らがいる。工部美術学校閉校後は工部省に就職、この頃、久米桂一郎が藤に弟子入りしている。藤にとっては一番弟子となる。久米の日記には、明治17年のほぼ1年間、藤に指導を受けた様子が記されている。

その後、藤は洋画研究のために渡仏、ラファエル・コランの外光派の作品に魅了され、コランの指導を受けることになった。藤が黒田と知り合ったのはこの頃で、黒田に通訳を依頼したことが切っ掛けとされる。黒田は藤より1年早くフランスに来ていて、当初の目的は法律を学ぶことであり、美術とは関係がなかった。しかし、藤は黒田に画学の修業を勧め、たびたび黒田を誘っては郊外に写生に行き、鉛筆画の指導をした。その結果、黒田もコランに弟子入りすることとなり、同年、藤を頼って渡仏した久米桂一郎を加え、3人でコランに学ぶようになった。

久米がパリに到着した翌日から、藤と久米は毎日のように会い、黒田も加えた3人は兄弟同然の付き合いをしていたという。しかし、その関係も、明治21年を境に次第に壊れはじめる。この年は「破れたシャツ」がサロンに入選した年で、さらに翌年にはパリ万国博覧会に出品するなど、藤が画家として活躍をしはじめた頃なのだが、藤は二人の前から突如姿を消し、消息を絶ってしまう。黒田は当時を回想して「結婚前までは私と久米と藤という間は兄弟同様の間でやって総て遠慮なく話し合ってをったが、結婚すると間もなく亜米利加に行って了ったと云うことを聞いたが、その後はハタと遠ざかって了った」と記している。

詳しい事情は定かではないが、黒田の書簡や久米の雑誌記事などから推測すると、藤はフランス人モデルとの結婚に失敗して悲惨な生活に陥り、師のコランとの仲も壊れてしまい、黒田と久米に相談することなく渡米したと思われる。アメリカに渡った藤は、ニューヨーク付近の陶器工場の図案主任として暮らし、そのまま日本に帰ることなく、大正5年、アメリカの自宅で没した。

帰国することのなかった藤が、近代日本洋画の発展に直接参画することはなかったが、藤の存在がなければ、画家としての黒田や久米の存在もなかったかもしれない。そうすれば、日本にラフェエル・コランの流れを汲む外光派の作風が持ち込まれることもなく、日本の洋画界は異なった道を歩いていたかもしれない。

藤雅三(1853-1916)
嘉永6年臼杵市生まれ。はじめ帆足杏雨に南画を学び、米岳という号で数点の画幅を残している。また、10代の頃から地元の陶窯丸山焼の絵付けも手がけた。明治9年上京し、わずかの間だが画塾彰技堂に籍を置き、明治10年に開設された工部美術学校に入学、イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに師事した。同窓には、浅井忠、松岡寿、五姓田義松、山本芳翠らがいる。明治14年の第2回内国勧業博覧会に曽山幸彦、松室重剛とともにコンテ素描を出品して話題を呼んだ。明治16年工部美術学校が閉校となり、工部省に就職した。明治18年、工部省技手として洋画研究のため渡仏。リュクサンブール美術館に展示されていたラファエル・コランの作品に魅せられ、早速コランに入門して、古典的写実をベースに抑揚のきいた外光表現を学ぶことになった。翌19年には法律を学ぶために留学中の黒田清輝や、藤を頼って渡欧した弟子の久米桂一郎も加わって、ともにアカデミー・コラロッシのコラン教室に学んだ。明治21年ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに「破れたズボン」が入選。次第に画家としての活躍がみられるようになった矢先、フランス人女性との結婚問題がもとでコランや黒田、久米らとは疎遠になり、明治25年明治美術会春季展に黒田の「読書」とともに「婦人雪行」が参考出品されたのを最後に制作活動についての記録は途絶えてしまう。のちに渡米してニューヨーク近郊の製陶工場の図案主任となるが、大正5年、再び祖国の土を踏むことなく、62歳で同地で死去した。



季刊みづゑ 1977年12月 NO873 ●ブリューゲル ●フォンタネージ
堀越孝一,池田龍雄,大出 學,日向あき子,多木浩二
美術出版社

吉田四代の祖・吉田嘉三郎と不同舎で学んだ大分出身の洋画家

2018-01-30 | 画人伝・大分

海魚図 吉田嘉三郎 大分県立美術館蔵

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

中津市出身の吉田嘉三郎(1861-1894)は、彰技堂で洋画を学び、日本初の洋画美術団体・明治美術会の通常会員となるなど、活躍が期待されたが、33歳で没した。しかし、嘉三郎が福岡県立中学修猷館で教員をしていた時の教え子で、画才を見込んで養子とした吉田博(1876-1950)と、三女の実子・ふじを(1887-1987)は、ともに小山正太郎の開設した不同舎で学び、画家として名を馳せた。のちに、博とふじをは結婚し、長男の遠志(1911-1995)、二男の穂高(1926-1995)、さらにその子の亜世美(1958-)と吉田家は四代続いて多彩な画業を展開した。

吉田博と吉田ふじをが学んだ不同舎での同窓として、大分県からは中本保策、井上長太郎、木付敏夫、山田英雄、宇佐美喜惣治が学び、不同舎に学んだかどうかは不明だが佐藤平太郎が小山正太郎に師事している。さらに、明治美術会には、吉田嘉三郎、中本保策、井上長太郎に加えて、県下から吉武丈作、岡部昇丸、大矢廣、鶴清氣らが参加した。

しかし、明治中期までの大分県出身洋画家のなかで、近代日本洋画界に名を馳せ、その動向に深くかかわった人物を見出すことはできない。中央画壇で活躍し、県美術界の浮揚に大きく貢献した洋画家としては、明治末期の片多徳郎の出現を待たなければならない。

吉田嘉三郎(1861-1894)
文久元年中津市生まれ。幼いころから画を好み、はじめ晴野鴻洲について日本画を学び、のちに京都に出て田村宗立に師事して3年間洋画を学び、さらに上京して彰技堂に入った。明治14年第2回内国勧業博覧会に大分県内の多くの南画の出品者にまじって、ひとりだけ中津から油彩画を出品した。明治15年と17年の内国絵画共進会には日本画を2点ずつ出品している。明治22年福岡県立中学修猷館に助教授として赴任、図画を指導するとともに、「中学図画帳」をはじめ図画教科書の編纂に携わった。また、教え子だった博の画才を見込み、養子とした。そのころ旧黒田藩主に要請されて肖像画を描いているが作品の所在は不明である。明治23年頃から福岡県福岡市薬院養巴之町に居を定め、明治22年に創立された日本初の洋画美術団体である明治美術会の通常会員となるなど、活躍を期待されたが、明治27年、33歳で死去した。

吉田ふじを(1887-1987)
明治20年中津市生まれ。吉田嘉三郎の三女。本名は藤遠。画才を見込まれて吉田家に養子に入った義兄・博の指導のもと、幼いころから画を描きはじめ、11歳で不同舎に入り本格的に洋画技法を学んだ。明治36年、16歳の時に太平洋画会に水彩画11点を出品、この年の暮れに、描きためた水彩画を携えて博とともに渡米、各地で兄妹展を開催して好評を博し、その売り上げをもとに、二人でヨーロッパ・アフリカの各地を巡った。帰国後に博と結婚した。明治40年、第1回文展に20歳で入選、第4回文展では褒状を受けた。大正8年女流洋画団体・朱葉会の第1回展から参加し、のちに会長をつとめた。戦後は抽象的な油彩画を描いた。昭和62年、99歳で死去した。

中本保策(不明-不明)
現大分市の出身。大分県出身者のなかでは一番早く不同舎に入学した。中本の名前は明治美術会2回展、3回展に出てくるが、詳しい経歴は不明。

井上長太郎(1870-1951)
明治3年三佐生まれ。明治24年大分県尋常中学校を卒業、翌25年から2年間妙心寺派第一中学校で教師をつとめた。はじめ大分県尋常中学校と大分県尋常師範学校で助教授だった大矢廣について学び、その後不同舎で3年間洋画を研究した。明治30年大分県大分尋常中学校杵築分校に着任して、図画、習字および地理を教えた。その後、北海道、富山、佐賀などで教職につき、大正3年には宇佐郡立実科高等女学校の校長となったが、翌年退職、間もなく慶応義塾の講師となり地理を教えた。地理に関する多くの著書がある。昭和26年、81歳で死去した。

木付敏夫(1880-不明)
明治13年玖珠郡森町生まれ。明治32年頃に不同舎に入学した。

山田英雄(1887-不明)
明治20年速見郡立石町生まれ。明治34年立石高等小学校を卒業。明治36年立石高等小学校教師の高橋貫治について用器画法を学んだ。その後県内の展覧会に絵画を出品、当時大分県師範学校助教諭だった藤原美治郎(竹郷)からも絵の指導を受けた。また、鉛筆画を御園繁に学んだ。明治38年に不同舎に入学。

宇佐美喜惣治(不明-不明)
臼杵町生まれ。明治30年頃不同舎に入学。同じ臼杵出身の実業家・荘田平五郎が保証人となり、小石川区林町の荘田の家から通学していた。

佐藤平太郎(1880-不明)
明治絵13年直入郡岡本村生まれ。東京で図画教育に専念した。小山正太郎に師事したが、不同舎との関わりははっきりしない。



吉田博 全木版画集
阿部出版

東京の画塾で学んだ大分の初期洋画家

2018-01-29 | 画人伝・大分

沈堕之瀧 諫山麗吉 大分県立美術館蔵
沈堕の滝は、雪舟も描いている豊後大野市にある名瀑で、諫山は大分県令(知事)・香川真一の依頼によりこの滝を描き、明治10年の県勧業博覧会に出品しているが、現在は残っていない。この作品は、その時の写生をもとに諫山がパリに住んでいた頃に描いたものである。

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

明治に入ると大分県からも東京の画塾で洋画技法を学ぶ若者が出てくる。初期洋画家についての資料は乏しく、その足取りを把握することは極めて困難だが、画塾に残っている控えなどによると、明治6年に高橋由一が開設した天絵楼に、佐伯出身の石井洌造(不明-不明)と大分市出身の矢野又彦(1855-1941)が学んでいる。石井については明治9年に入門したことが確認できるだけで、あとは生没年も含めて不明。矢野は帆足杏雨について南画を学んだあと西洋画法を独学し、その後天絵楼に入学したが、在籍期間は1年に満たない。郷里に帰ってからは三化と号して洋画、南画、日本画を描き分けたという。

明治8年に国沢新九郎が開設し、本多錦吉郎が引き継いだ彰技堂では、久留島通靖、甲斐鉄三郎、諫山麗吉、藤雅三、右田豊彦、小野民治、吉田嘉三郎らが学んでいる。そのうち、久留島通靖(1851-1879)は豊後国森藩最後の藩主であり、甲斐鉄三郎(1857-不明)はのちに大日本帝国海軍造船大監になった軍人である。画家としては、諫山麗吉(1849-1906)と藤雅三(1853-1916)はのちにパリに渡り、本場での油彩技法修得に励むが、異国の地で客死している。右田年英(1862-1925)は、のちに月岡芳年に師事して浮世絵に転じ、右田年英と号して挿絵画家として活躍した。小野民治(1848-不明)については、佐伯生まれで、33歳で彰技堂に入学したことはわかっているが、その他の経歴は不明である。

諫山麗吉(1849-1906)
嘉永4年中津市生まれ。雅号は扇城。明治8年、24歳の時に上京して彰技堂に入学、国沢新九郎に油彩技法を学んだ。明治10年、画材店主・村田宗清によって第1回内国勧業博覧会に「王子割烹店ノ図」を出品、褒状を受けた。またこの年の夏、大分県令の香川真一の依頼により、大野町の沈堕の滝を描き県勧業博覧会に出品した。現存する「沈堕之瀧」は後年パリにいた諫山がこの時の写生画をもとに制作し直したものである。明治13年頃に清国に渡り、数年上海に滞在したのちロンドンを経て、明治25年頃パリに渡り、肖像画を描いたり扇城と号して花鳥図などの日本画を手がけた。明治33年には渡仏した浅井忠とパリで再会。晩年は病を得て、明治39年、パリにおいて55歳で死去した。

大分(33)-ネット検索で出てこない画家


ジャングルの滝 - (N003) - 自然 風景 壁掛け式の装飾画 印刷の絵 ポスター(40cmx60cmx2.5cm)
XUENEO

福田平八郎の登場、そして高山辰雄へと続く大分出身の日本画家

2018-01-26 | 画人伝・大分

漣 福田平八郎

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

大分県の近代日本画史の上に占める福田平八郎の存在は大きい。大分県では明治末期まで幅広い南画の展開がみられ、明治30年代における新日本画運動も弱々しいものだったが、平八郎の登場により、大分画壇はにわかに活気づき、平八郎に学ぼうと、せきを切ったように画家を志す若者たちが京都に向かうようになった。

平八郎の目指したものは、日本美術の伝統を踏まえたうえで、自然や対象を凝視し、本質的な美しさを表現することだった。それが結実したのが、昭和7年第13回帝展に出品された「漣」だった。それは徹底した自然観照による堅実な写実に、桃山美術にみられる大胆な装飾性や様式性を統合させたもので、その後も平八郎は、対象をより把握するために単純化、装飾化、様式化を試み、古典を乗り越えた、新しい日本画様式へと画風を展開していったのである。

平八郎に続き、大分市から高山辰雄が出て日本画壇をリードした。高山は、戦後の日本画滅亡論や危機論が飛び交うなか、画壇の先頭にたって絶えず新鮮な制作を続けた。高山の目指すものは、終戦を境にしてより鮮明になった。それは、単なる日本画の洋画化ではなく、既成の絵画区分をこえた新しい日本画を創造しようというものだった。昭和54年に文化功労者に選ばれた際も「日本画と洋画の間の障壁除去に努力した」が推挙理由となった。

平八郎と高山はともに大分市の出身で、実家は数百メートルしか離れていない。しかも、高山が通っていた大分県師範学校付属小学校の前に、平八郎の実家があった。平八郎の父は学童相手に文房具店を営んでおり、店内には当時新進気鋭の画家だった平八郎の写生画も飾られていた。高山は幼いころから平八郎の絵を見て感性を育み、小学校5年生の時に講堂に陳列された平八郎の「安石榴」や「鶴」に感銘を受け、画家になる決意を固めたという。

他に戦後に活躍した大分県出身の日本画家としては、帝展から院展に舞台を変えた池田栄廣、福田平八郎に師事した正井和行、川端龍子に師事し東方美術協会を創設した佐藤土筆、そして日田出身で日展の重鎮として活躍した岩澤重夫らがいる。

福田平八郎(1892-1974)
明治25年大分市王子町生まれ。本名が平八郎。初期は素仙、九州の号を用いた。明治43年画家を志し大分中学を3年で中退し、中学2年修了で入学資格のある京都市立絵画専門学校の別科に進み、翌年京都市立美術工芸学校に入学した。大正4年に同学を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入学、大正7年に同校を卒業した。大正8年帝展に初入選。大正10年帝展で「鯉」が特選となり、一躍画壇の注目をあびた。昭和11年京都市立絵画専門学校教授となるが、翌年病気を理由に辞退、画業に専念する。昭和22年帝国芸術院会員となった。昭和24年第1回毎日美術賞を受賞。昭和33年日展が発足し常任理事となった。昭和36年新日展に出品、これが日展最後の出品となった。同年文化功労者となり、文化勲章を受章した。昭和44年日展が改組され顧問となった。昭和49年、82歳で死去した。

高山辰雄(1912-2007)(「高」は正しくは「はしごだか」)
明治45年大分市中央町生まれ。昭和5年大分県立大分中学校を卒業後上京、荻生天泉、小泉勝爾に画の手ほどきを受けた。昭和6年東京美術学校日本画科に入学、在学中に松岡映丘の画塾・木之華社に入門した。卒業後は映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが結成した瑠爽画社に参加、同会解散後は旧会員を中心とした一采社を結成。川崎小虎、山本丘人らの国土会にも出品した。昭和9年帝展初入選。第2回・5回日展で特選となり、その後も日展で受賞を重ね、日展では昭和50年から52年まで理事長をつとめた。昭和35年日本芸術院賞、昭和40年芸術選奨文部大臣賞、昭和45年日本芸術大賞を受賞。昭和47年日本芸術院会員、昭和54年には文化功労者となり、昭和57年文化勲章を受章した。平成19年、95歳で死去した。

池田栄廣(1901-1992)
明治34年広島県呉市生まれ。本名は栄。大分の牧皎堂や古庄九汀の指導を受けた。京都に出て堂本印象、のちに安田靫彦に師事した。昭和2年第8回帝展に初入選。昭和21年第2回日展で特選となった。翌22年からは院展に出品し受賞を重ね、日本美術院特待となった。平成4年死去した。

正井和行(1910-1999)
明治43年兵庫県明石市生まれ。本名は幸蔵。昭和3年京都市立絵画専門学校に入学、福田平八郎に師事した。在学中の昭和9年に第15回帝展に初入選するが、昭和12年に病を発し、大分市に転居して療養生活を送った。実家にアトリエを構えた平八郎のもとに通い、大分県美術協会を舞台に活躍。大分県立別府第二高校で後進の指導にもあたった。昭和28年から画壇に復帰し、昭和47年・57年の改組日展で特選。平成元年京都市芸術功労賞受賞。平成2年には京都府文化功労賞を受賞した。平成11年、88歳で死去した。

佐藤土筆(1911-2004)
明治44年大分郡狭間町生まれ。本名は博。大分県師範学校卒業後、京都市立絵画専門学校で学び、在学中の昭和12年第9回青龍社展に初入選。卒業後は川端龍子に師事した。昭和21年と22年には同展で奨励賞を受賞。昭和25年青龍社の社人に推挙された。昭和41年川端龍子の死によって青龍社が解散するまで同展に出品し、その後は社人有志ととともに東方美術協会を創立し、以後会員として同展に出品した。平成16年、93歳で死去した。

岩澤重夫(1927-2009)
昭和2年日田市豆田町生まれ。昭和27年に京都市立美術専門学校を卒業、その後堂本印象に師事し東丘社に入塾した。在学中の昭和26年第7回日展に初入選。以後日展で受賞を重ね、昭和47年日展会員になり、その後常務理事をつとめるなど日展の重鎮として活躍した。昭和60年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。第17回日展で文部大臣賞受賞。平成2年京都府文化功労賞、平成4年第5回MOA岡田茂吉賞大賞、平成5年第49回日本芸術院賞、平成6年京都市文化功労賞を受賞。平成12年日本芸術院会員、平成21年には文化功労者になった。平成21年、81歳で死去した。



福田平八郎 (Suiko arts)
光村推古書院

存在追憶 限りなき時の中に
角川書店

京都の大分県画壇の草分け・高倉観崖と牧皎堂

2018-01-25 | 画人伝・大分

高倉観崖

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

福田平八郎が画壇で注目を受ける以前に、京都で活躍した大分県出身の日本画家として、高倉観崖と牧皎堂がいる。彼らは京都での大分県画壇の草分けともいえる存在で、大分県内で藤原竹郷や松本古村らが興した近代日本画化へのその後の流れに、少なからぬ影響を与えた。

高倉観崖(1884-1957)は、京都市立美術工芸学校に学び、竹内栖鳳に師事した。竹内栖鳳は四条派に洋風様式を取り入れて新しい画風を開いた人物で、観崖はその影響を強く受け、四条派と南画風に写実味を加えた、独自の世界を切り開いた。

観崖の親友である、牧皎堂(1884-1954)も日本画家を目指し、大分中学校を中退して京都市立絵画専門学校に入学した。卒業後は主に京都で制作に励んだが、大正11年に帰郷し、第一高等女学校で教鞭をとった。

彼らは、写実と装飾、南画と新日本画など様々な問題のはざまに立ち、その解決にむけて努力をしたようだが、新しい日本画の確立とまではいかず、それを達成するには福田平八郎の出現を待たねばならなかった。観崖は「辛」を抱きしめる武士のような心境で作画に臨んでいたのかもしない。

高倉観崖(1884-1957)
明治17年大分市白銀町生まれ。旧姓は安東、本名は孫三郎、通称は宏明。京都市立美術工芸学校に入学、竹内栖鳳に師事した。大正3年第8回文展に「鴨川の春」が初入選し褒状を受けた。同作品は、同年のサンフランシスコ万国博覧会でも金牌賞を受賞した。以後、第9回文展に「蜜柑」、第10回文展に「春の遊び」、第12回文展に「浙江所見(水郷春色、官苑の夏、山寺春色)」が入選した。昭和3年には中華漫遊画集『蘇江所見』を出版した。絵のかたわら俳句もよくした。昭和32年、73歳で死去した。

牧皎堂(1884-1954)
明治17年大分郡判田村生まれ。名は照蔵。別号に扇岳がある。大分中学校を中退して京都に出て学び、明治39年京都市立美術工芸学校、大正9年京都市立絵画専門学校を卒業した。この間の大正6年第11回文展で「孔雀」が入選した。卒業後、諸地方を遊学、東京の寺崎広業について画技を進めた。その後帰郷し、大分市に居をかまえ、大分高等女学校で教鞭をとった。また、大分県美術協会の幹事を長年つとめ、同会の設立や大分県の美術界に貢献した。昭和29年、70歳で死去した。



日本画の「値段」―京都画壇の見方、買い方 (淡交ムック)
淡交社

福田平八郎の師から弟子になった首藤雨郊

2018-01-24 | 画人伝・大分

冬の日の叡山 首藤雨郊 大分県立美術館蔵

文献:雨郊・首藤積、大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、大分県立芸術会館所蔵名品図録

近代日本画の大家・福田平八郎(1892-1974)の才能をいち早く見出し、絵画の道に導いたのは、当時小学校の教諭をしていた首藤雨郊(1883-1943)である。首藤は、大分県師範学校を卒業後、大分師範付属小学校で訓導をしていたが、その時に下宿していたのが福田平八郎の家だった。当時の平八郎は、これといって特徴のない平凡な少年だったというが、首藤は、平八郎の非凡な才能を見抜き、絵の指導をし、美術学校へ行くことを強く勧めた。平八郎は当時を回想して「先生の部屋で先生の勉強ぶりを見て画道に進むことになった」と話している。その後、平八郎は大分中学を3年で中退し、中学2年修了で入学資格のある京都市立絵画専門学校の別科に進み、翌年京都市立美術工芸学校に入学した。

首藤と平八郎の関係は、その後も続き、首藤が小学校を休職して京都市立絵画専門学校に入学した時は、銀閣寺近くの農家に間借りして平八郎と共同生活を送っている。首藤は図画教師の資格を取り、同校を1年で退学して帰郷することになったが、平八郎は若き日のある一日を回想して「島原に外人旅行家が公開飛行を行なったのもこのころで、先生と私は銀閣寺からの往復二里余を歩いて見に行った。ところが入場料の二十銭の金が無く、外から見たが肝腎の飛行機の発着は幕が張り巡らされて見ることが出来なかった。帰途腹がペコペコになって神楽坂の焼芋屋で二銭宛出し合って焼芋を買って食ったが今でもあのうまかった味は忘れられぬ」と親密な共同生活ぶりを語っている。

教育者として優れていた首藤だったが、画家としての情熱が衰えることはなく、42歳の時、教師をやめて画家としてやり直す決意を固め、再度京都に向かった。その時に師となったのは、かつての教え子・福田平八郎だった。当時、平八郎は大正10年、11年と連続して帝展で特選を取り審査員に推挙されており、京都市立絵画専門学校では助教授をつとめていた。かつての師弟関係がまったく逆転したわけである。しかし、平八郎は「先生、先生」といって首藤を指導し、首藤はうれしそうにかつての教え子の指導を受けていたという。二人の関係を知る日本画家の溝辺有巣は「福田先生と首藤先生の関係は親子か兄弟のようだった。よそ目にもうるわしく、うらやましかった」と語っている。

平八郎の成功は、首藤にとっても喜びであり、誇りだったと思われる。首藤は「九方皐」という別号をよくつかっていたが、これは、伯楽が子馬を見出して育てたら天下の名馬になったという故事から取ったものである。

二人の関係は生涯続き、万寿寺にある首藤の墓には、平八郎の字で「首藤先生墓」と刻まれている。これは首藤が晩年最も崇拝していた田能村竹田の墓を模したもので、平八郎が、竹田の墓の写真を参考に、篠崎小竹の筆に似せて書いたものとされている。

首藤雨郊(1883-1943)
明治16年大分市生まれ。旧姓岐津、本名は積。別号に九方皐がある。明治38年大分県師範学校を卒業、県内の小学校や大分県師範学校の訓導を勤めた。休職して京都市立絵画専門学校に学んだ後、復職して大分県立臼杵中学校、大分県師範学校などの図画教員になった。その後、画道に専念しようと退職して再び京都市に転居した。第6回帝展で初入選。以後、第9回、第11回帝展に入選した。四条派風の作品を描いていたが、晩年は深く田能村竹田に私淑し、南画の近代化を目指した作風へと変わっていった。昭和18年、61歳で死去した。



福田平八郎―その人と芸術 特別展 (1983年)
山種美術館

大分県に近代日本画を持ち込んだ藤原竹郷と松本古村

2018-01-23 | 画人伝・大分

菅原道真 藤原竹郷 竹田津小学校蔵

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

南画でなければ日本画ではないという空気の強かった南画王国・大分県に、新しい日本画を持ち込み、美術教師として県内に広めた最初の人物は、東国東郡出身の藤原竹郷(1872-1963)とされる。藤原は、明治31年に東京美術学校日本画科を卒業、同年から大分県師範学校に赴任し、明治40年まで在職した。その間の教え子に、のちに大分県日本画界の指導的立場につく田川豊山や首藤雨郊がいる。

藤原が東京美術学校に学んでいた時は、岡倉天心や橋本雅邦らが教授をつとめており、校内は新しい日本画の創造を目指す気運に満ちていたと思われる。藤原も、洋画の陰影法や豊富な色彩を取り入れた新日本画を象徴するような作品を制作しており、竹田津小学校に残っている藤原作「菅原道真」は、大分県で最も古い近代日本画と考えられている。

藤原と同じ東国東郡出身の松本古村(1874-1946)は、明治35年東京美術学校図画講習科を卒業し、翌年から大正5年までの間、大分県立大分中学校で教壇に立ち図画を教えた。教え子からは、片多徳郎、権藤種男、菅一郎、福田平八郎ら、後の大分画壇をリードする画家たちが出ている。

松村は、明治40年に大分県で初めて美術展覧会を開催し、横山大観や川合玉堂らの新日本画を紹介するなど、大分県美術界の発展に寄与する多くの業績を残している。大正8年には、パリ講和条約会議に政府使節団の随員として渡仏し、それ以降は、さらに西洋美術のよさを取り入れ、豊富な色彩を多用した新しい画風を展開するようになった。大正10年には大分県美術会を創設し、副会長をつとめるなど、大分県の日本画界を牽引し、隆盛をきわめた南画主導の時代に一区切りつけたといえる。

藤原竹郷(1872-1963)
明治5年東国東郡竹田津生まれ。名は美治郎。号は竹郷の後に竹卿。別号に半農、鳳兮居士。明治31年東京美術学校日本画科を卒業後、同年9月から大分県師範学校助教諭として赴任、毛筆画および用器画科を教えた。教え子に田川豊山、首藤雨郊らがいる。明治40年には熊本県第一師範学校に転勤した。のちに東京に戻って洋画家として活動した。東京市西巣鴨町宮仲に住んでいた。昭和初年、甲州向嶽寺大天井に黒飛龍の作品を残している。昭和38年、91歳で死去した。

松本古村(1874-1946)
明治7年東国東郡来浦生まれ。旧姓は吉武、本名は弘。明治35年東京美術学校図画講習科卒業後、明治36年から大正5年まで県立大分中学校で教壇に立った。その間の教え子に片多徳郎、権藤種男、菅一郎、福田平八郎らがいる。明治40年に、日本赤十字社大分県支部を会場として大分県ではじめての美術展覧会を中心になって開催した。大正8年、パリ講和条約会議に政府使節団の随員として渡仏。大正10年に大分市で九州沖縄八県連合美術展が開催されたのを機に、大分県美術会を創設し、副会長をつとめた。昭和21年、73歳で死去した。

田川豊山(1881-1958)
明治14年杵築市生まれ。本名は豊。大分県師範学校在学中、藤原竹郷に画の手ほどきを受けた。のちに上京して岡田秋嶺に師事した。明治38年に文部省の検定試験に合格して、翌年福岡県立中学校修猷館に教諭として赴任。以後、長崎県立中学校嶋学館、長崎県の大村実村高等女学校教諭を経て、明治45年から大正3年まで藤原美郷の後任として、大分県師範学校に赴任した。退職後は杵築に帰郷して筆をとった。大正2年には松本古村らと九州各県連合第3回図画教育大会を大分市で開くなど、大分県の美術教育の普及につとめた。昭和33年、77歳で死去した。



大分の近代美術―明治・大正・昭和
後藤 竜二
海鳥社

大正・昭和期に活躍した大分県の南画家

2018-01-22 | 画人伝・大分

甲斐虎山

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

大正・昭和期に活躍した大分出身の南画家としては、早い時期から活動を始めていた十市王洋をはじめ、京都画壇で南画の復興に尽くした田近竹邨、東京で真美会を舞台に力を発揮した甲斐虎山、加納雨篷、白須心華らがいる。ほかに、竹邨の門で学んだ草刈樵谷、衛藤晴邨は京都で活動したのち、帰郷して地元の南画発展に尽くした。この時代の南画家たちの作品は、写実的な表現を取り入れた新日本画の影響を感じさせるものではあったが、新しい時代に適した南画を興すまでには至らなかった。

甲斐虎山(1867-1961)
慶応3年臼杵生まれ。名は簡、字は厚甫。幼いころから画を好み、旧大分郡松岡村浄雲寺城陽師に侍して画を修め、明治13年加納雨篷とともに戸次に行き、帆足杏雨に画を学んだ。また、村上姑南、広瀬濠田らに漢学を学んだ。明治30年頃に京都に出て活動、明治39年に白須心華が東京で南画塾を始めると、加納雨篷とともに賛助員として参加した。朝鮮半島、中国北部を訪れるなどして画技を深め、独特の作風を確立した。杏雨門下の高弟として名高く、亀川の瑠璃荘に筆をとった。33歳の時に京都において私立文中園女学校を創立して教導にもあたった。その半生を大分の地を転々として作画活動をした。昭和36年、95歳で死去した。

加納雨篷(1866-1933)
慶応2年臼杵生まれ。名は彦松、字は士秀。初号は雨峯、のちに雨篷と号した。12歳の時に藩の児玉白石に画を学び、雨峯と号した。のちに菊川南峯塾に漢学を修め、15歳の時に甲斐虎山とともに戸次に行き、帆足杏雨に2年間師事した。その後日田に行き、手島家に寓して、また村上姑南に従学し、あるいは久留米・梅林寺猷神師に参禅し、長崎で大徳寺に寓して守山湘帆に画を修めるなど、各地を転々として画技を深めた。明治39年、白須心華の南画塾に甲斐虎山とともに賛助員として参加し、しばらく東京に住んでいた。この間、明治40年に南画会に出品した「晩秋富岳」が宮内省買上になった。昭和8年、68歳で死去した。

白須心華(1870-1939)
明治3年臼杵生まれ。儒者・白須梧園の四男。名は貞、字は季鑑。明治25年、海軍省に出仕し、日清・日露戦争でも軍令部に勤務した。画は明治30年代頃から始めたとみられ、明治35年の真美会で活躍が始まり、明治39年には真美会委員となり、東京小石川に南画塾を設立した。明治41年に退官したが、それから画道を志し、小石川南画塾に入って画を学び、のちに甲斐虎山に師事した。晩年は別府に住み、田能村竹田の画風を学ぼうとした。昭和14年、69歳で死去した。

草刈樵谷(1892-1993)
明治25年竹田市生まれ。本名は辰生。はじめ郷里の佐久間竹浦に師事し、大正8年京都に出て田近竹邨の門に入った。昭和20年まで京都在住の間、日本南画院に出品した。昭和3年大禮記念京都大博覧会に出品。昭和12年第1回南画連盟展で奨励賞を受賞。昭和17年新文展に初入選した。昭和20年に帰郷、翌年竹田荘に入り、以後16年間同荘の経営管理に従事した。かたわら田能村竹田の研究に情熱を傾け、その画風を慕って南画制作を続けた。それら功績が認められ、昭和49年竹田市在住者としては初めての名誉市民に選ばれた。平成5年、101歳で死去した。

河村李軒(1896-1953)
明治28年徳島県生まれ。のちに大分県別府市に永住した。名は豊太郎、別号に如水、雲烟室主人、来章堂がある。若いころから画を志し、池田春渚、甲斐虎山に師事し、大正9年からは別府に永住して画業に励んだ。大正13年日本南画院に入選、昭和2年と5年には帝展に入選した。昭和28年、58歳で死去した。

衛藤晴邨(1898-1971)
明治31年竹田市生まれ。本名は喜一郎。18歳の頃から竹田在住の佐久間竹浦に南画を学んだ。大正9年には京都に出て田近竹邨に師事、のちに水田竹圃の門人となった。また、関西美術院にも通った。大正13年日本南画院展に初入選し、以後同展に出品した。昭和2年帝展に初入選、以後帝展、文展に数度入選した。昭和12年新興南画院、昭和13年南潮社、昭和17年大東南画院の結成に参加した。戦時中は佐伯市鉄砲町に疎開し、以後同地に没するまで健筆をふるい、後進の育成に尽くした。昭和46年、73歳で死去した。



南画十六家技法详解 (English Edition)
北京大学出版社

豊後大野で江戸系南画を描いた石野玉僲

2018-01-19 | 画人伝・大分

群仙図 石野玉僲

文献:孤高の絵旅人 石野玉僲、大分県立芸術会館所蔵作品選

石野玉僲(1883-1949)は、福岡県の出身だが、金光教の布教のために訪れた大分県の久住町や大野町に長く住み、大野町の金光教教会長として活動を続けるとともに、江戸系の南画を描いた人物である。残された作品や活動履歴から、本格的な技法を学び、長く描き続けていたことが分かっているが、南画が盛んな豊後地方において、宗教家としてはもちろん、画人としても玉僲の名を知る人は少ない。

玉僲は、東京で川端玉章、岡田秋嶺らに師事し、谷文晁以来の江戸系南画の技法を本格的に学んでいる。堅実な技法で描き、洒脱な一面を併せ持つ魅力的な画風だが、豊後南画の表現様式との違いから、豊後地方ではあまり受け入れられなかったのかもしれない。また、交際範囲があまり広くなかったとも伝わっている。それでも、大正初期頃には、都甲九峯、田中蕉雨、衛藤半仙ら豊後の南画家とかなり親しく接しており、画会を共に開き、合作も多数描いている。

玉僲の終焉の地である大野町は、雪舟が「鎮田滝図」を描いた沈堕の滝で知られている。北画の大家である雪舟ゆかりの大野町に、北画色の強い玉僲が根付き、江戸系南画を描いていたことになる。地元の口伝によると、玉僲もそのことは意識しており、雪舟ゆかりの地でもっと北画系南画を広めようとしていたとも伝わっている。

石野玉僲(1883-1949)
明治16年福岡県遠賀郡戸畑生まれ。本名は監三。13歳の時に木村耕巌につき絵画の基本を学んだ。明治34年戸畑尋常小学校準教員に採用されるが、師木村耕巌の助言により画業を磨くため大阪に出て、中川蘆月、佐藤健四郎に師事した。同年大阪市明治尋常小学校代用教員に採用され、その後小中学校の図画教員として大阪、東京等各地を遍歴、その間、川端玉章、岡田秋嶺、荒木寛畝に師事し本格的な技法を学んだ。やがて金光教と出合い、大正11年から大分県久住町に住み金光教の布教を開始、昭和4年から教義についての再修業のため東京に移るが、それを終えた昭和8年からは大分県大野町に居を構え、以降同町の金光教教会長として活動を続けた。そのかたわら関西系南画が中心の大分県にあって江戸系南画の作画活動を行なった。昭和24年、66歳で死去した。



群仙祝寿図 実用白描画稿 A3判 大人の塗り絵 (中国絵画)
天津楊柳青画社

官展、日本南画院展で新しい南画を模索した幸松春浦

2018-01-18 | 画人伝・大分

老子 幸松春浦

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、豊中市史(美術)

田近竹邨らが創設した日本南画院の第1回展に出品した南画家に、大分市出身の幸松春浦(1897-1962)がいる。春浦は、官展に出品するとともに、日本南画院が解散する昭和11年まで毎回出品を続けた。幸松の現存する作品はあまり多くないが、初期から中期にかけては、古法にのっとった写実的な作品を残している。

春浦も、南画と日本画のはざまにあって、新しい南画を模索した南画家のひとりだが、目指したものは田近竹邨と同様、あくまでも伝統的な画法を否定せず、それを継承していくことによって新たな展開を模索するものだった。画風も初期の抒情的なものから、中期にはやや写実的な方向へすすみ、自然の情趣をとらえた詩情的なものへと変化していった。

戦後は日展に委嘱作家として出品したが、この時期には、新しい日本画の影響を感じさせる明るい色彩を用いた作品も描いており、画風も新しい南画を追求した春浦独特のものとなっている。

幸松春浦(1897-1962)
明治30年大分市中央町生まれ。本名は猪六。家業は酢の醸造をしていた。郷里で佐久間竹浦や秦米陽について南画の手ほどきを受けた後、大正5年、19歳の時に大阪に出て姫島竹外に師事した。その後、竹外の門下生だった京都の水田竹圃の主宰する菁莪会に入塾した。大正9年第2回帝展に初入選、翌年には田近竹邨らが創設した日本南画院に出品した。のちに同人に推挙され、同会が開催する昭和11年まで毎回出品した。帝展では、大正15年第7回帝展で特選、翌8回展でも特選となった。官展を中心に活躍し、戦後は日展に出品した。昭和37年、65歳で死去した。



老子 (岩波文庫)
岩波書店

衰退する南画の復興をはかり日本南画院を創設した田近竹邨

2018-01-17 | 画人伝・大分

春雲・秋靄 田近竹邨 第8回文展出品 大分県立美術館蔵

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、田近竹邨七十年祭遺墨展、大分県立芸術会館所蔵作品選

江戸後期から全国的な流行をみせた南画だったが、明治中頃になると急速に衰えていった。その要因としては、南画理解に不可欠な漢詩の素養が、時代の推移とともに一般的になくなってきたことや、絵画鑑賞が床の間から展覧会へと移行したことなどがあげられる。しかし、もっとも大きな影響を与えたのは、明治20年代に起こった岡倉天心やフェノロサが唱えた国粋主義による南画への圧迫だったといえる。旧態依然とした南画は「つくねいも山水」と揶揄され、新しい日本画運動の波に飲まれていったのである。

衰退する南画を復興させようと、田能村直入、富岡鉄斎らが、明治29年に日本南画協会を結成して、南画家の奮起をはかろうとしたが、ほとんどの南画家が新時代に即した南画を創り出すことはできなかった。この日本南画協会も明治34年の第8回を最後に有名無実の存在となった。その後を継いだのが、直入の門人である田近竹邨だった。当時、京都南画界の重鎮として活躍していた竹邨は、大正10年に東京の小室翠雲らとともに日本南画院を結成、京都、大阪、東京の南画界の再結束をはかろうとするが、結成の翌年、58歳で没してしまう。

竹邨が注目されるようになったのは、文展によってである。明治40年に始まった文展は、横山大観らの「新しい日本画」を目指す新派と、南画などの旧派が対立しており、新派の勢力が強く、旧派は押され気味だった。そのような状況下にあって、旧派に属する竹邨は、第2回・3回文展で連続して三等賞を受賞。さらに5、6、7、8回展でも褒状を受け、衰弱しつつあった南画界のなかでひとり気をはいた。

竹邨が目指したものは、時風に合った奇抜な創出ではなく、古法に学んだ穏健な革新だった。師の直入はもとより、その師の田能村竹田帆足杏雨ら、郷土の先人たちの画法を積極的に取り入れ、さらにそれを進展させた。南画の技法を近代日本画の画面に活かすことで、新しい南画の可能性を模索したのである。

田近竹邨(1864-1922)
元治元年竹田生まれ。国学者・田近陽一郎の二男。名は岩彦。幕末期勤皇の志士だった父から薫陶を受け、学を修めていった。幼いころから画才に優れ、淵野桂僊について学び、のちに京都に出て田能村直入に師事した。直入の世話により入学した京都府画学校で本格的な画学習を開始、のちに直入が創立した南宗画学校の教授となった。明治28年内国勧業博覧会で褒状、明治31年全国絵画共進会で四等銅印、明治38年には再度内国勧業博覧会で褒状を受けた。明治41年文展三等賞受賞、以降大正3年まで毎年同展で入賞を続け、京都南画壇での地位を確固たるものとした。大正10年、小室翠雲らと日本南画院を京都に創設し、中心的役割を果たしたが、翌大正11年、58歳で死去した。



一楽帖 文人書画展 田近竹邨 竹田商工会議所 豊後南画

杵築南画の創始者・十市石谷と十市家

2018-01-16 | 画人伝・大分

浅絳山水図 十市王洋 大分県立美術館蔵 

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵名品図録

杵築の十市家は、杵築南画の創始者と称される十市石谷(1793-1853)をはじめ、子の王洋・古谷、及びその子たちも画をよくした。杵築藩家臣の家に生まれた十市石谷は、幼いころから画に親しみ、中国の名画をはじめ、内外諸大家の名作を写し取り、粉本は数千枚にも及んだという。田能村竹田とも親しく交流し、画技を深めたとみられる。しかし、藩の重職についていたため、画業に専念することはかなわず、藩務のかたわら作画活動を行なった。

画業に強い情熱を持ちながらも、ついに士官を離れることができなかった石谷の思いは、子の十市王洋(1832-1897)にそそがれた。早くから王洋の画才を見出していた石谷は、王洋に熱心に画法の指導をし、王洋もその期待に応えて画技を進めていった。やがて、臨終を迎えた石谷は、王洋への遺言として「おまえは画才に秀でている。今からその技を研き四方に雄飛して志をまっとうせよ。家政のことは二男の謙二にまかせてよい」と言ったという。

その言葉どおり、王洋は弟に家督を譲り、親子二代にわたる夢であった本格的な画家生活を始めた。王洋は、遺言に従って諸国に遊び、多くの文人墨客たちと交流、詩文、和歌なども修め、自らの画技を深めていったと思われる。大阪を中心に活動し、幕末の混乱期でありながらも、新たな南画の様式を追い求め、関西の南画界で注目される存在となった。

十市石谷(1793-1853)
寛政5年杵築町南台生まれ。杵築藩家臣の子。名は賚、字は子元、通称は恕輔。初号は霞村、のちに石谷と改めた。幼いころから画を好み、中津藩絵師・片山東籬について画を学び、また臨模をよくし、内外諸大家の名作を写し取り、粉本は数千枚にも及んだという。田能村竹田とも親しく、竹田の杵築紀行の際には最も厚く親交した。早くから藩務を退いて画業に専業することを希望していたが許されず、生涯仕官の身だった。門人には本草学者の賀来飛霞をはじめ、財津天民、中根青藍、松本此君、渡辺楽山らがいる。嘉永6年、61歳で死去した。

十市王洋(1832-1897)
天保2年杵築生まれ。十市石谷の長男。幼名は錫、字は安居、諱は祐之。別号に汪洋がある。嘉永5年、22歳で家督を継ぐが、28歳で弟に家督を譲り、画業に専念した。明治12年に東京に遊び、多くの名士と交流し、画技を進めた。明治14年には内国勧業博覧会で褒状を得て、明治17年には内国絵画共進会で審査官となり銅賞を受賞した。画業のかたわら、詩書を修め、歌道に精錬するなど、名声は次第に上がったが、閑寂を好む傾向にあったようで、やがて帰郷して久保坂に閑居し、門人を育てた。明治30年、66歳で死去した。

十市古谷(不明-1886)
杵築生まれ。十市石谷の二男。十市王洋の弟。名は謙二、通称は九十九。幼いころから画を父に学んだが、のちに兄王洋に代わって十市家をついで家業に専念した。家業のかたわら画もよくし、彫刻もよくした。明治19年死去した。

十市石田(1864-1894)
元治元年杵築生まれ。十市石谷の孫、十市古谷の子。名は遠、通称は為一郎。幼いころから画を好み、祖父及び父について画を修め、画技が進むつれて国内諸方に遊歴して筆をとった。明治27年、31歳で死去した。

十市羽谷(不明-不明)
杵築生まれ。十市王洋の長子。父に学び画をよくしたが、あまり作品は残っていない。



城下町 杵築 杵築探訪マガジン

臼杵生まれの挿絵画家・右田年英

2018-01-15 | 画人伝・大分

新橋元禄舞 梧斎(右田年英)

文献:右田年英と明治の挿絵画家展、原色浮世絵大百科事典第2巻、日本の版画Ⅰ1900-1910 版のかたち百相、臼杵史談21号「右田豊彦(年英)寅彦兄弟」(著者:久多羅木儀一郎)、こしかたの記(著者:鏑木清方)

報道錦絵などで人気を博した挿絵画家・右田年英(1862-1925)は臼杵の生まれで、14歳の時に東京に出て、歌川派の月岡芳年の門に学び、水野年方、稲野年恒とともに芳年門の三傑と称されるようになった。芳年門からは多くの優れた美人画家を出ており、水野年方の門からは美人画の大家・鏑木清方が出て、さらに伊東深水へと続き、浮世絵系美人画の中核をなした。また、稲野年恒の門からは、のちに画壇の悪魔派と呼ばれる北野恒富が出て、大阪画壇の美人画を牽引した。

臼杵には歌川派の開祖・歌川豊春の出身地説があるが、のちに鏑木清方は、臼杵出身の年英について、その著書『こしかたの記』の中で、「(年英は)私の師(水野)年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健康に、おおどかな筆致を有っていた。それについて想い起すのは歌川派の始祖豊春が豊後の臼杵の出で、右田氏と同郷である。そこに相通じる郷土性のゆたかさを見る」と語っている。

年英は、美人画、役者絵などの錦絵や日清・日露戦争の報道錦絵を手掛ける一方で、朝日新聞の専属画家として40年近くも新聞小説の挿絵を描き続けたが、画家としての地位や名誉には無欲だったこともあり、あまり画名は高まらなかった。活躍期が浮世絵の衰退期から挿絵画家という職業の地位確立前だったことから、名を残すには不利な状況だったのかもしれない。

右田年英(1862-1925)
文久2年豊後国臼杵生まれ。名は豊彦、俗称は豊作。別号に晩翠楼、一穎斎、梧斎がある。14歳の時に叔母と弟寅彦とともに東京に出て、明治の儒学者・高谷龍州の斎美校、三菱商業学校に学び、ついで国沢新九郎、本多錦吉郎に洋画を学び、その後、歌川派の月岡芳年に入門した。明治20年頃からは、「東京朝日新聞」の前身である「めさまし新聞」の社員として、新聞挿絵や役者・風俗画、また日清・日露戦争の錦絵を描いた。明治27年の日清戦争の際には、戦場を克明に写し取る「報道錦絵」は、重要な情報源として大変な人気だったが、写真版などの発達により、その後錦絵の分野での活躍は少なくなった。門人には、鰭崎英朋、河合英忠、山本英春、笹井英昭らがいる。大正14年、63歳で死去した。



右田年英 ポスター 浮世絵 グッズ 雑貨 インテリア 美術 アート 絵画
Genius Collections