松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

日本初のユネスコ世界記憶遺産・山本作兵衛の炭坑記録画

2017-05-09 | 画人伝・福岡


文献:山本作兵衛と炭鉱の記録、山本作兵衛展

筑豊炭田の中心地である嘉穂郡に生まれた山本作兵衛(1892-1984)は、7歳のころから親の手伝いで坑内で働きはじめ、以来50年以上を炭坑労働者としてヤマとともに生きた。当初は高度経済成長とともに発展していた炭坑だが、石炭産業合理化により衰退、閉山が相次ぐようになった。炭鉱の閉鎖により夜警宿直員として働いていた作兵衛は、消え行く炭坑の様子を子孫に伝えなければならないという思いから、66歳の時に墨絵による記録画を描きはじめた。その絵が関係者の目にとまり、『明治・大正炭坑絵巻』として出版されると、そこに描かれた炭坑労働の実態が多くの人々に衝撃を与えた。その後もさまざまは依頼に応じて炭坑画の制作を行ない、昭和59年に92歳で没するまでにる膨大な量の作品を描き続けた。没後の平成23年、記録画および日記や雑記帳などが、日本で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。

山本作兵衛(1892-1984)
明治25年福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)生まれ。父の福太郎は遠賀川で川舟船頭をしていた。7歳の時、石炭の鉄道輸送開始に伴って仕事量が減り川舟船頭をやめた父につれられ、一家で上三緒炭坑に移住した。この頃から、兄と共に炭坑の仕事を手伝うようになり、家族とともにヤマを転々とした。17歳の時に絵描きになるべく、福岡市下新川端町のペンキ屋「ペン梅」に弟子入りし、暇あるごとに絵を描いていたが、父の病によりやむなく山内坑に戻ることになった。その後は各地の炭坑を転々とし、約50年を坑夫として過ごした。昭和15年から長尾位登炭鉱で働いていたが、昭和30年に閉山したため資材警備員として残り、2年後に本社事務所夜警宿直員になった。昭和33年、66歳の時に子孫のために消え行く炭坑の姿を描き残すことを思い立ち、炭坑の記録画を画用紙と墨で描くようになった。炭坑での労働や生活の一部始終が克明に記されたこれらの作品群は『筑豊炭坑絵巻』においてまとめられ、炭坑の記録画家・山本作兵衛の評価は確固たるものとなっていった。昭和59年に92歳で死去するまで残した記録画は1000点を超えるといわれる。そのうち、没後の平成23年、田川市と福岡県立大学が所蔵する記録画589点および日記や雑記帳など計697点が、日本で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。

井上為次郎(1898-1970)
明治31年福岡県宗像生まれ。長崎から北海道までの炭坑を渡り歩いた。炭坑の絵を描きはじめたのは昭和32年に閉山となった笹原炭坑で働いていた頃と考えられる。残存する作品は18点と少ない。昭和45年、72歳で死去した。

原田大鳳(1901-1973)
明治34年生まれ。本名は観吾。10代後半から筑豊の大手炭鉱である貝島炭礦の保安員として働いた。20代の頃に福岡県飯塚市の画家に師事し、鯉の画を得意とした。昭和13年に社命により貝島炭鉱大之浦六坑の様子を描いた。昭和48年、72歳で死去した。

山近剛太郎(1902-1990)
明治35年生まれ。大正15年に貝島炭鉱に入社。若い頃から画に関心があり、坑内の様子をスケッチで残していた。昭和22年から24年頃に福岡で画塾を主宰していた洋画家・手島貢に師事した。昭和45年頃から本格的に炭鉱記録画に取り組むようになり、宮田町石炭記念館の開館に伴う炭鉱記録の作成にも関わった。平成2年、88歳で死去した。

島津輝雄(1927-1975)
昭和2年飯塚市生まれ。幼いころから両親について炭坑に下り、14歳で坑内作業員として働きはじめた。筑豊の炭鉱を転々とし、新目尾鉱の閉山を最後に坑内作業員をやめ、その後「炭坑は消え行く」と題した自叙伝を書き、その挿絵として記録画を制作した。昭和50年、48歳で死去した。


タイガー立石と筑豊の画家

2017-05-05 | 画人伝・福岡


文献:多彩な美 田川市美術館の歩み、福岡県の近代絵画展福岡県西洋画 近代画人名鑑福岡県が生んだ画家たち展


炭鉱で栄えた筑豊地区は、戦中戦後の混乱期に石炭増産に沸き、中央から映画や芝居、漫画といった多くの大衆文化が流入してきた。戦後前衛美術の旗手の一人として活躍したタイガー立石(1941-1998)は、田川に生まれ、その特異な活気の中で多くのものを吸収し、作家としての素養を形成していった。上京後は「観光」を作品のキーワードとし、多摩川河原での観光芸術展や、東京駅での路上歩行展などを行なった。いかに観る者に喜びや驚きを与えるか、そのための仕掛けを生涯を通じて生み出し続けた。田川に生まれた石井利秋(1911-2001)は、郷里で炭鉱労働のかたわら制作を続け、当初は炭鉱をモチーフにした抽象的な作品を描いていたが、炭鉱を後世に伝えるという使命感に目覚め、昭和46年から女坑夫の姿や炭鉱災害の場面を具象で描くようになった。飯塚に生まれた立花重雄(1920-1995)は、ボタ山や炭鉱住宅などの風景をテーマに、黒く重厚な絵肌による炭鉱シリーズを発表、「ボタ山画家」と称され一躍名を高めた。飯塚で教員生活を続けた築山節生(1906-1986)と、直方で教員のかたわら自宅に画塾を開いた阿部平臣(1920-2006)は、ともに多くの後進を育て、筑豊の画家たちに大きな影響を与えた。また、筑豊からは織田廣喜、野見山暁治という著名画家も出ている。

タイガー立石(1941-1998)
昭和16年田川郡伊田町生まれ。本名は立石紘一。のちに立石大河亞と改名。昭和36年武蔵野美術短期大学芸能デザイン科に入学、卒業した昭和38年、読売アンデパンダン展でデビューした。翌39年には中村宏と「観光芸術研究所」を設立し、多摩川河原での観光芸術展や、東京駅での路上歩行展などを行なった。昭和40年からサイレント漫画を描き始め、昭和44年にイタリアへ渡ったあと、ストーリー性や時間的要素を取り入れたコマ割り絵画を展開。イタリアではイラストやデザインも手掛け、昭和57年に帰国した。油彩、シルクスクリーン、鉛筆、陶による作品に加え、漫画や絵本の制作など、多彩な分野で活動を行い、「観る」という行為から生じるコミュニケーションを促すための仕掛けを生み出した。平成10年、56歳で死去した。

石井利秋(1911-2001)
明治44年田川郡伊田町生まれ。三井尋常小学校卒業後、大正14年から約2年間、三井田川鉱業所で坑内雑夫として働いた。その後、画家を志して上京、昭和7年に日本美術学校洋画部に入学した。在学中および卒業後も大久保作次郎に師事した。昭和11年帰郷して再び三井田川に勤務した。以後は田川を離れることなく、炭鉱労働のかたわら制作を続けた。昭和12年、日本美術学校の先輩である田川在住の横山群らと、田川で初めての絵画グループ「彩人社」を結成。昭和21年、三井田川洋画同好会の結成に参加した。同会で、福岡学芸大学田川分校で教鞭をとっていた築山節生を招き、指導を受けた。31年モダンアート展に初入選、以後も出品を続け、昭和42年、会友となり福岡支部長。昭和44年に会員となった。この頃までは炭鉱をモチーフに抽象的な作品を描いていたが、炭鉱を後世に伝えるという使命感に目覚め、昭和46年から、女坑夫の姿や炭鉱災害の場面を具象で描くようになった。平成13年、90歳で死去した。

立花重雄(1920-1995)
大正9年福岡県飯塚市生まれ。少年時代から絵を好んだが、召集のため本格的に学ぶことはなかった。復員後、飯塚市で旅館や料理店を営むうち、絵への思いが再燃し、昭和30年に上京、同郷の田崎廣助に師事するとともに、中央美術学園に学んだ。昭和32年に卒業して帰郷、帰途に汽車から眺めた、見慣れたはずの郷里の炭鉱風景に衝撃を受け、ボタ山や炭鉱住宅などの風景をテーマに黒く重厚な絵肌による炭鉱シリーズを発表、折りしも筑豊から炭鉱が姿を消しつつある時期で、立花は「ボタ山画家」と称され、一躍名を知られるようになった。昭和39年日展で特選、昭和62年日展会員となった。昭和42年に初めて欧州を訪れ、スペインの街並みに炭鉱町に似た感覚を受け、以後は赤や黄の原色の太陽の下、哀愁を帯びた街並みを描いた。平成7年、75歳で死去した。

築山節生(1906-1986)
明治39年佐賀県唐津市生まれ。のちに釜山に移った。小学校を卒業後、北九州、大阪、東京など、職を変えながら渡り歩き、18歳頃に画家を志すようになった。大正14年朝鮮で小学校教員試験に合格、さらに苦学して昭和8年文部省施行の西洋画・用器画教員試験に合格した。翌9年から幾つかの師範学校で教鞭をとってのち、昭和22年福岡第二師範学校に赴任した。本校および分校で指導するにあたり、中間地点である飯塚に居を構え、同校が福岡学芸大学、福岡教育大学と名称変更するなか、昭和45年まで勤務した。27歳頃から宮本三郎に私淑し、二紀展に出品、昭和32年二紀会委員となった。昭和61年、79歳で死去した。

阿部平臣(1920-2006)
大正9年鞍手郡直方町生まれ。昭和14年東京美術学校油画科予科に入学、翌年本科に進んだが、昭和18年に戦時による繰上げ卒業となり帰郷した。田川中学校に就職した後、戦後は直方の中学校を転勤しながら教師生活を続けた。昭和25年から自由美術家協会展、昭和27年から春陽会展に出品していたが、その後は行動美術展に出品し、昭和37年行動美術協会会員となった。教師生活のかたわら、自宅に画塾を開いて多くの後進を育て、筑豊の画家たちに大きな影響を与えた。平成18年、85歳で死去した。


寺田政明と福岡の異色洋画家

2017-05-01 | 画人伝・福岡


文献:生誕100年 寺田政明展、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県福岡県西洋画 近代画人名鑑

福岡県八幡市(現北九州市)に生まれた寺田政明(1912-1989)は、16歳で上京、福沢一郎や松本竣介らと前衛美術運動を展開し、池袋モンパルナスの中心人物として活躍した。田川郡赤池町生まれの長末友喜(1916-1949)は、寺田のすすめで活動をともにし八幡市美術協会の設立に参加するなど地元でも活動していたが33歳で早世した。久留米市生まれの藤森静雄(1891-1943)は、恩地孝四郎らと一緒に創作版画運動の中心となって活動し、日本創作版画協会、日本版画協会の創設に参加するなど、日本版画の黎明期に活躍した。愛媛に生まれ北九州で育った柳瀬正夢(1900-1945)は、村山知義らと前衛的な芸術運動を展開。福岡市生まれの板谷房(1923-1971)は、東京美術学校卒業後に渡仏し、パリで藤田嗣治の知遇を得て生涯パリで活動した。大分に生まれ北九州市で育った平野遼(1927-1992)は、独学で洋画を修得、主体美術協会の創立に参加したが、のちに退会し無所属で活動、独自の画風を確立した。

寺田政明(1912-1989)
明治45年福岡県八幡市生まれ。幼い頃に怪我で入院した際、病院の庭で絵を描いている医師と出会ったことがきっかけで画家を志すようになった。16歳で上京、小林萬吾の同舟舎絵画研究所を経て太平洋美術学校に学び、ここで吉井忠、鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎らと知り合った。また、画家や文士の溜り場だった茶房リリオムで長谷川利行、靉光らと出会った。昭和7年独立美術協会展に初入選、12年に同展協会賞を受賞した。昭和8年鶴岡政男らが結成したNOVA美術協会に出品、同年豊島区長崎に転居した。当時この地域には画家や文士が多く集まっており「池袋モンパルナス」と称されていた。この地で、詩人の小熊秀雄ら多くの画家や詩人と交遊し、さまざまな美術運動を展開した。昭和11年麻生三郎、吉井忠らとエコール・ド・東京を結成、同年前衛作家約80名により結成されたアヴァン・ガルド芸術クラブの発起人の一人となった。さらに、同年池袋美術家クラブを設立。昭和13年には、エコール・ド・東京を解散し、糸園和三郎、古沢岩美らと創紀美術協会を結成したが翌年解散。昭和14年に福沢一郎らと美術文化協会を、昭和18年には靉光、麻生三郎らと新人画会を結成した。戦後は、昭和24年に美術文化協会を脱退し、自由美術家協会に移ったが、昭和29年には同会を退会し、森芳雄、吉井忠らと主体美術協会を結成、以後同展に出品した。晩年は小樽運河の連作や樹木シリーズなど、詩情と哀感の漂う作品を制作した。昭和元年、77歳で死去した。

長末友喜(1916-1949)
大正5年田川郡赤池町生まれ。昭和6年嘉穂郡伊岐須高等小学校を卒業し、しばらく八幡製鉄所で働き、昭和9年花尾職業学校冶金科に入学した。昭和11年同校を卒業したが、翌年召集され中国山西省に赴いた。昭和13年帰国し、翌年再び八幡製鉄所に入社。昭和13年に福沢一郎らが創立した美術文化協会に翌年の第1回展から連続出品し、昭和21年会員となった。一方、地元でも製鉄所洋画部、北九州美術家連盟などで活躍。昭和21年の八幡市美術協会設立に際し、委員として参加した。昭和23年村田東作らと美術団体橄欖社創立したが、翌24年、33歳で死去した。

藤森静雄(1891-1943)
明治24年久留米市生まれ。明治43年中学明善校卒業後上京、白馬会原町洋画研究所に通った。翌44年東京美術学校予備科に入学、在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と親しく交遊し、三人でしばしば竹久夢二と訪ねた。大正2年木版画制作を開始し、翌年恩地らと自摺私輯「月映」を創刊、大正4年の第7号まで刊行した。大正5年東京美術学校西洋画本科を卒業、父が町長を務める福岡県嘉穂郡飯塚町に戻り、一時台湾の中学校で教鞭についたが、大正11年まで嘉穂中学校の教員を務めた。大正7年に日本創作版画協会の創立に参加。大正11年に再上京し、15年から春陽会展に出品した。昭和3年からは版画のみを出品した。昭和6年に日本版画協会の創立に参加。その間、福岡日日新聞に連載挿絵を2度担当した。昭和15年帰郷し、以後は飯塚市に住んだ。昭和18年、53歳で死去した。

柳瀬正夢(1900-1945)
明治33年愛媛県生まれ。本名は正六。明治44年福岡県門司市に移り、市立門司小学校に転入。大正3年に上京して日本水彩画会研究所で学び、同年日本水彩画会展に入選した。翌年門司に戻り、院展入選。大正7年再上京して本郷洋画研究所に学んだ。大正10年未来派美術協会に参加。大正12年村山知義を知り、前衛的な美術運動に共鳴、マヴォ結成に参加した。翌年三科造形美術協会発起人となった。この頃から社会主義思想に傾き、労働運動に関わって油絵制作から遠ざかった。昭和1年プロレタリア芸術連盟創立に参加、中央委員となった。ほかにもナップ、前衛座、日本漫画連盟などの創立に参加。文芸誌や機関誌の装丁や挿絵、舞台装置考案などでも活躍した。昭和6年日本共産党に入党、翌年逮捕され、昭和8年治安維持法違反で有罪判決が下り、活動を制限され画家生活に戻った。昭和20年、新宿駅空襲の時に焼夷弾を受け、46歳で死去した。

板谷房(1923-1971)
大正13年福岡市生まれ。北崎高等小学校から小倉師範学校に学び、2年間教職についたのち東京美術学校図画師範科に入学。昭和27年に同校を卒業し、翌年渡仏し終生のほとんどをこの地で過ごした。藤田嗣治の親交を得て、昭和29年2人で「猫展」を開催。翌年パリで第1回個展を開き、エルサレム美術館、在パリ日本大使館、カーネギー財団に作品を買い上げられた。サロン・ドートンヌ、ル・サロンに出品。昭和38年フランス政府から芸術院賞を授与された。昭和46年、48歳で死去した。

平野遼(1927-1992)
昭和2年大分県佐賀関町生まれ。すぐに福岡県八幡市に転居。昭和15年徴用令のため造船所で働き、終戦後は住居を転々としつつ米軍のポスター描きや似顔絵描きをした。昭和24年新制作派協会展に独自に編み出した蝋画が初入選。同年前衛美術展に出品した。昭和25年帰郷して小倉にアトリエを構えた。翌年自由美術家協会展に入選、以後出品し、昭和33年会員となったが、昭和39年同会を退会して、森芳雄、大野五郎らと主体美術協会の創立に参加したが、昭和50年に同会を退会、以後は無所属で活動した。平成4年、65歳で死去した。


自己の信じる写実に徹した高島野十郎

2017-04-27 | 画人伝・福岡


文献:没後30年 高島野十郎展、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして

久留米生まれの高島野十郎(1890-1975)は、昭和50年に85歳で没するまで、どの団体にも属さず、福岡と東京で開いた数少ない個展を唯一の発表の場とした。「画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進」との信念のもと、美術の流行や画壇の趨勢には見向きもせず、自然のみを師とし、自己の信じる写実に徹した。生涯でその名が広く知られることはなかったが、近年開催された展覧会によって、その独自の画境が知られることとなり、自己の信念に誠実に生きた生涯が人々を魅了し、多くの愛好家を生み出した。

大正期から長年に渡り描き続けられた「蝋燭図」は、個展で発表することなく、知人や友人に分け与えられた。野十郎自身は生涯を通じて「絵は売り物ではない」という信念のもと活動していたが、東京帝国大学時代の学友たちがパトロンとなり絵を購入したり、知人に斡旋したりして活動をささえた。友人たちは、野十郎の絵が世に知れ渡り、彼の生活が維持できるようにと奔走したが、「高島野十郎」の名を生前に高めることはできなかった。

高島野十郎(1890-1975)
明治23年福岡県三井郡合川村(現久留米市)生まれ。本名は弥寿、字は光雄。裕福な醸造家の四男。父は南画をたしなみ、叔父の大倉正愛は東京美術学校西洋画科を出た洋画家。さらに長兄の詩人・高島宇朗は青木繁との交流があり、幼少時から絵に対する関心が培われる環境にあった。美術学校への進学を志したが、父の許可が得られず、明治45年東京帝国大学農学部水産学科に入学した。大正5年同学科を首席で卒業し、研究者としての前途を嘱望されたが、画家への道を選んだ。絵は師や画塾に学ぶことなく、すべて独学で、初期から一貫して細密な写実を手掛けた。坂本繁二郎ら久留米出身の画家たちとは交流があった。昭和3年、間部時雄や五味清吉らと「黒牛会」を結成、特定の芸術的主張を掲げたのではなく、互いの研鑽を計る少人数の集いにすぎなかったが、野十郎にとっては生涯唯一のグループ活動となった。

昭和4年、39歳の時に美術研究のために渡欧し、数年間欧州に遊んだ。アメリカを経由してパリに滞在、ドイツやオランダ、イタリアへも足を伸ばした。現地でも誰かに師事することなく、欧州に滞在していた日本人画家と交流することもなく、ひとり美術館や教会を見て周り、現地での制作に勤しんだ。昭和8年に帰国し、その後は故郷の福岡から東京の青山、そして千葉県柏市へと居を変えながら、小さなアトリエと旅先を行き来する生活を続けた。団体展などには出品せず、個展だけを発表の場とし、あまり他の画家たちと交わることもなかった。昭和50年、85歳で死去した。



上田宇三郎と福岡の異色日本画家

2017-04-25 | 画人伝・福岡


文献:福岡県の近代絵画日本画 その伝統と近代の息吹き、久野大正水墨画展

戦後の福岡での最初の美術運動といわれる「朱貌社」は、洋画家の宇治山哲平、赤星孝、山田栄二と、日本画家の上田宇三郎(1912-1964)、久野大正(1913-1987)によって、昭和22年創設された。同社は新しい時代が求める新しい表現を、ジャンルを越えて探求しようとしたもので、この運動の中で上田も久野も独自の水墨画表現を展開することとなった。また、熊本に生まれ宗像郡で活躍した甲斐巳八郎(1903-1979)は、福田平八郎や菊池契月に学んだのち、独自の水墨画の世界を確立、主に個展を中心に活動した。八女郡生まれの井上三綱(1899-1981)は、坂本繁二郎に学び、洋画の技法を日本画の世界に持ち込み、和洋折衷の画風を確立、海外で高い評価を受けた。

上田宇三郎(1912-1964)
大正元年福岡市芥屋町生まれ。大正7年一家をあげて福岡市下名島町に移転した。のちにグループ「朱貌社」を結成することになる赤星孝、久野大正とは、大名尋常小学校、福岡中学校での同窓だったが、昭和4年に同中学を病気退学した。同年、京都在住の日本画家・平川晃生に師事し、気候のよい春と秋は平川宅へ、夏と冬は福岡で療養するという生活をしばらく続けた。戦後間もない昭和20年、西部美術協会の結成に参加。おなじく参加していた宇治山哲平が宇三郎の作品に目を留めたことがきっかけで、昭和22年宇治山哲平、赤星孝、久野大正、山田栄二と「朱貌社」を結成した。以後28年の解散まで出品し、同年代の洋画家たちとの交流の中で、大胆な輪郭線とやわらかい色彩で表現する抽象的画風を確立していった。昭和34年には日本表現派の会員となり、以後毎年出品。墨の濃淡と限られた色によって、樹木や水の流れを描き出し、意欲的な制作活動を展開していたが、病のため、昭和39年、52歳で死去した。

久野大正(1913-1987)
大正2年福岡市天神町生まれ。昭和5年に福岡商業学校を卒業後、南画家・小柴春泉に数年間学んだ。のちに三岸節子を知り、新制作協会に出品するようになった。昭和15年ペインターとして上海に渡り、終戦とともに帰国して福岡に住んだ。昭和22年上田宇三郎らと朱貌社を結成。また「如月会」水墨画グループを主宰し、後進の育成とともに発表の場とした。墨を生かした抽象的作品を描いた。昭和62年、74歳で死去した。

甲斐巳八郎(1903-1979)
明治36年熊本市生まれ。有田工業学校図案絵画科を卒業後、大正11年に京都市立絵画専門学校に入学、福田平八郎、菊池契月に師事した。昭和2年に卒業後、中国山西省の雲崗石窟調査隊に参加。宗像郡で2年間の教師生活の後、昭和5年に中国東北地区に渡った。満州鉄道社員会報道部に所属して、中国各地の風俗をスケッチを添えて伝えるほか、中国の自然風土や人々の生活から受けた感銘を日本画で表現した。中国での生活は18年近くに及び、終戦後の昭和22年、妻の郷里である宗像郡福間町に引き揚げ、この地に永住した。昭和23年から再興美術院展に出品し、院友となったが、昭和30年を最後に出品をやめ、福岡県美術協会への参加や個展など、地元の活動に専念した。昭和54年、76歳で死去した。

井上三綱(1899-1981)
明治32年福岡県八女郡古川村生まれ。9歳の頃、村芝居で演じられた絵師・又平の姿が、絵を描く動機となった。大正8年に小倉師範学校を卒業後、母校の教師となるが、翌年本格的に画を学ぶために上京。本郷絵画研究所で学んだのち、昭和元年フランスから帰国した坂本繁二郎を訪ね、師事した。坂本を終生の師と仰ぎ、また青木繁にも尊敬の念を抱き続けた。大正5年に帝展初入選、以後も7回帝展、新文展に出品した。また、牧雅雄に彫刻を学び、日本美術院展に彫刻作品を2度出品した。昭和5年頃から日本画や書に親しみ、昭和14年頃からは万葉の世界をモチーフとした作品も手掛けるようになった。昭和25年から国展に出品し国画会会員になったが、昭和36年同会を退会、以後は無所属として活動した。晩年には屏風形式の作品にも取り組み、文字の生まれる過程や古代の音の響きを表現する作品も制作。東洋思想を墨色で表現した画風は海外でも注目された。昭和56年、82歳で死去した。


児島善三郎と福岡の独立美術協会

2017-04-22 | 画人伝・福岡


文献:田園の輝き児島善三郎、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県北九州市立美術館コレクション 1974-1991

日本の自然風景を装飾化、様式化することによって「児島様式」と呼ばれる日本的洋画を完成させた児島善三郎(1893-1962)は、昭和5年二科会を脱退し、日本のフォビスムを旗印に同志14名とともに独立美術協会を創設した。児島の活動拠点は東京だったが、独立美術協会を通じて多くの後進に影響を与え、福岡には児島に続く独立画家たちが多く現れ、そのグループを核にして福岡の洋画壇は活性化していった。福岡の独立美術協会の画家としては、粕屋郡生まれの赤星孝、福岡市生まれの山田栄二、青柳暢夫、大牟田市生まれの藤岡一、粕屋郡生まれの熊代駿、大宰府生まれの井上寛信、筑後市生まれの下川都一朗、それに高知県生まれで戦後に福岡に来て早世した今西中通らがいる。

児島善三郎(1893-1962)
明治26年福岡市中島町生まれ。紙問屋児島本家の当主・児島善一郎の長男。中学修猷館3年生の時に絵画同好会「パレット会」を作り、2歳年下の中村研一やその弟・琢二らと活動した。卒業後は画家を志望したが、父の許しが得られず、長崎医学専門学校薬学科に進学したが、ほどなく中退、店の売り上げを持ち出して家出して東京に向かった。大正3年岡田三郎助の本郷洋画研究所で二ヶ月ほど学び、東京美術学校を受験するが失敗、以後は師につくことなく独学で画を学んだ。大正10年二科展に初入選。翌年には二科賞を受賞するなど順調な歩みをみせるが、大正14年基礎を学ぶため渡仏。約3年の滞欧の後、昭和4年には二科会会員となるが、翌年脱退。西洋の模倣ばかりでなく、日本人は日本人の絵画を持つべきだとの信念のもと、同志たちと独立美術協会を結成した。洋画に学んだ基礎の上に、南画や琳派の研究によって得た作風を取り込み、日本の自然風景を、装飾化、様式化して描いた。活動の拠点は東京だったが、独立美術協会を通じて多くの後進に影響を与え、福岡には児島に続く独立画家が多く現れた。また、昭和8年の筑前美術会や昭和15年の福岡県美術協会結成にも大きな役割を果した。昭和37年、69歳で死去した。

足達襄(1911-1999)
明治44年福岡市中央区生まれ。中学修猷館在学中、福岡県商品陳列所で開催された児島善三郎の滞欧作品展に感銘を受け、画家を志すようになった。卒業後に上京、昭和5年帝国美術学校に入学、清水多嘉示に師事した。翌年、児島らが結成した独立美術展第1回展に初入選し、以後も出品を続け、昭和23年独立美術協会会員となった。この間、福岡独立作家協会の結成に参加。戦前は東京に住んでいたが、戦後は帰郷し大宰府にアトリエを構え、独立展の主要画家として、地元でも精力的に活動し、松田諦晶主宰の来目洋画道場の講師もつとめた。昭和32年には筑紫野市に筑後芸術学院を開設、後進の指導につとめた。平成11年、88歳で死去した。

山田栄二(1912-1985)
明治45年福岡市上新川端町生まれ。中学修猷館を卒業後、画家を志し上京。昭和8年二科展に、翌年独立展に初入選した。以後は発表の場を独立展に定め、昭和13年に独立賞を受賞、昭和22年には独立美術協会会員となった。また、同年、赤星孝、上田宇三郎、宇治山哲平、久野大正と5名による「朱貌社」を結成、約6年間、講習会や展覧会を続けた。昭和28年、朱貌社の解散とともに渡仏、約5年パリで学んだ。さらに昭和48年にも再渡欧し、昭和57年には滞欧15年を記念して福岡で大個展を開催した。73歳で死去した。昭和60年、73歳で死去した。

赤星孝(1912-1983)
明治45年粕屋郡古賀町生まれ。福岡中学校を卒業後、昭和7年に上京、武蔵野美術大学で学んだ。同年独立展に初入選し、昭和15年に独立賞を受賞、昭和23年に独立美術協会会員となった。昭和16年召集され、久留米で4年間の兵役生活を送る中、戦時下の必勝美術展覧会会合で坂本繁二郎に出会い、これを機に八女のアトリエを訪れるようになり、私淑した。「朱貌社」の結成にも参加、昭和24年には福岡県美術協会の再興に参加するなど、福岡の美術界活性化に貢献した。昭和58年、71歳で死去した。


古賀春江と福岡の二科会

2017-04-20 | 画人伝・福岡


文献:福岡県が生んだ画家たち展福岡県の近代絵画展、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして

大正3年、文部省展覧会から分離して、在野の洋画団体として二科会が誕生した。その創立会員に久留米出身の坂本繁二郎が名を連ねていた関係で、坂本を慕う同郷の若い画家たちの多くが二科会に参加した。こうした画家たちの筆頭が、久留米生まれの古賀春江(1895-1933)である。古賀は、当時の日本に新潮流として紹介されるさまざまな表現を吸収し、新しい表現を追求、前衛画家として活躍した。また、最も深く坂本に心酔していたのは、浮羽郡生まれの伊東静尾(1902-1971)で、伊東は最後まで久留米にとどまり、福岡の若手による二科西人社の創立に参加するなど、指導者として多くの後進に影響を与えた。この伊東の努力により久留米に二科会の大きな拠点ができ、山本和夫、上野与一郎、安達実夫、大石隆、酒見敏雄、川原貫一らが二科展を舞台に活躍した。一方、福岡地区での二科会の中核は福岡市生まれの伊藤研之(1907-1978)だった。伊藤は、二科会九室会で早くから有能な新人として注目されたが、中央に進出することなく、郷里福岡で終生二科会の発展のために尽力した。この地区からは、粕屋郡生まれの今長谷巌、福岡市生まれの真隅太荘などのほか、終戦直前にビルマで戦死した佐賀県生まれで福岡市に移り住んだ椎野修らがいる。

古賀春江(1895-1933)
明治28年久留米市寺町生まれ。本名は亀雄。父は久留米市浄土宗善福寺住職。明治43年中学明善校に入学した頃から松田諦晶に画を習い始め、2年後には明善校を中退して上京、太平洋画会研究所で学び、大正2年には日本水彩画会研究所に入り、石井柏亭に師事した。上京後も松田を兄のように慕い、松田らが結成した来目洋画会の展覧会にも毎年のように作品を送り続けた。大正6年に二科展に初入選、以後落選が続いたが、大正11年に二科賞を受賞、同年中川紀元、浅野孟府ら二科展出品の若手作家13人によるグループ「アクション」を結成した。初期には水彩画を好んで描いていたが、二科賞受賞頃から油彩画にも力を注ぐようになり、キュビスム、表現主義、構成主義、シュルレアリスムなど、当時の日本に新潮流として紹介されるさまざまな表現を吸収し、作品に昇華させていった。昭和5年に二科会会員となった。詩作にも才能を発揮し、画作と連動した詩を多く発表するなど、独自の境地に評価も高まっていたが、昭和8年、38歳で死去した。

伊東静尾(1902-1971)
明治35年福岡県浮羽郡水縄村生まれ。本名は静。中学明善校在学中に画家を志し、大正8年に同校を中退して上京、日本美術学校に入学した。大正13年に同校を卒業し、その後は久留米に戻り終生この地に住んだ。同年、フランスから帰国して間もない坂本繁二郎を訪ね弟子入りを志願したところ、画友ならいいという返事をもらい親交を深めた。翌年には来目会展に出品し、松田諦晶との交友も始まった。坂本、松田の影響もあり二科展に出品するようになり、昭和8年に初入選、昭和29年に二科会会員となった。初入選の翌年には福岡の若手による二科西人社の創立に参加し、中心的な役割をになった。また、昭和24年には自宅に江南画塾を開き、毎年展覧会を開催するなど、後進の育成につとめた。昭和46年、68歳で死去した。

伊藤研之(1907-1978)
明治40年福岡市大名町生まれ。中学修猷館で美術部に所属し、大正12年に初めて福岡に巡回展示された二科展に感銘を受けた。卒業後、昭和4年に早稲田大学に入学すると、寄宿先の近くにかつて二科展で作品を見て惹かれた酒本博示がおり、指導を受けて本格的に絵を勉強するようになった。昭和5年に1930年協会展に出品、翌6年に二科展に初入選、昭和13年二科会の前衛的な画家による九室会の創立に参加した。昭和15年には二科特待賞を受賞、同年上海に渡り、画作を続けながら昭和21年まで過ごしたのち郷里に帰った。昭和26年には二科会員となり、昭和33年からは福岡支部長をつとめ、終生二科会の発展のために尽力した。昭和53年、71歳で死去した。


実直な写実を貫いた中村研一と福岡の官展系洋画家

2017-04-18 | 画人伝・福岡


文献:中村研一回顧展、福岡県の近代絵画展、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、福岡県西洋画 近代画人名鑑

宗像郡生まれの中村研一(1895-1967)は、東京美術学校で岡田三郎助に師事し、早くからその才能が注目され、卒業の年には帝展に初入選した。美校在学中から留学を希望し、大正12年についに渡仏したが、パリ画壇で湧き起こっていた新表現を標榜する潮流には目も向けず、モーリス・アスランに私淑して実直な写実を学んだ。帰国後も手堅い写実による人物画などを発表し、在野の二科や独立の画家たちが、西洋の新しい手法を取り入れて勢いを増すなか、確固たる技術を守るべきだという姿勢を貫き、官展の重鎮として活躍した。実弟の中村琢二(1897-1988)は、東京帝国大学経済学部を卒業後、フランスから帰国した兄に勧められ画家として立つことを決意、安井曾太郎に師事した。兄とは異なりマチスを愛し明るい色彩と簡潔は筆致で独自の画風を開拓した。ほかに福岡の官展系の洋画家としては、八女郡生まれで文化勲章を受章した田崎廣助、京都郡出身の遠山五郎、鞍手郡生まれの山喜多二郎太をはじめ、倉員辰雄、福田新生、手島貢、萩谷巌、高宮一栄、木下邦子、加治邦子、高野達、高田力蔵、伊勢幸平らがいる。

中村研一(1895-1967)
明治28年宗像郡南郷村生まれ。郷里の宮田村尋常小学校から東郷高等小学校を経て、明治42年中学修猷館に入学した。在学中に2年先輩の児島善三郎に誘われて絵画同好会「パレット会」に参加し絵に親しんだ。大正3年に同校を卒業、美術学校進学を希望したが父の許可が得られず、三高受験準備の名目で京都に出て鹿子木孟郎の内弟子になった。翌年孟郎の口ききにより父から美術学校受験の許可を得て上京、岡田三郎助が主宰する本郷絵画研究所に学び、同年東京美術学校西洋科に入学した。大正9年に同校を卒業し、同年帝展に初入選、翌年特選を受賞した。美校在学中から留学を希望しており、大正12年ついに渡仏、モーリス・アスランに写実を学んだ。昭和3年に帰国し同年から帝展に2回連続で特選、昭和5年には帝国美術院賞を受賞した。以来、戦後の日展まで官展で活躍、昭和33年からは日展常務理事をつとめた。また、昭和3年からは光風会会員として光風会にも所属した。戦後は美術団体連合展、現代日本美術展にも出品。昭和25年日本芸術院会員となった。昭和42年、72歳で死去した。

中村琢二(1897-1988)
明治30年新潟県佐渡郡生まれ。中村研一の実弟。明治39年、9歳の時に祖父母や兄研一のいる福岡県宗像郡の郷里に移住した。明治44年中学修猷館に転入、兄や児島善三郎に影響されて油絵を始めた。大正13年東京帝国大学経済学部を卒業。昭和3年にフランスから帰国した兄に勧められ本格的に絵筆を握ることを決意し、兄の紹介により昭和5年安井曾太郎に師事、同年から二科展に連続入選した。昭和12年には安井らが創設した一水会展に出品、昭和16年一水会の新文展参加に伴い、第4回新文展に出品し特選を受賞した。昭和17年一水会会員に、昭和21年同委員となった。昭和28年一水会展出品作で芸能選奨文部大臣賞を受賞。昭和38年日本芸術院賞、昭和56年日本芸術院会員に推挙された。日展では、昭和55年に日展参事、昭和57年からは日展顧問をつとめた。昭和63年、90歳で死去した。

田崎廣助(1898-1984)
明治31年八女郡北山村生まれ。本名は廣次。八女中学時代に図画教師・安藤義重に勧められ美術学校進学を志すが、父に反対され、大正5年福岡師範学校に入学した。翌年卒業して教員となったが、画家への思いが再燃し、大正9年県立高校への転任の話を捨てて上京、本郷駒本小学校の図画教師をしながら坂本繁二郎に師事した。関東大震災を機に京都に移り、大正15年二科展に初入選、いったん再上京したのち、昭和7年に渡仏してパリにアトリエを構えた。約3年間の滞在ののち帰国し、昭和11年に創設された一水会に第1回展から出品、昭和14年に会員となった。昭和36年日本芸術院賞を受賞、昭和42年芸術院会員。昭和50年文化勲章を受章した。昭和20年代終わり頃から始まる阿蘇山の連作をはじめ、大自然の崇高を象徴する山々を描き続けた。昭和59年、85歳で死去した。

遠山五郎(1888-1928)
明治21年京都郡豊津村生まれ。明治41年県立豊津中学を卒業、軍人を志すが病気のため断念、画家を志して上京し、白馬会洋画研究所に入った。翌年東京美術学校西洋画科に入学。在学中に文展に初入選。大正3年に同校を卒業して米国経由で欧州に向かおうとしたが、第一次世界大戦のためやむなく大正8年まで米国に滞在し、翌年パリに渡りアカデミー・ジュリアンやアカデミー・コラロッシで学んだ。大正11年帰国し、同年の帝展で特選を受賞、翌年中村研一らの金塔社展にも出品した。同社の光風会合流を機に同年光風会会員となった。昭和3年、41歳で死去した。

山喜多二郎太(1897-1965)
明治30年鞍手郡山口村生まれ。植木尋常小学校から直方高等小学校に進み、明治42年早良郡に移り、草ケ江高等小学校を経て、明治44年県立福岡工業学校に入学した。大正4年同校卒業とともに上京し、東京美術学校西洋科に入学、藤島武二に師事した。在学中に寺崎広業にも師事した。大正9年同校を卒業、同年から帝展に入選を重ね、昭和9年に特選、翌年の二部会展で文化賞特選を受賞、昭和12年文展無鑑査、昭和33年日展評議員となった。大正14年から光風会展にも出品、昭和33年光風会理事となった。また、筑前美術会、福岡県美術協会の結成に参加した。晩年は水墨画の手法を取り入れた独自の画風を展開した。昭和40年、68歳で死去した。

倉員辰雄(1900-1978)
明治33年八女郡上陽町生まれ。郷里の尋常小学校に入学したが、2年生の時に両親とともに朝鮮に渡った。大正初頭、単身帰郷して県立中学明善校に学び、大正8年同校卒業とともに台湾銀行に就職。大正12年同行を退き、画家を志し、大正14年東京美術学校西洋画科に入学、岡田三郎助に師事した。昭和4年同校を卒業、同年から帝展に入選を重ね、昭和10年二部会展文化賞特選、翌年から新文展で3回連続で特選を受賞した。昭和35年日展評議員となり、創元会常任委員もつとめた。昭和53年、78歳で死去した。


筑前洋画の先覚者・吉田嘉三郎とその後継者・吉田博

2017-04-14 | 画人伝・福岡


文献:近代洋画と福岡県福岡県西洋画 近代画人名鑑、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、福岡県立美術館所蔵品目録

筑後洋画の先覚者が森三美なら、筑前洋画の先覚者は吉田嘉三郎(1861-1894)だろう。大分県生まれの嘉三郎は、京都で田村宗立に学んだのち、上京して彰技堂で本格的に西洋画を学んだ。明治22年に福岡市に移り、中学修猷館で教鞭をとったが、のちに生徒だった吉田博(旧姓上田)を養子に迎えて後継者とした。吉田博(1876-1950)は、養父と同様に京都で田村宗立に学び、のちに上京して小山正太郎の不同舎に入った。不同舎では、青木繁、坂本繁二郎の先輩にあたる。吉田は明治美術会系の洋画家として活動、明治35年には太平洋画会の創立に参加した。また、文展には明治40年の第1回展から出品、同じ福岡県出身で東京美術学校卒の庄野伊甫(1876-1958)とともに福岡県の官展系の先駆者となった。以後、太平洋画会研究所を通じての生徒だった示現会の光安浩行、太平洋画会の多々羅義雄や佐々貴義雄らがそのあとに続いた。

吉田嘉三郎(1861-1894)
文久2年大分県中津生まれ。旧中津奥平藩士。中津中学校に学んだのち、明治10年に京都に出て田村宗立に西洋画を学び、さらに明治19年上京して彰技堂の本多錦吉郎に学んだ。この間、内国勧業展覧会、国絵画共進会などに出品した。中津中学校の助教諭を経て、明治20年に福岡に移り、明治22年から25年まで中学修猷館で助教諭として勤務、同校美術部の初代部長をつとめた。のちに生徒だった吉田博(旧姓上田)を養子に迎えて後継者とした。著書に「大成習画帖」などがある。明治27年、33歳で死去した。



吉田博(1876-1950)
明治9年久留米市生まれ。明治12年に浮羽郡に転居。吉井小学校に入学したが、明治20年に一家をあげて福岡市に転居した。中学修猷館に学び、当時同校の図画教師をしていた吉田嘉三郎に画才を見込まれ養子となった。明治26年に京都に出て田村宗立に入門。この頃三宅克己と知り合い水彩画を描き始め、三宅の勧めで翌年上京して不同舎に入った。明治30年頃に明治美術会会員となった。明治32年1回目の欧米遊学し2年後に帰国。翌年太平洋画会の結成に参加した。明治40年第1回文展から出品して3等賞、翌年から連続2等賞を受賞し、明治43年から審査員をつとめた。帝展審査員も3度つとめ、その後、二部会展、新文展に連続出品した。大正9年新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、木版画を手掛けるようになり、海外での展覧会も開催した。昭和8年筑前美術協会の創立に参加、昭和11年足立源一郎らと日本山岳画協会を結成した。昭和13年から3年連続で従軍画家として中国に赴いている。昭和22年太平洋画会会長となった。山岳風景を好んで描き、取材のため内外を幾度となく旅行した。昭和25年、74歳で死去した。

庄野伊甫(1876-1958)
明治9年福岡市生まれ。東京美術学校西洋画科に入り、浅井忠に師事した。明治33年に同校を卒業したが、明治39年まで同校研究科に籍を置き、洋画を研究した。その間、明治34年明治美術会展、翌年パリ世界大博覧会に入選。また明治36年の内国勧業博覧会で褒状を受け、翌年ルイジアナ世界大博覧会に入選した。明治40年の第1回文展に入選。在京中は、夏目漱石、高浜虚子、中村不折、石井柏亭らと交友があった。大正初頭に帰郷し、大正11年大分県日田中学に図画教師として赴任し、昭和8年まで勤務。同年帰郷して西公園下に住んだ。昭和28年日展に入選したものの、晩年は県美術協会会員としての県展出品が主な作品発表の場となった。昭和33年、82歳で死去した。

光安浩行(1891-1970)
明治24年福岡市席田郡生まれ。中学修猷館を卒業後上京して太平洋画会研究所に入り、中村不折、岡精一に師事した。大正9年に帰郷したが、大正14年に再上京して翌年帝展に初入選した。昭和16年新文展無鑑査、25年日展特選を受賞し、昭和42年日展評議員となった。また、太平洋画会にも出品し、昭和4年から太平洋美術学校教授をつとめた。昭和22年示現会の創立に参加した。昭和45年、79歳で死去した。

多々羅義雄(1894-1968)
明治27年福岡県能古島生まれ。明治34年姪浜尋常小学校を卒業。明治43年佐賀県小城町に移り、洋画を学びはじめ、放浪中の青木繁を知った。同年画家を志して上京、満谷国四郎に師事し、かたわら太平洋画会研究所に学んだ。明治45年から太平洋画会展に入選を重ね、大正8年会員に、昭和25年代表になった。大正2年文展初入選、以後入選を重ね、大正7年特選を受賞、昭和5年帝展無鑑査となった。昭和27年光陽会を創立、のちに初代会長となった。昭和43年、74歳で死去した。

佐々貴義雄(1890-1987)
明治23年東京浅草生まれ。号は不屈。明治38年不同舎に入門、翌年には太平洋画会研究所に入り、中村不折に師事した。大正2年から不折の紹介により桂五十郎陶磁器コレクションの図録を5年間にわたり描いた。大正14年太平洋美術学校教授に就任。昭和8年文展無鑑査となった。昭和13年、14年の2回従軍画家として、吉田博とともに中国各地をスケッチした。昭和23年に大牟田に移住し、私設美術研究所を開設。翌年二科十朗に染色を学び、以後福岡県展工芸部門に出品した。昭和37年大牟田綜合美術工芸部常任委員に、昭和42年に福岡県工芸美術家協会会員となった。また、同年太平洋美術会関与となり、昭和53年には同会の西日本支部長となった。昭和62年、97歳で死去した。


青木繁・坂本繁二郎を指導した筑後洋画の先覚者・森三美

2017-04-12 | 画人伝・福岡


文献:森三美-筑後洋画の先覚、近代洋画と福岡県福岡県西洋画 近代画人名鑑、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして

福岡県久留米市とその周辺は、筑後洋画壇とよばれる独特の芸術風土を持ち、明治以来青木繁や坂本繁二郎ら多くの優れた洋画家を輩出してきた。そうした芸術風土や人脈形成にはさまざまな要因が考えられるが、京都で学んだ洋画の技法を久留米の地にもたらした森三美(1872-1913)の功績が大きいといえる。森三美は、京都で明治最初の美術学校・工部美術学校出身の小山三造に洋画と石版画の技術を学んだのち帰郷、久留米高等小学校および久留米高等女学校の図画教師を務めるかたわら、自宅で洋画塾を開き、後進たちの指導にあたった。この画塾からは、青木繁、坂本繁二郎をはじめ、松田諦晶、大野米次郎ら多くの洋画家が出ており、彼らによって筑後洋画壇の基礎が築かれていった。

森三美(1872-1913)
明治5年久留米市生まれ。明治20年京都府立画学校に入学、翌年から小山三造に師事して3年間洋画を学び、明治24年に帰郷して久留米に洋画塾を開設した。明治27年から久留米高等小学校図画教師となり、明治30年からは久留米高等女学校教師を兼務した。明治34年に師範中学、高等女学校の図画の検定試験に合格し、同年県立東筑中学に赴任し久留米を離れることになった。久留米在住中は、少年時代の青木繁、坂本繁二郎らに模写を中心とした洋画の基礎を指導するなど、後進に大きな感化を与え、筑後画壇発展の礎を築いた。明治40年には佐賀県立佐賀中学校の教諭となり、その後も佐賀県の小学校教員検定委員臨時委員をほぼ毎年つとめたが、大正2年病気のため依願退職、同年、41歳で死去した。



青木繁(1882-1911)
明治15年久留米市生まれ。荘島尋常小学校から久留米高等小学校を経て県立中学明善校に入学した。在学中は森三美に洋画の手ほどきを受けた。明治32年同校を中退して上京、小山正太郎の不同舎に入門した。翌年東京美術学校西洋画科選科に入学、在学中は上野の図書館で神話、伝説などの書物に親しみ画想を練った。徴兵検査のために一時帰郷したが、のちに坂本繁二郎とともに再度上京した。明治36年第8回白馬会に出品した「黄泉比良坂」など画稿数点が第一回白馬会賞を受賞。翌年東京美術学校を卒業し、その夏、坂本繁二郎らと房州に取材して「海の幸」を制作、同年第9回白馬会展に出品して高い評価を受け、一躍、青木の名を有名にした。しかし、明治40年の東京府主催勧業博覧会に出品した「わだつみのいろこの宮」は青木の期待にそわず3等賞に終わり、さらに同年開催された第1回文展にも落選。同年父の死去のため帰郷し、失意と苦難のうちに九州各地を放浪の末、明治44年、29歳で死去した。

坂本繁二郎(1882-1969)
明治15年久留米市生まれ。両替尋常小学校から久留米高等小学校に入学、同級に青木繁がいた。在学中から森三美の手ほどきを受けた。卒業後は久留米高等小学校図画代用教員となったが、帰省中の青木繁に触発されて、青木とともに上京、小山正太郎の不同舎に入門した。明治40年に第1回文展で入選、43年、44年と連続受賞した。大正2年二科会の創立に参加、昭和19年まで所属した。大正10年に渡仏し、シャルル・ゲランに学び13年に帰国後は久留米市に住み、昭和6年には八女郡に転居、戦後はどの団体にも所属せず、終生この地で幽玄質実の絵画を追究した。昭和21年芸術院会員に推挙されたが辞退、昭和31年文化勲章を受章した。昭和44年、87歳で死去した。

松田諦晶(1886-1961)
明治19年久留米市生まれ。本名は実。1歳の時に一家をあげて浮羽郡に転居したが、明治32年に久留米に戻り、久留米高等小学校に転入した。同校で図画教師の森三美の教えを受けた。明治33年久留米商業学校に入学、この頃からほとんど独学で洋画の研究を行ない、盛んに絵を描いていた。同校卒業後は、久留米市役所や絣同業組合に就職していた。明治44年太平洋画会展に初入選。大正2年来目洋画会の発足に参加。翌年の第1回二科展から連続入選、二科賞候補にもなったが、大正10年の同展入選を最後に中央画壇から遠ざかった。その後は来目洋画会の中心メンバーとして、久留米洋画研究所を開設するなど、筑後の後進の育成につとめた。昭和36年、75歳で死去した。

大野米次郎(1884-1920)
明治17年久留米市生まれ。荘島尋常小学校を卒業し、久留米高等小学校に進んだ。在学中から森三美に洋画の手ほどきを受けた。同校を卒業後、明治39年森三美、青木繁、坂本繁二郎を名誉会員として洋画グループ「審美会」を結成したが続かず、発展的に解消して大正2年松田諦晶らと来目洋画会を組織して中心的役割を果たした。大正3年の第1回二科展から連続3回入選し、前途を期待されたが、大正9年、36歳で死去した。


官展で活躍した福岡県の近代日本画家

2017-04-10 | 画人伝・福岡


文献:福岡県日本画 古今画人名鑑日本画 その伝統と近代の息吹き

官展で活躍した福岡県の近代日本画家としては、ます最初に吉村忠夫(1898-1952)が挙げられる。吉村は北九州市に生まれ、東京美術学校を首席で卒業、のちに松岡映丘に師事し、師と同様に歴史風俗画を得意とし、官展の重鎮として活躍した。また、福岡市生まれの水上泰生(1872-1951)は、東京美術学校で寺崎広業に師事し、首席で卒業後は文展で3回連続受賞するなど活躍、故郷の日本画界の発展にも貢献した。鞍手郡生まれの阿部春峰(1877-1956)は京都で菊池契月に師事し、第1回文展から入選を重ね、後年は琳派に心を寄せて絢爛な作風を展開した。糸島郡生まれの松永冠山(1894-1965)も菊池契月に学び、第5回文展入選後から官展に出品、風景画に新生面を拓いた。福岡市生まれの小早川清(1899-1948)は、水上泰生に学んだのち、鏑木清方に入門、官展での活動のほか、新版画運動にも参加して美人画で人気を博した。

吉村忠夫(1898-1952)
明治31年遠賀郡黒崎町生まれ。本名も忠夫。姉に池田蕉園がいる。幼いころに一家をあげて上京し、府下の小学校を卒業して東京美術学校に図書係として勤務した。同校の校長に画才を認められ、大正4年同校日本画科に推薦入学、大正8年に首席で卒業して研究科に進んだ。同科後は松岡映丘に師事した。在学中の大正7年に文展初入選、以後文展を舞台に活躍した。大正10年正倉院御物研究のため特別拝観の許可を得て以後10年の間研究に励んだ。昭和13年、師の没後は国画院で指導にあたり、翌14年日本画院を創設した。大和絵の伝統を生かした歴史風俗画を多く描いた。昭和27年、55歳で死去した。

水上泰生(1872-1951)
明治5年筑紫郡住吉村生まれ。福岡県立修猷館に入学し、この頃に荒木墨仙、松山雪童について画を学んだ。明治34年同校を卒業して上京、東京美術学校に入学し、寺崎広業に師事、広業門下十哲の第一人者と称された。明治39年同校を首席で卒業して帰郷。大正2年文展初入選、翌年から連続で文展3等賞を受賞した。大正5年頃再び上京し、大正8年には帝展審査に反発して島田墨仙、山内多門、石井林響らと如水会を結成し、東京や大阪で作品展を開催したが、その後も官展に出品し、大正15年に帝展委員になった。日本画会常任幹事もつとめた。また、筑前美術展、福岡県展にも委員として出品し、郷土の日本画界の発展にも貢献した。昭和26年、70歳で死去した。

阿部春峰(1877-1956)
明治10年鞍手郡植木町生まれ。名は清太郎、字は寛明、または子熒。明治26年頃大阪に出て、四条派系の深田直城に師事、その後師の勧めにより菊池芳文に入門した。明治40年文展初入選、以後官展を舞台に活躍、大正15年帝展委員となった。昭和12年京都市展に出品し、のちに同展委員になった。昭和15年八幡市に移住し、福岡県美術協会の再興にも参加した。その後また京都に戻り、昭和31年、80歳で死去した。

松永冠山(1894-1965)
明治27年糸島郡前原町生まれ。名は関蔵。初号は冠山で、のちに「冠」の「寸」の部分を「刂」の漢字に改めた。明治44年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、大正3年同校を卒業し、京都市立絵画専門学校本科に入学、大正9年に研究科を卒業、大正11年に菊池契月に入門した。その間、大正6年に文展初入選し、その後も官展に出品、日展委員となった。昭和19年には帰郷し、西部美術協会委員となった。また、福岡県美術協会再興に常任理事として参加するなど、地元日本画壇の主導者として活躍した。昭和41年、73歳で死去した。

小早川清(1899-1948)
明治28年福岡市出来町生まれ。本名も清。初号は清水。一説には明治30年生まれ。明治43年頃地元で水上泰生に半年余り師事。明治45年頃上京して鏑木清方に師事した。大正13年帝展初入選、長崎を舞台とした異国情緒溢れる美人画を描き、昭和8年には特選を受賞するなど、官展で活躍した。また、新版画の分野にも進出、美人画版画で人気を博した。一方、筑前美術展や福岡県美術協会展にも会員として出品した。昭和23年、50歳で死去した。


新南画ともいえる独自の画風を開拓した冨田溪仙

2017-04-07 | 画人伝・福岡


文献:福岡県日本画 古今画人名鑑日本画 その伝統と近代の息吹き

福岡県を代表する近代日本画家としては、福岡市生まれの冨田溪仙(1879-1936)が挙げられる。溪仙は、上田鉄耕に学んだのち、京都に出て四条派の都路華香に入門、25歳で華香門を独立した。明治45年、文展初入選作が横山大観に認められ、大正4年には再興日本美術院の同人として迎えられ、その後は院展を舞台に活躍した。仙厓義梵、池大雅、与謝蕪村らに傾倒し、南画、大和絵、仏画にいたるまで修練、さらに仏教、キリスト教、儒教、日本古典を研究し、新南画ともいえる独自の画風を開拓した。昭和10年の帝国美術院改組により日本画部新会員となったが、翌11年、帝展改組に対する処置を不満とする横山大観らとともに帝国美術院会員を辞任、同年、58歳で急逝した。溪仙の最初の師である上田鉄耕(1849-1914)は、博多に生まれ村田東圃の門人であった父に南画を学んだのち、京都で中西耕石や日根対山にも学んだとされる。明治20年頃に博多に帰ってから画塾を開き、門下からは溪仙のほかに今中素友(1886-1959)、彫刻家の冨永朝堂らが出ており、教育者としての功績は大きい。

冨田溪仙(1879-1936)
明治12年福岡麹屋町生まれ。名は鎮五郎、字は隆鎮。初号は雪仙のちに華仙。別号に溪山人、燕巣楼、久彭などがある。13歳頃から衣笠守正に狩野派を学び、のちに上田鉄耕に師事した。18歳で画家を志して京都に出て、翌年四条派の都路華香に入門し、雪仙の号を華仙に改め、さらに溪仙に改号した。明治32年日本絵画協会・美術院連合共催会展に入選。翌年新古美術10年回顧展で3等受賞。明治34年日本絵画協会展、翌年後素協会展などに入選した。明治35年富岡鉄斎に「神功皇后釣鮎図」の時代考証の教示を仰ぎ、翌年大阪内回内国勧業博覧会に同作を出品、褒賞を受けた。同年、25歳で華香門から独立した。明治40年の2度目の紀州旅行をきっかけに平安仏画などを研究。また仙厓義梵、池大雅、与謝蕪村らに傾倒し、南画、大和絵、仏画にいたるまで修練した。明治42年に台湾・中国を旅行して研鑽に励んだ。明治45年の文展初入選作が横山大観に認められ、大正3年再興院展に京都派から初参加。翌年日本美術同人に迎えられ、院展に出品しながら、さらに仏教、キリスト教、儒教、日本古典を学び、独自の画風を確立した。大正11年詩人で中日仏国大使・クローデルと知り合い、詩画集を合作。また、大正末から博多幻住庵の仙厓旧居再興に尽力した。昭和10年帝国美術院改組により日本画部新会員となったが、翌11年、文部大臣平生鋭三郎の帝展改組に対する処置を不満とする横山大観ら13名とともに帝国美術院会員を辞任。同年、58歳で死去した。

上田鉄耕(1849-1914)
嘉永2年筑前博多生まれ。名は要三郎。父の桂園は村田東圃に師事した南画家で、父に南画の手ほどきを受け、のちに京都に出て中西耕石または日根対山に師事したとされる。明治20年に博多矢倉門町に画塾を開いた。門下からは冨田溪仙、今中素友、彫刻家の冨永朝堂らが出ており、教育者としての功績は大きい。研究心旺盛で、南画だけではなく中央の新傾向を取り入れてしたという。明治32年に結成された九州美術協会の中心的存在として活躍した。大正3年、66歳で死去した。

今中素友(1886-1959)
明治19年福岡市鳥飼村字谷六本松生まれ。名は善蔵、字は知章。別号に草江軒がある。修猷館を受けたが不合格となり、母校の教師だった波多江幸次の勧めにより上田鉄耕について画を学んだ。さらに、明治38年上京して川合玉堂に師事した。明治41年文展初入選、以来文展、帝展に出品、昭和8年帝展無鑑査となった。昭和34年、74歳で死去した。


近代大和絵の黎明期を担った川辺御楯

2017-04-05 | 画人伝・福岡


文献:川辺御楯と近代大和絵の系譜柳川の美術Ⅰ福岡県日本画 古今画人名鑑

筑後国山門郡柳川上町(現在の柳川市)に生まれた川辺御楯(1838-1905)は、守住貫魚、山名貫義、川崎千虎らと共に近代大和絵の黎明期を担った、明治初期を代表する大和絵歴史画家として知られている。しかし、同時期に活躍した他の大和絵師に比べ、御楯の系譜はのちの近代日本画の展開の中で次第に薄れていった。最晩年の弟子・中村岳陵は、例外的に一人気を吐いたが、将来を嘱望された長男の白鶴は22歳で早世、二男の佐見は筑水と号して日本美術協会展に何度か出品したが、結局実業界に進んだ。家督を継いだ三男の川辺旭陵美楯(1879-1931)は日本美術協会展を舞台に活動し、意気盛んに父の画業を継ごうとしたが、画家として大成はならなかった。

川辺御楯(1838-1905)
天保9年筑後国山門郡柳川上町生まれ。幼名は源太郎。別号に鷺外、墨流亭、都多の舎、後素堂などがある。旧氏名を古賀源太郎と称し、家号を砥屋といった。6歳の時に狩野永錫の門人であった父に画を学び、ついで12、3歳から久留米藩御用絵師六代三谷勝浦友信の三男・三谷三雄にも学んだ。また、柳河藩中では平田篤胤の門人・西原晁樹に国学と有識故実を学んだ。他藩士から甲冑武術の故実や越後流の兵法などを教わり、さらに真木和泉にも故実、兵書を学んだ。安政6年、父が没して家督を継ぐがのちに脱藩して真木和泉について上京を図るが失敗。一時国事を断念したが、各藩の志士は御楯を頼って身を寄せたため出費がかさんで資産を失った。また、平野国臣、高杉晋作、村田蔵六らと交わり、朝鮮にも渡ろうとしたがならず、帰藩を乞い許されたという。明治維新後は藩命により上京して太政官に出仕した。この頃、土佐派の土佐光文に大和絵の画法を学び、狩野永悳に狩野元信の画法を学んだ。また、大国隆正と宝田通文に国学を、薗田守宣に故実を習い、近代大和絵の研究を深め、有識故実に精通した大和絵歴史画家として画名を上げた。明治15年第1回内国絵画共進会で銅賞、明治17年第2回展で銀賞を受賞、同年川端玉章、山名貫義らと東洋絵画会を結成した。明治22年に日本美術協会展で絵画研究会幹事に就任し、以後同展を主な発表の場とした。明治38年、69歳で死去した。

川辺白鶴(1871-1892)
明治4年生まれ。川辺御楯の長男。名は白鶴、号は九皐。画を父に学んだ。明治19年、16歳の時に絵画共進会で銅賞を受賞し、画技もますます上達し将来を嘱望されたが、明治25年、22歳で死去した。

川辺旭陵美楯(1879-1931)
明治12年生まれ。川辺御楯の三男。名は彪。明治25年に日本美術協会秋季展に初出品、以後同展を活動の場とし受賞を重ねた。現存する作品が少なく、画業は不明な点が多い。昭和6年、53歳で死去した。


福岡南画壇の育ての親と称される中西耕石

2017-04-03 | 画人伝・福岡


文献:日本画 その伝統と近代の息吹き福岡県日本画 古今画人名鑑

福岡県の近代南画の先駆者としては、福岡南画壇の生みの親とも育ての親とも称される中西耕石(1807-1884)が挙げられる。耕石は、遠賀川河口の貿易港として江戸時代に栄えた芦屋に生まれ、京都で松村景文に師事し、のちに日根対山と南宗画の双璧と謳われた。多くの門人を育て、そのなかには大宰府南画の継承者・吉嗣拝山(1846-1915)や冨田溪仙の師である上田鉄耕らがいる。

中西耕石(1807-1884)
文化4年遠賀郡芦屋中小路生まれ。本名は寿、幼名は寿平、字は亀年。別号に筌岡、竹叟などがある。家業は紺屋。早くから京都に出て四条派の松村景文に学び、また小田海僊について南画を学び、漢字などを篠崎小竹に修めて、山水画で名声を得た。日根対山と南宗画の双璧と称された。筑前藩と津藩から年々禄米を受け、幕末頃から清水寺門前に住んでいた。明治6年第2回京都博覧会の余興の書画会に呼ばれて席上揮毫。明治15年京都府画学校出任を命じられ教職についた。同年東京の第1回内国絵画共進会で銅賞と画学校設立に尽力した功績で絵事労褒状を受けた。門人に吉嗣拝山、上田鉄耕、衣笠豪谷らがいる。明治17年、78歳で死去した。

木村耕巌(1830-1911)
天保元年備後鞆津生まれ。嘉永5年京都に出て前田暢堂に花鳥画を、中西耕石に山水画を学んだ。また、梁川星巌に詩を学び、頼暢崖らと交わった。一時耕石の養子になった。十数年にわたりしばしば大覚寺に参禅。その後8年間ほど江戸に住み、のちに筑前若松に移り住んだ。門人に新谷鉄僊、松岡呉藍らがいる。明治44年、82歳で死去した。

守田桂窓(1823-1894)
文政6年生まれ。本名は孫兵衛。伊万里焼商人で中西耕石に南画を学んだ。養子に洞山がいる。明治27年、72歳で死去した。

平兮憩堂(1849-1930)
嘉永2年御笠郡観世音寺村生まれ。観世音寺・石田淋應の長男。本名も憩堂。別号に禅磨、薄雲がある。安政6年、11歳の時に本寺で得度した。儒仏および画道を長野和平に学んだ。明治元年から西京東福寺で修学し、そのかたわら同郷の中西耕石に南画を学んだ。明治4年帰郷し、石田姓を平兮に改姓。同年夜須郡甘木村甘木山安長寺の第15世住職となった。その後各地を遊歴し、諸名家を訪ね画道を研鑽した。明治17年第回内国絵画共進会に出品。昭和5年、82歳で死去した。

伊藤西瀛(1850-不明)
嘉永3年福岡県生まれ。別豪に晴影などがある。幼いころに瀧田華山に学び、のちに京都に出て中西耕石の門に入り半年後に帰郷し、のちに全国を漫遊した。山水は沈石田などを慕い、花卉は王若水を慕い研究した。のちに松本楓湖に従い、本朝歴代の人物を研究し、南北両派の画を描いた。昭和3年頃は、鞍手郡直方古町に住んでいた。


江戸後期の筑前四大画家

2017-03-31 | 画人伝・福岡


文献:斎藤秋圃と筑前の絵師たち筑紫路の絵師-斎藤秋圃と吉嗣家・萱島家-福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志

江戸後期、狩野派の御用絵師たちが粉本主義に陥り、精彩を失っていくなか、筑前画壇では町絵師たちが独自の画業を展開していた。なかでも元秋月藩御用絵師でのちに大宰府で町絵師として活躍した斎藤秋圃、藩から召し抱えの交渉があったが固辞して大宰府に閑居した四条派の桑原鳳井(1793-1841)、浦上春琴に学び北宗風の山水花鳥を得意とした石丸春牛(1793-1860)、四条派から南画に転じた村田東圃(1802-1865)の4人は、各自が自分の持ち味を生かした活動をし、のちに「筑前四大画家」と称された。村田東圃の門からは、のちに大阪南画壇を代表する画家の一人として活躍する姫島竹外らが出ている。

桑原鳳井(1793-1841)
寛政5年嘉麻郡大隈生まれ。幼名は鹿吉。別号に梧竹がある。実家はのちに席田郡二股瀬に移り茶店を営んだ。幼いころから画を好み、福岡藩御用絵師・衣笠守由について狩野派を学び、のちに長州の小田海僊に南画を学び、さらに大坂に出て森一鳳に師事し四条派を修めた。帰郷後は次第に画名が上がり、藩から召し抱えの交渉もあったが、自由奔放な性格のため固辞して大宰府に閑居したという。門人に吉嗣楳仙、萱島鶴栖がいる。天保12年、下関において49歳で死去した。



石丸春牛(1793-1860)
寛政5年生まれ。名は和、通称は半助など。別号に石耕、墨窩、芸甫がある。晩年は専ら純翁を名乗り、水石書楼、花僊楼、十里松下人などとも称した。茶商「茶忠」の通い番頭源助の子で、父の仕事を継いだが、主人のすすめもあって画家を志し、長崎に来遊していた南画家の浦上春琴に従い京都で行き師事した。以後は明清の南画を研究した。のちに博多上新川端に帰郷して画業に専念、北宋風の山水花鳥を得意とした。門人に子の石丸僊舟のほか、姫島竹外、高川少萍、萱島鶴栖らがいる。安政7年、68歳で死去した。



村田東圃(1802-1865)
享保2年那珂郡春吉生まれ。実家は農業を営んでいた。字は子壁、通称は瑣一郎。別号に紫溟釣徒、黒江遊人がある。30代で、博多橋口町の製墨業を主とする文具商・常春園村田治右ヱ門の養子となった。はじめ狩野派を学び、ついで斎藤秋圃に師事し、さらに京都に出て松村景文に四条派を学んだが、のちに元明の南宗画家を敬慕し、南画に転じた。50歳を過ぎた頃、京都で修行をしていた子の香谷が一時帰郷したのを機に、親子三人で京都に出て10年余り京都で活動、晩年は帰郷し子弟の教育にあたった。門人に村田香谷、村田秋江、姫島竹外、松尾耕雲らがいる。元治2年、64歳で死去した。

石丸僊舟(1824-1893)
文政7年生まれ。石丸春牛の子。名は萬次郎。父に画を学び、山水をよくした。門人に萱島秀山、半田鶴城、石井澹石らがいる。明治26年、70歳で死去した。

高川少萍(1836-1888)
天保7年生まれ。博多春吉に住んでいた。別号に錦堂がある。石丸春牛に師事した。明治21年、53歳で死去した。

岩崎蕉陰(不明-1872)
博多西町の人。別名は十太夫。石丸春牛に学び南画をよくした。竹田の偽筆に長じていたといわれる。明治5年死去した。

村田香谷(1831-1912)
天保2年筑前生まれ。村田東圃の子。名は叔。別号に蘭雪・適園がある。はじめは父に、のちに長崎の日高鉄翁、京都の貫名海屋に南画を学んだ。詩は梁川星巌に学んだ。中国に3度渡り胡公寿らと交わり研究した。帰国後は大阪に定住した。大正元年、82歳で死去した。

村田秋江(1836-1890)
天保7年生まれ。村田東圃に学んだ。明治23年、55歳で死去した。

麻生東谷(1836-1908)
天保7年鞍手郡木屋瀬改盛町生まれ。12歳で村田東圃に入門。17歳で家督を継いだ。生活苦の中で人形製造業などに従事した。明治41年、73歳で死去した。

柳坂塘雨(1837-1898)
天保8年筑前生まれ。村田東圃に師事した。名は新平。明治31年、62歳で死去した。

姫島竹外(1840-1928)
天保11年筑前生まれ。幼名は磯熊、名は純、字は子純、通称は解三。別号に玄洋釣徒、悟竹草堂がある。福岡藩士の子で、武芸に励むかたわら、藩校修猷館で館長の梶原弥平太について漢学を修めた。安政4年、18歳の時に村田東圃に入門、のちに石丸春牛にも学んだ。明治維新後に画家を志し上京、その後大阪に移り住み、明治31年に南宗画会を結成、全国南画共進会で受賞するなど、大阪南画壇を代表する画家の一人として活躍した。大正7年竹外南画院を設立し、水田竹圃、赤松雲嶺、幸松春浦らの門人を育てた。昭和3年、89歳で死去した。