松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

大正期の新興美術運動で活躍し、突如詩人に転身した尾形亀之助

2019-03-15 | 画人伝・宮城

化粧 尾形亀之助

文献:東京の肖像1920’S、仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、宮城洋画人研究

尾形亀之助は、大正期の新興美術運動のなかで華々しく活躍していながらも、突如として美術界から姿を消し、その後は詩人に転身した。美術活動期間は実質わずか2年だったが、美術運動形成期の重要な局面に登場し、その足跡を残している。現在確認されている作品は、掲載の「化粧」1点のみである。

大正期新興美術運動とは、大正9年の「未来派美術協会」の結成に始まり、大正11年の二科会の前衛グループによる「アクション」の結成、大正12年の村山知義と未来派美術協会の作家たちによる「マヴォ」の結成など、短い期間に矢継ぎ早に団体の結成が続き、大正13年にはこれらの団体が合流して「三科」が結成され展覧会を開催するが、翌年の大正14年の三科第2回展の会期中に突然空中分解して事実上おわってしまう美術運動のことをいう。

尾形亀之助がこの美術運動にかかわったのは、大正10年の第2回未来派美術協会展、翌年の三科インデペンデント展(第3回未来派美術協会展)、大正12年「マヴォ」の創立と第1回展、二科落選画歓迎移動展、震災後のANTIISM展だった。しかし、「マヴォ」第2回展を最後に美術活動を止め、その後は詩作に専念した。

尾形亀之助(1900-1942)おがた・かめのすけ
明治33年大河原町生まれ。東北学院中等部に学び、17歳の頃から絵と短歌、詩を手がけた。大正10年に上京し、木下秀一郎のすすめで本格的に絵を始め、同年第2回未来派美術協会展に出品、翌年には三科インデペンデント会員となった。大正12年村山知義らの「マヴォ」結成に参加したが、翌年から絵画制作をやめ詩作活動に入った。大正14年に第一詩集『色ガラスの街』を刊行、草野心平との交友が始まった。昭和7年帰郷し、仙台の官吏になった。持病のぜんそくに苦しみ、昭和17年、43歳で死去した。



日本のアヴァンギャルド芸術―“マヴォ”とその時代
青土社

激動の1930年代を駆けぬけた大沼かねよ

2019-03-14 | 画人伝・宮城

野良 大沼かねよ

文献:Tohoku/Tokyo 1925~1945 東北の画家たち、仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、宮城洋画人研究

大沼かねよは、明治38年に宮城県栗原郡岩ケ崎町(現在の栗原市)に生まれ、仙台の女子師範学校を卒業後、東京女子高等師範学校図画専修科を経て、昭和3年に岩手県立水沢高等女学校教諭となり、翌年から東京山谷の浅草正徳小学校の教壇に立った。

小学校で教えながら、石川寅治について絵画を学び、昭和6年に第11回帝展に初入選した。当時の美術雑誌「みづゑ」の記事は、この時の帝展の新傾向として、社会的テーマによる作品の進出をあげ、特に目立った作品として橋本八百二「交代時間」、大沼かねよ「家族」、金子吉彌「失業者」を挙げている。

この時に大沼とともに名前の挙がった金子吉彌は、当時慶応大学医学部に在学していたが、この帝展を機に大沼と知り合い、二人は翌年結婚した。同年金子は卒業し、東京の品川区五反田に医院を開業、大沼は医院の裏の東急池上線高架下に設けたアトリエで制作に励んだ。

同年、大沼は「新写実派」に加わり、さらにこのグループ自体が同年の「新美術団体連盟」の結成に参加した。「新美術団体連盟」は、スローガンに「青年美術家の生活擁護、美術界の更新、自主的展覧会の開催、利益の公平なる配分、作品の相互検討、観客層の拡大」を掲げ、これまでにない美術団体を目指していた。

1930年代の洋画家をとりまく環境は、この新美術団体連盟にみられるように、新しい理想を掲げた美術団体の設立があり、その背景には帝展改組騒動もあり、1930年協会、プロレタリア美術、モダニスムといった芸術運動も盛んに行なわれ、洋画界にとって激動の時代といえる。

昭和11年に夫の金子を病気で亡くし、自身もその3年後に35歳で没した大沼の活動期間はけっして長くないが、激動期ともいえる1930年代の洋画界を駆けぬけ、その時代の典型ともいえる活動をした画家といえる。

大沼かねよ(1905-1939)おおぬま・かねよ
明治38年宮城県栗原郡岩ケ崎町生まれ。父は下駄の製作と販売をしていた。仙台の女子師範学校を卒業後、東京女子高等師範学校図画専修科に入学した。昭和3年に同科を首席で卒業し、岩手県立水沢高等女学校の教諭となったが、翌年上京し、浅草正徳小学校に勤務、そのかたわら石川寅治について絵画を勉強した。昭和5年第一美術協会展、翌年第11回帝展に入選した。その後、槐樹社展、独立美術協会展、新美術団体連盟展などにも出品した。昭和14年、35歳で死去した。



非常時のモダニズム: 1930年代帝国日本の美術
東京大学出版会

中野和高と大正・昭和期の宮城の洋画家

2019-03-13 | 画人伝・宮城

少憩 中野和高

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、宮城洋画人研究、宮城県美術館コレクション選集

大正期に入ると、青山勤らが結成した「北国洋画会」などの洋画グループや、菱沼美仙が創設した「仙台洋画研究所」など、洋画研究の集まりがみられるようになった。菱沼は、同研究所で後進の指導をし、これを昭和に入って佐々木節郎が引き継いだ。

大正末から昭和にかけては、「草叢社」や「社栄社」などの洋画研究団体が生まれ、展覧会を開くなどの活発な活動もみせた。昭和5年に渋谷栄太郎らが結成した「東北美術協会」の展覧会は、昭和8年に河北新報社の主催となり、河北展として宮城画壇を活性化させた。

このような活動のなかで、昭和に入ってから帝展出品者も多くなり、布施信太郎、渋谷栄太郎、高田徳治郎、千葉衛、佐々木節郎、大沼かねよ、佐藤文五郎らが入選した。愛媛に生まれ仙台で育った中野和高も帝展を舞台に活躍した。

中野和高は、父親が牧師として赴任していた仙台で育ち、上京後白馬会洋画研究所で学んだ。この時に前田寛治と出会い、ともに東京美術学校に進学した。同校を卒業後に渡仏、前田とともに佐伯祐三、里見勝蔵らと親交を深め、彼らとともに1930年協会にも参加した。

昭和3年に帰国した中野は、帝展に大変な歓迎をもって受け入れられた。帰国後の中野が取り組んだのは、掲載の「少憩」のような生活のひとコマを描いた群衆表現だった。画面に描かれているのは画家の身内で、人物群がゆったりと配され、静物的に描かれている。

中野和高(1896-1965)なかの・かずたか
明治29年愛媛県大洲生まれ。本名は和光。牧師だった父の赴任先だった宮城県仙台第一中学校を卒業、その後上京して白馬会洋画研究所で黒田清輝の指導を受けた。大正10年東京美術学校西洋画科を卒業、同年第3回帝展に初入選、昭和2年第8回帝展から3年続けて特選となった。ヨーロッパ遊学後は、1930年協会会員もつとめた。昭和5年からは帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)教授。昭和16年仲間と創元会を創立、戦後は創元会展と日展に出品した。昭和33年日本芸術院賞を受賞した。昭和40年、70歳で死去した。

菱沼美仙(1888-1978)ひしぬま・びせん
明治21年仙台生まれ。本名は猛。明治35年に白馬会洋画研究所に入った。大正6年仙台に「仙台洋画研究所」を設立、デッサン彩画を教えた。門下生に渋谷栄太郎、青山健治、藤原勉、佐藤謙、青山勤、星康次、富永太郎、首藤清喜らがいる。大正12年突然仙台を去り上京したが、戦後帰郷した。昭和53年、90歳で死去した。

佐々木節郎(1895-1943)ささき・せつろう
明治28年仙台市生まれ。東北中学校卒業後、上京して東京美術学校に入学、岡田三郎助の教室で洋画を学んだ。肖像画を得意とし、当時の満州、朝鮮で関東軍指令部付として、満州国政府要人、軍関係重臣らの肖像画を描いた。昭和2年仙台洋画研究所で後進の指導にあたった。昭和18年、49歳で死去した。

渋谷栄太郎(1897-1988)しぶや・えいたろう
明治30年古川市生まれ。東北中学校卒業後上京、太平洋画会に学んだ。大正11年平和博覧会に入選したほか、大正14年第6回帝展入選をはじめ6年間毎年入選した。日仏芸術展を主催したり、美術団体「杜栄社」を主催するなど、昭和初期から仙台での美術の普及に寄与した。昭和63年、91歳で死去した。

布施信太郎(1899-1965)ふせ・しんたろう
明治32年仙台生まれ。父は布施淡。太平洋画会研究所で満谷国四郎らに学んだ。第5回帝展に入選。帝展および太平洋画会展に出品した。戦前は太平洋美術学校教授として、戦後は同会の代表となり、会の運営と附属学校再建に尽力した。昭和40年、67歳で死去した。

高田徳治郎(1909-1980)たかだ・とくじろう
明治42年仙台生まれ。渋谷栄太郎に絵を学び、1930年に東北美術展に入選、翌年帝展に入選した。以後も太平洋画会展や河北展にたびたび入選。戦後太陽美術協会に出品し、昭和28年会員になった。昭和55年、71歳で死去した。

千葉衛(1911-1973)ちば・まもる
明治44年田尻町生まれ。古川中学校卒業後、東京美術学校に入学。在学中に、東光会、光風会に入選、第15回帝展に初入選、同校研究科中退後、台湾で教職についた。戦後は仙台で教鞭をとり、光旗会結成に参加した。昭和48年、62歳で死去した。



仙台 松島 平泉 (ココミル)
クリエーター情報なし
ジェイティビィパブリッシング

外光表現で文展に入選するも30歳で早世した渡辺亮輔

2019-03-12 | 画人伝・宮城

樹陰 渡辺亮輔 宮城県美術館蔵

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、宮城洋画人研究、宮城県美術館コレクション選集

宮城県松山町に生まれた渡辺亮輔は、中学校卒業後に上京し、東京美術学校西洋画撰科に入学した。1年後輩には青木繁や熊谷守一らがいた。在学中は、フランスから外光表現を移入した黒田清輝の教えを受け、黒田が主宰する白馬会にも出品した。黒田の画風は、明るい外光表現と影の部分に紫色を多様したことから紫派(新派)と呼ばれ、それに対する明治美術会系の画家たちの脂派(旧派)と、明治後期の洋画壇を二分して競合していた。

渡辺は、卒業後は白馬会系の画風を離れ、旧派の中村不折のもとに出入りしていたが、その後再び黒田のもとに戻っている。明治40年の第1回文展に入選した「樹陰」の表現からも、白馬会の外光描写に復帰していたことがうかがえる。

その「樹陰」は、初めはもっと大きな画面に全身像を描いていたのだが、この頃に肺を患ったこともあり、全身像として完成することができず、画布を切断して半身像の作品として出品したという。父が上京して郷里に連れ戻したため、渡辺自身は自作が展示された文展を見ることはできず、4年間の闘病の末、30歳で死去した。

渡辺亮輔(1880-1911)わたなべ・りょうすけ
明治13年宮城県松山町生まれ。医師・渡辺宗伯の長男。明治32年宮城県尋常中学校を卒業し、同年東京美術学校に入学。黒田清輝のもとで学んだ。明治36年同校西洋画撰科を卒業後、報知新聞や日本新聞で挿絵を描きながら作品制作を続け、明治40年に第1回文展入選。その後、病気のため帰郷し、河北新報にも挿絵を寄せた。明治44年、30歳で死去した。



生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠
美術出版社

高橋由一が描いた「宮城県庁門前図」

2019-03-11 | 画人伝・宮城

宮城県庁門前図 高橋由一

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝

宮城県と洋画との関わりについては、明治10年に宮城県上等裁判所検事として仙台に赴任してきた床次正精が、梶原昇と洋画を研究したことが記録に残っている。また、明治13年に宮城県博物会で一等賞碑を受賞した高橋由一が、翌年県の委嘱で「宮城県庁門前図」を制作、ほかにも「松島五大堂図」「松島図」などを描いている。

宮城県出身の洋画家としては、亘理町に生まれ北海道に移住した高橋勝蔵が、渡米して帰国後静物画で文展に入選した。また、若くして上京した布施淡は、小山正太郎の不同舎で洋画を学び、その後東北学院で絵画を教えたが、29歳で早世した。

渡辺亮輔や真山孝治はそれぞれ東京美術学校や白馬会研究所で本格的に絵画を学び、外光派風の作品で初期の文展に入選。同じく白馬会系の太田美方も、仙台で積極的に展覧会などを開催して黒田清輝らの作品を展示して洋画の普及をはかった。このような活動を通して、明治末になると宮城県においても徐々に洋画を手がける者が増えていった。

高橋由一(1873-1901)たかはし・ゆいち
文政11年江戸生まれ。近代洋画の開拓者として名高い。文久2年幕府画学局に入って川上冬崖に師事、ついで英国人チャールズ・ワーグマンに油彩画法を学んだ。慶応3年中国に渡り明治維新後大学南校の教授をつとめた。明治6年日本橋浜町に私塾天絵楼を設立し、原田直次郎らを育てた。明治27年、67歳で死去した。

布施淡(1873-1901)ふせ・あわし
明治6年津山町柳津生まれ。小山正太郎の不同舎に学んだ後、明治26年東北学院の教壇に立ち、絵画を教えた。この時に同僚に島崎藤村がいて共同生活を送っていた。長男の信太郎、二男の悌次郎も画家として活躍した。明治34年、29歳で死去した。

真山孝治(1882-1981)まやま・こうじ
明治15年岩手県室根町折壁生まれ。遠藤速雄に私淑。白馬会研究所で油彩画を学んだ。文展と白馬会に出品。第3回文展で褒賞受賞。一時満鉄の宣伝部に勤務し、のちに渡欧した。戦後は多賀城に居住し後進を指導した。昭和56年、100歳で死去した。

太田美方(1871-1943)おおた・びほう
明治4年仙台市生まれ。山形県の画家・太田霞岳の子。本名は可一。はじめは日本画を描いたが、明治30年代に白馬会に学び洋画に転じた。明治38年にはパレット画会を主催。翌年から白馬会の作家の作品も含めた東北洋画展覧会を数回開催した。昭和18年、72歳で死去した。



リアル(写実)のゆくえ〜高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの
生活の友社

現代的感覚の新しい日本画として高い評価を集めた太田聴雨

2019-03-08 | 画人伝・宮城

星を見る女性 太田聴雨 東京国立近代美術館蔵

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝
参考:UAG美人画研究室(太田聴雨)

明治29年仙台市二日町に生まれた太田聴雨は、東京で印刷工として働いていた父を頼って14歳で上京、上野桜木町の四条派の日本画家・内藤晴州の内弟子となった。しかし、寄宿3年目で食費を負担しきれなくなって父宅に戻り、書画屋の日給仕事をしながら、夜制作する毎日を続けた。

大正期、終生の画友となる小林三季らと「青樹社」を結成、定期的に展覧会を開いて日本画壇に独自の地位を築こうとするが、資金難のために解散。深い挫折感のなかで筆を絶ち、三季の紹介で前田青邨に入門して再起するまで3年の時を要した。

前田青邨に入門した聴雨は、キリストを題材にした作品を2年続けて院展に出品したが、連続して落選。その翌年は、一転して大和当麻寺の中将姫伝説に取材した「浄土変」を出品。初入選に加えて、新設された日本美術院賞の初の受賞者となって、一躍脚光をあびた。

さらに「お産」「種痘」など、女性をテーマにした作品を矢継ぎ早に院展に発表。掲載の「星を見る女性」は、大型望遠鏡で天体観測をするモダンな和服女性たちを描き、現代的感覚の新しい日本画として高い評価を集めた。

太田聴雨(1896-1958)おおた・ちょうう
明治29年仙台市二日町生まれ。本名は栄吉。明治43年上京して川端玉章門の内藤晴州に師事した。巽画会などに出品し、大正4年頃から友人と研究団体「青樹社」を結成、同社は大正7年から展覧会を開催し、11年には反官展の日本画小団体とともに第一作家同盟にも参加したがすぐに脱会した。昭和2年から前田青邨に師事し、昭和5年院展に初入選し、日本美術院賞を受賞した。以後毎回院展に出品し、昭和11年に院展同人となった。戦後は東京藝術大学助教授をつとめた。昭和33年、63歳で死去した。



巨匠の日本画 (8) 前田青邨
学習研究社

仙台の浮世絵師・熊耳耕年

2019-03-07 | 画人伝・宮城

芭蕉の辻図 熊耳耕年
左端の店先が少し見えるのが、耕年の生家である仕立屋の大澤屋。そこにいる幼児が耕年自身。

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、福島美術館優品図録

仙台・芭蕉の辻の一角に店を構える仕立屋・大澤屋の二男として生まれた熊耳耕年は、裕福な幼年時代を過ごしたが、13歳の時に店が傾き、翌年父が亡くなった。死の直前に父に店を託された耕年だったが、結局どうすることも出来ず、店をたたんで自身は下駄屋の奉公に出るしかなかった。

20歳の時に、幼いころから興味のあった絵の道を志して上京、浮世絵師・月岡芳年の内弟子となったが、修業4年目に芳年が病死したため、通いで尾形月耕に師事することになった。月耕のもとでは、日本青年絵画協会や日本美術協会の展覧会で受賞を重ねていたが、明治27年からは展覧会に出品しなくなり、居を故郷の仙台に移した。

仙台では、東北新聞に入社して、報道画や挿絵を手がけ、明治30年に創刊された「河北日報」でも挿絵、政治・社会風刺画に加え、広告、付録など多彩な仕事に取り組んだ。明治33年からは河北日報の挿絵をやめ、東京と仙台とを行き来しながら活動していたが、大正12年の関東大震災を機に仙台に帰郷、「仙台日本画展覧会」の結成に参加するなど、郷土の日本画壇発展に貢献した。

掲載の「芭蕉の辻図」は、昭和3年に仙台で開催された東北産業博覧会日本画の部で一等金牌を受賞した作品で、明治8、9年当時の仙台商家の繁栄ぶりを、裕福だった幼年時代の記憶をもとに再現したもの。

熊耳耕年(1869-1938)くまがみ・こうねん
明治2年仙台生まれ。本名は源助。初号は年国。芭蕉の辻の一角に店を構える仕立屋大澤屋の二男。13歳の時に大澤屋は没落し、翌年父が没した。幼いころから絵に興味を持ち、20歳の時に上京し、月岡芳年の内弟子となり、芳年没後は尾形月耕に師事した。発刊時の河北新報の挿絵を描いた。大正12年帰郷、初期の河北展で活躍した。昭和13年、69歳で死去した。



月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師 (別冊太陽)
平凡社

京都で四条派を学んだ遠藤速雄

2019-03-06 | 画人伝・宮城

猿図 遠藤速雄 福島美術館蔵

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、福島美術館優品図録

遠藤速雄が生まれた慶応2年は、薩長同盟が成立し、幕末の政治的動乱が始まろうとしていた年だった。仙台藩士だった父・允信は、版籍奉還後、京都の平野神社の宮司として赴任、11歳だった速雄もそれに従って京都に上がった。

京都では、原在泉に師事して四条派の画法を学んだ。明治15年に17歳で第1回内国絵画共進会に出品、翌年には龍池会の主催でパリで開催予定の「巴里日本美術縦覧会」の出品者に指名された。同年大阪絵画品評会で第4等賞状を受け、明治19年の京都私立青年絵画研究会でも受賞している。

京都をいつ離れたかは定かではないが、明治24年には帰郷していたことが確認されている。この年は父が塩釜神社宮司に赴任しており、速雄は神社近くの醸造元・佐浦に寄寓している。その後は、明治36年に金沢で開催された全国絵画共進会で褒状を得たこと以外の展覧会出品の記録は確認されていないが、仙台で制作活動を行なっていたとみられる。

遠藤速雄(1866-1916)えんどう・はやお
慶応2年一迫町生まれ。父は仙台藩藩士だったが版籍奉還後、京都の神社の宮司となったため、それに従い京都に移った。京都で原在泉に師事し、四条派の画法を学び、日本青年絵画共進会にも出品した。明治24年頃に帰郷した。大正4年、50歳で死去した。



応挙・呉春・蘆雪―円山・四条派の画家たち
東京藝術大学出版会

旧派の重鎮として活躍した佐久間家の末流・佐久間鉄園

2019-03-05 | 画人伝・宮城

亀上観音図 佐久間鉄園 瑞巌寺蔵

文献:瑞巌寺と仙台藩画員 佐久間家歴代展、仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝

明治に入り、政治改革によって旧秩序は廃止され、仙台藩も宮城県として一新された。維新後も漢学の素養は重んじられたため、南画は引き続き隆盛をみせたが、その一方で、代々藩の御用絵師として狩野派の画風を伝えてきた佐久間家などは、存立の基盤を失うことになった。

佐久間家の末流である佐久間鉄園が成年を迎えたとき、すでに時代は明治に入っており、藩の制度は崩壊し、絵師としての生活は成り立たなかった。さらに、鉄園の画風は、当時の新政府の官吏たちが好んだ南画風ではなく、狩野派の正統を引き継いだ北宋風のものだったこともあり、鉄園は画家の道をあきらめ、政治家になることを志して上京した。

しかし、新政府のもとでは政治家への道は見つけられず、新聞記者をするなどして生活していたが、明治18年に父・晴岳が死に、病弱だった兄・得楼も5年後に没したため、佐久間家の御用絵師としての血筋はこれで絶えてしまった。そんな時に、鉄園は下条桂谷と出会い、再び絵画を志すことになる。

貴族院議員もつとめた下条桂谷は、日本の伝統芸術の復興を目指して結成された日本美術協会の一員で、革新を提唱する岡倉天心ら「新派」と対立する「旧派」の中心人物だった。そのため鉄園も日本美術協会を中心に活動、受賞を重ね、初期文展では審査員をつとめるなど、旧派の重鎮として活躍した。また、明治33年に『支那歴代名画論評』を、明治40年に『鉄園画談』を著し、画作だけでなく評論でも知られる存在となった。

佐久間鉄園(1850-1921)さくま・てつえん
嘉永3年仙台生まれ。仙台藩御用絵師・佐久間晴岳の二男。兄は佐久間得楼。名は方誼、字は正卿、通称は健寿。はじめ栗園といい、晩晴閣主人ともいった。父晴岳から北画を学ぶが政治家を志し上京。北海道で新聞記者などして生活していたが、下条桂谷と出会い、再び絵画を志した。日本美術協会展で受賞を重ね、初期文展では審査員をつとめ、帝室技芸員となった。著書に『支那歴代名画論評』『鉄園画談』などがある。大正10年、72歳で死去した。



月刊目の眼 2016年9月号 (東北に根付いた文化の証 松島 瑞巌寺 伊達の至宝 三井記念美術館 特別展「瑞巌寺と伊達政宗」)
目の眼

明治の女子美術教育に大きく貢献した武村耕靄

2019-03-04 | 画人伝・宮城

幼稚保育之図 武村耕靄 お茶ノ水女子大学附属図書館蔵

文献:仙台画人伝、宮城洋画人研究、東北画人伝、女性画家の全貌。

東京女子師範学校で絵画と英語を教え、明治の女子美術教育に貢献した武村耕靄は、仙台藩士・武村仁佐衛門の長女として江戸仙台藩邸に生まれた。母の留勢子は耕靄が6歳の時に没したため、直接指導を受けることはなかったが、俳諧、書などをよくしていたといい、耕靄にもその才は受け継がれていたようで、後年、短歌や随筆を手がけ、死の直前まで続けていた日記は、明治の画壇、教育界の動きを知るうえで貴重な文献となっている。

耕靄が絵を学びだしたのは8、9歳の頃で、はじめは狩野探逸、狩野一信、山本琴谷、春木南溟らに日本画を学び、明治7年頃からは川上冬崖に西洋画の技法を学んだ。この頃は家庭が貧窮しており、耕靄はその技術を生かして輸出用の扇面などを描いて家計を助けたという。

また、寸暇を惜しんで横浜の共立女学校で英語を学んでいたのもこの頃で、東京築地に住んでいた米国人の元に通い会話の勉強もした。明治8年に工部省製作寮の助教兼通弁として採用され、明治12年には、米国の元大統領・グラント夫妻が来日して浜離宮で明治天皇と会談した際には通訳もつとめた。

工部省製作寮は明治9年に廃止となったが、東京女子師範学校の英学手伝として採用され、のちに洋画を中心とした絵画の授業も受け持つことになった。洋画では、特に写生の指導に力を入れており、手ごろな手本がなかったため自らの写生をもとにして作図し、それを石版にして生徒に与えていたという。

日本美術協会展や絵画共進会などの展覧会にも出品しており、明治22年の日本美術協会展では皇太后の前で席画を披露している。この時の顔ぶれが、跡見花蹊、野口小蘋、奥原晴湖という著名な女性画家たちだったということからも、画家としての耕靄の評価の高さがうかがえる。

武村耕靄(1852-1915)たけむら・こうあい
嘉永5年江戸生まれ。本名は千佐子。父は仙台藩士。日本画を狩野探逸、狩野一信、山本琴谷、春木南溟に学び、のちに川上冬崖に洋画を学んだ。明治維新で家禄を失った一家を輸出用扇面画などを描いて支えた。横浜・共立女学校で英語を学び、明治9年東京女子師範学校、明治19年東京高等女学校の教職につき、図画教科書を編集するなど手探り状態の女子美術教育に貢献した。また、日本美術協会などの会員としても活躍した。明治31年教職を辞して小石川に画塾を開設。明治41年鎌倉に移住した。大正4年、62歳で死去した。



東京女子高等師範学校六十年史 (1981年) (日本教育史文献集成〈第2部 師範学校沿革史の部 1〉)
第一書房

近世最大の鳥類図譜『堀田禽譜』を編さんした堀田正敦

2019-03-01 | 画人伝・宮城

堀田禽譜のうち「朝鮮おしどり」提供:東京国立博物館

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、江戸鳥類大図鑑

仙台藩六代藩主・伊達宗村の八男として仙台に生まれた堀田正敦は、近江の堅田藩主・堀田正富の養子となり、その後佐野に国替えとなり、佐野藩主をつとめた。また、幕府では若年寄を42年間つとめ、老中松平定信を補佐し寛政の改革にも携わった。高い学識を持ち、定信の文化人サークルの中心人物として活躍、近世最大の鳥類図鑑『堀田禽譜』を編さんしたことでも知られている。

『堀田禽譜』は、千数百点にも及ぶ鳥の図版を収録し、さらに充実した解説編「観文禽譜」を伴っており、江戸時代の鳥類図譜として最大の情報量を備えている。また、和漢の古典を引用し、薬学的効用にも触れるなど、包括的に鳥を扱っているのも特長である。ペンギンやオウムなどの異国種、あるいは白カラス、白オシドリなどの変異体、さらには絶滅が危惧されている希少種などの図版も数多く収録されており、その鮮やかで的確な彩色は、生物学的のみならず美術的にも貴重な資料とされている。

掲載の「朝鮮おしどり」は、現和名をカンムリツクシガモといい、現在絶滅した可能性が指摘されている世界的に希少な鳥である。発見当初は、雑種のカモだと思われていたが、『堀田禽譜』に出所と捕獲年の異なる複数の個体が掲載されていたことから、この鳥が雑種ではなく、独立した種であると考えられるようになった。

堀田正敦(1755-1832)ほった・まさあつ
宝暦8年仙台生まれ。仙台藩六代藩主・伊達宗村の八男。兄は七代藩主・重村。幼名は藤八郎。号は水月。天明6年近江堅田藩主・堀田正富の養子となり、文政9年佐野に国替えとなった。幕府の若年寄を42年間つとめ、財政事務を担当し、老中松平定信らを補佐した。近世最大の鳥類図鑑『堀田禽譜』を編さん。ほかに『水月文章』『水月詠藻』『幕朝年中行事歌合』『蝦夷紀行』などの著書がある。天保3年、75歳で死去した。



江戸鳥類大図鑑 THE BIRDS AND BIRDLORE OF TOKUGAWA JAPAN
平凡社

仙台藩士で俳人の遠藤曰人が描いた「ぼんぼこ祭図」

2019-02-28 | 画人伝・宮城

ぽんぽこ祭図 遠藤曰人 仙台市博物館蔵

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝

仙台の重要な祭礼のひとつに、陸奥国分寺に隣接する白山神社の「ぼんぼこ祭」がある。これは、秋の東照宮、大崎八幡宮の両大祭に拮抗する、春の城下の代表的祭礼で、伊達以前の代から継承されている伝統的行事である。

掲載の「ぼんぼこ祭図」は、江戸後期の俳人・遠藤曰人が描いたもので、祭の様子が軽妙なタッチで生き生きと表現されている。上段には、流鏑馬の的を奪い合う神事「的ばやい」の群集が描かれており、境内では軽業師による「はしご乗り」が披露され、包丁人による大鯛料理が振る舞われている。子どもたちが覗いているのは「堤人形とぼんぼこ槍売り」の店である。

特筆すべきは「ラクダの見世物」で、大きな絵姿と幟の立つ小屋に、多くの人々が詰め掛けている様子が描かれており、大人気ぶりがうかがえる。この作品の制作年代は特定されていないが、江戸でラクダの興行があり、菊田伊徳がそれを写生して「駱駝図」を描いたのが文政7年9月のことなので、この祭礼は春行なわれていることから、翌文政8年の春の作品と思われる。

遠藤曰人(1758-1836)えんどう・あつじん
宝暦8年桃生郡寺崎生まれ。仙台藩士で俳人。本姓は木村で、遠藤家を継いだ。名は定矩、字は文規、通称は清右衛門、のちに伊豆之介と改めた。経史を志村五城に学び、詩号は碧城。書画に長じ、絵画作品も多く残っている。天保7年、79歳で死去した。



幕末明治見世物事典
吉川弘文館

菊田伊徳のラクダ図

2019-02-27 | 画人伝・宮城

駱駝図 菊田伊徳

文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台藩の御用絵師・菊田伊洲、仙台画人伝

江戸時代、ラクダはゾウとならんで見世物として絶大な人気を博した動物だった。そのラクダが長崎に到着したのは文政4年(1821)のことだった。イラン産の雌雄2頭のラクダは、西国をまわってから、文政6年に大坂に着き、大坂、京都での見世物興行のあと、文政7年8月、江戸に到着した。ラクダたちは両国広小路で公開され、大人気を博したという。

掲載の菊田伊徳「駱駝図」は、その2頭のラクダを描いたものとされる。落款に「文政七年九月 伊徳写生」とあることから、江戸に到着したラクダの実物を写生して描いたことがうかがえる。菊田伊徳は、仙台藩御用絵師で、同じく藩絵師をつとめていた菊田伊洲の6歳年長の従兄弟にあたる。詳しい経歴は不明だが、伊洲とおなじく江戸木挽町狩野家で学んでいる。

菊田伊徳(1785-1851)きくた・いとく
天明5年生まれ。仙台藩御用絵師。名は栄茂、通称は伊徳。清静と号した。木挽町狩野家伊川院栄信の門人。菊田栄羽の二男・栄行の子と思われる。菊田伊洲と同時代の人で、十二代藩主斎邦、十三代藩主慶邦の時代には御用絵師が菊田家から2人出ていたと思われる。嘉永4年、66歳で死去した。



旅のらくだ―童謡の世界<童謡詞画集4> (1978年)
藤城 清治
岩崎書店

仙台四大画家のひとり・狩野派の菊田伊洲

2019-02-26 | 画人伝・宮城

韃靼人狩猟図 菊田伊洲 仙台市博物館蔵

文献:仙台藩の御用絵師 菊田伊洲、仙台四大画家、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市史特別編3(美術工芸)、東北歴史博物館美術工芸資料図録、 仙台市博物館館蔵名品図録、福島美術館優品図録

菊田伊洲は、江戸出身の画家・武田竹亭の子として仙台に生まれ、幼いころから画才を発揮し、時期は不明だが、仙台藩御用絵師の家系・菊田東雨の養子となった。藩絵師の後継者となった伊洲は、前例にならい江戸に出て木挽町狩野家の八代目当主・狩野伊川院栄信に入門した。14歳の頃と思われる。

江戸での伊洲は、狩野派の規定に従い粉本を模写することで基本的な画技を身に付けていった。また、当時の狩野派が禁止していた文人画家との交遊も積極的に行ない、谷文晁らと親しく交わり、文晁らと「秋風館展覧会」にも出品している。こうした諸派との交流によって古画の鑑識眼を身に付け、画風の幅も広げていったと思われる。

狩野派19世紀最大の仕事となった江戸城の再建に伴う障壁画の制作にも参加し、嘉永3年から同5年にかけては、高野山諸寺院の障壁画も手がけた。伊洲の手による高野山の寺院に残る画は、現在確認されているものだけでも、四つの寺に所蔵されている総計100にも及ぶ大量の襖絵と床貼付絵がある。そのなかには門人と思われる筆致も確認できる。

高野山諸寺院の障壁画に健筆をふるっていた伊洲だが、嘉永5年に暴漢に襲われ、62歳で死亡している。『古画備考』によると「同国(陸奥)の人に切られ破傷風の傷がもとで死んだ」とあり、その背景には伊洲の養子問題があったらしく、「小島源左衛門(伊達上野家士)が、伊洲の養子になろうと謀ったが、その望みを遂げられずに恨み、伊洲と養子の桂州を傷つけて罪に問われた」と2年後の処罰に関する記述もある。

菊田伊洲(1791-1852)きくた・いしゅう
寛政3年仙台生まれ。名は秀行、通称は章羽。別号に松塢がある。本姓は武田、父は江戸出身の画家・武田竹亭。菊田東雨の養子となり、江戸に出て狩野伊川院栄信に学んだ。天保9年に江戸城西の丸、同15年には本丸が焼失した江戸城の再建に伴う障壁画制作に狩野派の一門として参加した。嘉永3年から同5年にかけて高野山諸寺院の障壁画を手がけた。門人に、杉沼無牛、そして養子となった菊田桂州がいる。娘婿に狩野養信の門人で塾頭だった佐久間晴岳がいる。嘉永5年、62歳で死去した。

杉沼無牛(1804-1845)すぎぬま・むぎゅう
菊田伊洲の門人。名は秀安、通称は善之丞。弘化2年、42歳で死去した。

菊田桂州(1818-1903)きくた・けいしゅう
文政12年生まれ。菊田伊洲の養子。名は篤。桃生郡中津山邑主・黒澤氏の家臣・織田作兵衛の二男。17歳の時に画を菊田伊洲に学び、伊洲の養子となった。のちに狩野勝川院雅信に随行し、全国各地を遊歴した。明治36年、76歳で死去した。



高野山障屏画
美術出版美乃美

仙台四大画家のひとり・南画の菅井梅関

2019-02-25 | 画人伝・宮城

梅図 菅井梅関

文献:仙台四大画家、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市史特別編3(美術工芸)、東北歴史博物館美術工芸資料図録、 仙台市博物館館蔵名品図録、福島美術館優品図録

仙台城下に生まれた菅井梅関は、早くから画才を発揮し、長じて仙台来訪中の画家・根本常南に師事して本格的に画の修業を始めた。その後は、家業を弟にまかせて、瑞鳳寺の僧・南山古梁をめぐる文化サークルのなかで成長していった。

やがて京都に上り、東東洋宅に寄寓しつつ古画の模写につとめるとともに、当時流行していた南蘋派の画家たちや伊勢の画僧・月僊、岸駒らと交流し、さまざまな画風を吸収して画技を深めていった。さらに、偶然手に入れた中国画家・江稼圃の描いた扇図に感動し、江稼圃に師事するため長崎に旅だった。

長崎には10余年留まり、やがて活動の拠点を大坂、京都に移し、頼山陽篠崎小竹らと親交を重ね、南画壇の中堅へと成長していったが、母の死とそれを継いだ弟の失明の報せを受け、帰郷することとなった。菅井家の家業には諸説あり特定されていないが、梅関の商法によってたちまち倒産したという。

家業の倒産で貧窮していた梅関だが、仙台画壇で南画を広めようと画業は積極的に展開した。しかし、江戸や京坂のようには南画の需要はなく、活動は行き詰まり、悪いことに時代は天保の飢饉を迎える。さらに、東東洋や南山古梁の死、支援者の死などもあって、梅関は酒におぼれることも多くなり、やがて自暴自棄になって61歳の生涯を閉じたという。井戸に身を投げての自殺だったと伝わっている。

菅井梅関(1784-1844)すがい・ばいせき
天明4年生まれ。初名は智義、名は岳、字は正卿、通称は善輔、のちに岳輔。別号に東斎、伴夢生がある。はじめ根本常南に師事した。長崎で江稼圃に師事した。長崎に10余年留まり、帰途京都、大坂、江戸で頼山陽、篠崎小竹らと交遊した。弘化元年、61歳で死去した。

菅井田龍(1820-1904)すがい・でんりゅう
文政3年生まれ。菅井梅関の養子。二代目梅関を名乗った。本姓は高橋。名は壽、通称は助治、別号に南岳がある。梅関没後は、長崎に行き18年間鉄翁祖門について学んだという。長崎から帰ってから各地を遊歴したが、北海道で脳障害を起こし、半身不随となったが左手だけで描き続けたという。明治37年、85歳で死去した。

栗村北沙(1799-1858)くりむら・ほくしゃ
寛政11年生まれ。菅井梅関の門人。名は義迪、字は子啓、通称は四郎助。別号に伏水、天豫々がある。天保年中、評定所役人となり、養賢堂目付けを経て、御證文預主立となった。安政5年、60歳で死去した。



写意梅蘭竹菊画法 中国画技法 中国絵画
誾国星
天津楊柳青画社