松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鹿児島県を探索中。

奄美大島に没した田中一村の話

2018-05-21 | 画人伝・鹿児島

初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)(部分)

文献:田中一村作品集、奄美に描く田中一村、孤高・異端の日本画家 田中一村の世界

昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村~」と題して一村の画業が紹介され、大きな反響を呼んだ。翌年には一躍有名画家となった一村の作品集が刊行され、展覧会が全国各地を巡回した。無名だった田中一村は、文字通り一夜にして「孤高の天才画家」になってしまったのである。

もともと幼いころから絵を描いては神童といわれた。彫刻家の父はその画才に歓喜して「米邨」の雅号を与え、作画の後押しをした。一村少年は作画三昧の生活を送り、周囲の期待通りに東京美術学校日本画科に入学した。同級生には東山魁夷、橋本明治、加藤栄三、山田申吾ら錚々たるメンバーがいた。しかし、一村は2カ月余りで同校を退学してしまう。学校を辞めた理由は定かではないが、もし、この時、もうすこし在学していれば、のちに巨匠となった同級生たちと共に新しい美術運動を展開し、近代日本美術史に名を刻んでいたかもしれない。

公募展とも縁がなかった一村だが、39歳の時に川端龍子が主催する青龍社の第1回展に出品している。この年、新たな出発を期して雅号を「一村」と改め、翌年の第2回展にも2点出品した。しかし、そのうち1点は入選したが、残りの自信作のほうが落選してしまい、このことで龍子と衝突、他の1点の入選を辞退して青龍社を離れてしまった。もし、この時、青龍社に留まっていれば、龍子の大画面主義のもと一村の新たな才能が開花し、日本画壇の勢力地図を塗り替えていたかもしれない。しかし、一村は自ら身を引き、やがて画壇とは無縁になっていった。

奄美大島に移住することを決意したのは50歳の時である。一村は、千葉の家を売り、奄美大島での生活にむけて、画業10年計画なるものを立てた。それは「5年働いて3年間描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」というものだった。しかし、その10年が過ぎても個展は開催できず、働いては辞めて絵を描き、また働くということを繰り返しているうちに体調を崩し、69歳の時、夕食の準備中に心不全で急逝した。

生前は個展をすることも叶わなかった一村だが、島の人には、自身をゴッホやゴーギャンになぞらえ「私の死後、50年か100年後に私の絵を認めてくれる人が出てくればいいのです。私はそのために描いているのです」と語っていたという。報われない画家のほとんど、いやすべてが口にするであろう、このありふれた台詞が、田中一村が達成できた唯一の「計画」になってしまった。

田中一村(1908-1977)
明治41年栃木県下都賀郡栃木町生まれ。彫刻家・田中稲村の長男。本名は孝。大正元年、4歳で東京市麹町に移った。大正4年、7歳の時に児童画展で天皇賞(文部大臣賞ともいわれる)を受賞し、父から米邨の号を与えられる。大正10年芝中学校に入学、学業のかたわら南画の制作・研究を行なった。大正15年4月に東京美術学校日本画科に入学したが、同年6月に退学。東京を数度移転したのち、昭和13年、30歳の時に千葉市千葉寺に移住。船橋市の工場で板金工として働くが、体調を崩し終戦まで闘病生活を続けた。昭和22年、39歳の時に青龍社に「白い花」が入選、雅号を米邨から一村に改めた。しかし、翌年青龍社に2点出品したが、自信作「秋晴れ」が落選したことに納得せず、川端龍子と衝突、他の1点の入選を辞退して、青龍社を離れた。昭和27年、44歳の時にカメラに興味を持ち、姉喜美子をモデルにしたり、風景を撮影した。昭和30年、四国、九州を旅行。まず和歌山に出て、四国、九州を回り、さらに、種子島、屋久島、トカラ列島まで足を延ばし、南国の自然に魅了された。昭和33年、50歳の時に奄美大島行きを決意。資金準備のために千葉の家を売り移住。名瀬市大熊の紬工場で染色工として働き「5年働いて3年間描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」という画業10年計画を立てる。昭和42年、59歳の時に5年間働いた紬工場をやめ、絵画制作に専念。以降3年間に奄美時代の主要な作品が描かれたと思われる。62歳で再び紬工場で働き出し、64歳で再び工場を辞め絵に専念するが、腰痛、めまいなど体調は悪化。68歳の夏、畑仕事の最中に軽い脳溢血で倒れ入院。翌昭和52年、体調はやや回復していたが、夕食の準備中に心不全で倒れ、69歳で死去した。


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小松甲川ら鹿児島の初期日本画家

2018-05-18 | 画人伝・鹿児島

群鶴図 小松甲川

文献:鹿児島市立美術館所蔵作品選集、鹿児島の日本画家小松甲川作品集、かごしま文化の表情-絵画編

薩摩藩御用絵師・佐多椿斎の子として鹿児島に生まれた小松甲川(1857-1938)は、上京して明治政府の印刷局石版科長をしていた郷土の絵師・柳田龍雪に師事、同時期に橋本雅邦にも学び、近代的な日本画の影響を受けた。その後帰郷し、生涯の大部分を鹿児島県立第一高等女学校で書道と絵画(日本画)担当の教育者として過ごし、画家としてはもちろん、書家、教育者としても鹿児島の文化に貢献した。

京都府出身の河本其山(1875-1957)は、京都市立絵画専門学校で山元春挙に学び、その後は鹿児島の高校で長く教壇に立ち、美術教育に尽力し、南日本美術展の審査員もつとめた。福井江亭、山元春挙に学んだ古城江観(1891-1988)は、戦後は千葉に住み、市原美術会会長として文化振興に尽力した。丸田竹濤(1892-1964)、松井黎光(1900-1974)、石原紫山(1905-1978)らは南国美術展や南日本美術展の審査をつとめ、地元の美術振興に貢献した。

小松甲川(1857-1938)
安政4年鹿児島市生まれ。薩摩藩奥絵師・佐多椿斎の三男。明治13年東京の成蔭学舎で漢学修業のかたわら柳田龍雪に絵画を学んだ。明治15年第1回内国絵画共進会に出品。明治17年外務省記録局に勤務。明治20年警視庁に勤務し、翌年内閣総理大臣秘書官牧野伸顕付けとなった。明治23年第3回内国勧業博覧会に出品。その後鹿児島県に帰り、明治28年鹿児島県尋常中学校に、明治35年私立鶴嶺高等女学校に勤務。明治45年からは県立第一高等女学校に勤務した。昭和2年久邇宮同妃殿下来鹿の際、御前揮毫を行なった。書もよくし、鹿児島県内にある碑文の多くを手がけた。昭和13年、81歳で死去した。

河本其山(1875-1957)
明治8年京都府城崎生まれ。京都市立絵画専門学校で山元春挙に学び、春挙門下の新鋭と目されていたが、25歳ころから鹿児島に住むようになった。鹿児島市立女子興業学校や県立工業高校で長く教壇に立ち、美術教育に尽力。南国美術展などでも活躍し、多くの弟子を育てた。図案や工芸デザインも手掛け、県立工業高校の徽章をデザインした。昭和22年の第2回南日本美術展から第5回展まで日本画部門の審査員をつとめた。昭和32年、82歳で死去した。

古城江観(1891-1988)
明治24年出水郡高尾野町生まれ。若くして黒田清輝に認められ、東京美術学校教授の福井江亭、山元春挙について日本画を学んだ。大正10年第3回帝展に出品。大正12年から4年半、東南アジア各地を旅行し、仏教を美術を研究した。昭和2年から5年間はヨーロッパ各地を巡回してから渡米。渡仏中にサロン・ドートンヌなどに出品した。従軍画家としても活躍した。戦後は千葉県市原市に住み、昭和37年から市原美術会会長をつとめた。昭和63年、97歳で死去した。

丸田竹濤(1892-1964)
明治25年鹿児島市生まれ。鹿児島商業学校を卒業して百四十七銀行につとめている時に第1回帝展に水墨画が初入選。その頃から富岡鉄斎の画風に心酔するようになり、銀行を辞めて京都に出た。鉄斎の弟子にはなれなかったが、近くに住み、水田竹圃の弟子になった。明末の画僧石濤の逸話を聞いて感動し、石濤の濤と師の竹の字をとって竹濤と号した。台湾、南太平洋の島々などに写生旅行をし、のちに上京したが、関東大震災にあい、帰郷した。戦後は南日本美術展の審査をつとめた。昭和39年、72歳で死去した。

松井黎光(1900-1974)
明治33年薩摩郡入来町生まれ。16歳の時、上京して荒木十畝に師事した。大正8年日本美術院日本画科を卒業。雅号を黎光とし、読画会会員となった。大正14年病気のため帰郷して鹿児島市に住んだ。画業のかたわら鹿児島実業学校や鹿児島和洋裁学校の教師、南国美術展審査委員長をつとめた。昭和17年絵画修業のため一家で上京したが、昭和20年関東地方の空襲が激しくなったため帰郷、戦後も鹿児島に住んだ。のちにMBC学園日本画科講師をつとめ、自宅のアトリエでも子弟の養成にあたった。昭和49年、74歳で死去した。

石原紫山(1905-1978)
明治38年薩摩郡入来町生まれ。京都市立美術専門学校に学んだ。卒業後、書店「丸善」の図案部にデザイナーとして勤務したのち、女学校の絵画教師をつとめた。その後台湾に渡り、総督府の文教局や台北帝大医学部で国定教科書、研究論文の挿絵を描きながら、台湾美展に出品。太平洋戦争中にフィリピン戦線の従軍画を描いて台湾総督賞を受賞。戦後は、鹿児島大学医学部につとめ、南画院展と南日本美術展に出品した。南日本美術展では審査員をつとめ、鹿児島県美術協会運営委員もつとめた。昭和53年、73歳で死去した。

満田天民(1905-1985)
明治38年鹿児島市生まれ。大正12年第1回南国美術展に出品、以後毎回同展に出品した。昭和4年の第7回展では南国美術展賞を受賞し、明治屋呉服店で個展を開催した。昭和7年に上京し、益田玉城、永田春水に師事。昭和14年大阪府吹田市に転居し、大阪市美展に出品し、新燈社に参加した。昭和17年大日本美術院賞を受賞。昭和35年第10回新興美術院展に出品し、会員となった。昭和37年に天民塾を春光美術院として発足させ主宰した。昭和60年、80歳で逝去した。

留岡松影(1913-1977)
大正2年滋賀県大津市生まれ。父の武は曽於郡大隅町出身。昭和4年大津高等女学校を卒業、翌年から上村松園の画塾に入り、日本画の勉強を始めた。昭和8年竹内栖鳳、西山翠嶂に師事した。当時から仏画に関心を持ち、古い仏画を調査・研究し、その制作を行なうようになった。昭和10年第1回京都市美術展に入選。昭和52年、64歳で死去した。

村永定観(1919-1992)
大正8年朝鮮半島生まれ。昭和11年旧制川辺中学校に転入、翌年には第1回中学校美術展に入賞した。同校卒業後、東京美術学校日本画科に入学、昭和18年戦時の措置で繰り上げ卒業した。同年中国安東中学教諭になった。昭和20年日本に引き揚げ、同年始まった南日本美術展に第1回展から出品、翌年の第2回展で鹿児島市長賞を受賞した。その後も同展で受賞を重ね、審査員もつとめた。新制作協会展にも入選した。平成4年、73歳で死去した。


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明治期に活躍した鹿児島の狩野派・江口暁帆

2018-05-17 | 画人伝・鹿児島

唐夫人図 江口暁帆

文献:明治の狩野派 江口暁帆展、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編

幕末の鹿児島に生まれ、少年期に狩野派を学んだ江口暁帆(1839-1921)もまた、時代の大きな変遷期にあって、伝統と変革の間で揺れ動きながら新しい表現を模索した画家のひとりである。暁帆の作品には、伝統的な狩野派の画風を伝えるものから、西洋風の写実的感覚を盛り込んだものまで、様々な模索の跡がみえる。

明治18年には、フェノロサが日本美術に新風を吹き込もうとして結成した美術団体・鑑画会の第1回展に出品している。暁帆の作品が、狩野派の基礎を備えながら西洋写実絵画の表現にも通じていたことから、出品作家に選ばれたと考えられる。

明治22年に第3回内国勧業博覧会に出品された「唐夫人図」(掲載作品)は、中国に伝わる親孝行の故事「二十四孝」の一つを題材とし、歯が弱くなって噛めなくなった姑のために自らの乳を吸わせて養った嫁の姿を描いている。二十四孝は狩野派がよく描いた題材だが、肌をあらわにした女性表現は珍しく、そこには近世写生派や西洋絵画の影響がみられる。

江口暁帆(1839-1921)
天保10年鹿児島市生まれ。江口彦太郎の二男。本名は親雄。少年期に狩野派の絵師・佐多椿斎に学んだ。明治2年、鹿児島県十一等絵師助となり、明治5年鹿児島県学校三等教授図画掛を命じられた。「薩隅日三州実測図」を模写して報奨金を受けた。東京府十四等に出任後、太政官正院地誌課十三等に出任。明治6年、同じく十二等出任。翌年、内務省地理寮地誌課十二等出任。明治8年、同じく十一等出任。内務省地理寮地誌課が太政官正院修史局に吸収され、同局の十一等出任、地誌掛。明治14年測量御用として小笠原島出張を命じられ、翌年帰京。明治17年第2回内国絵画共進会に出品。明治18年第1回鑑画会に出品。明治21年頃、神戸市に在住。明治23年第3回内国勧業博覧会に出品。明治36年第5回内国勧業博覧会に出品。後半生は鹿児島市西田に住んだ。大正10年、83歳で死去した。


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島津家お雇いとなり「犬追物図」を制作した狩野芳崖

2018-05-15 | 画人伝・鹿児島

犬追物図(部分) 狩野芳崖 尚古集成館蔵

文献:尚古集成館、近代日本画の先駆者 狩野芳崖 没後100年記念特別展覧会、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編

江戸幕府や各藩の御用絵師を代々つとめていた狩野派の絵師たちは、江戸時代の終焉とともに職を失い、生活に困窮するものも多く出た。のちに新しい日本画の創造に取り組み、近代日本画創造運動の先駆者となる狩野芳崖も例外ではなく、廃藩後は養蚕や開拓の仕事に従事したが生活は苦しく、住居を転々としながら、当時の人々が好む南画風の作品を描いたり、庄屋や豪農の屋敷の襖や杉戸を描き、絵を米に換えていたという。

そんな芳崖の窮状を救ったのが鹿児島の島津家である。明治12年、芳崖は同門の友人・橋本雅邦の紹介で島津家に雇われ「犬追物図」を制作することになった。この図は、島津家29代忠義が天覧に供した犬追物を忠実に再現したもので、制作には3年の歳月を費やし、その間芳崖は月給20円を支給された。生活が安定した芳崖は画業に専念し、雪舟や牧谿の研究などもすすめ、その後フェノロサや岡倉天心と出会い、新しい日本画の創造に取り組むようになる。

島津家の資料を収蔵している尚古集成館には、江戸時代から明治初頭に制作された「犬追物図」が数点残されている。芳崖が描いた「犬追物図」(掲載作品)もそのひとつで、行事の進行を3場面に分けた三幅形式だったとされるが、現在は一幅残るのみである。本図は史実に基づき正確に写されたものとされ、当主忠義(犬の側の黒馬に騎乗している人物)の射手姿などは同家に残るその時の写真とまったく一致しており、その臨場感あふれる描写は、当時大変な評判になったという。

なお、犬追物とは、騎馬で犬を追い弓で射る武術のことで、鎌倉時代にはじまり、武士の間で盛んに行なわれていたが、応仁の乱以後急速にすたれ、江戸時代以降は犬追物を御家芸とする島津家に伝わるのみとなっていた。犬追物で使われる矢は、犬を殺傷しないように、犬射蟇目という大型の鏑矢が用いられていた。

狩野芳崖(1828-1888)狩野芳崖へと続く長府狩野派の系譜
文政11年生まれ。長府藩御用絵師・狩野晴皐の長男。本名は幸太郎。初号に松隣、延信、勝海がある。弘化3年頃、木挽町家の狩野勝川院雅信の門人となった。万延元年江戸城大広間の天井画を担当した。明治12年、同門の橋本雅邦の紹介で島津家雇いとなり「犬追物図」などを描いた。以後、フェノロサや岡倉天心と共に新しい日本画の創造に取り組み、東京美術学校設立のために尽力した。明治21年、61歳で死去した。


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藤島武二の最初の師で薩英戦争に西瓜売り隊の一員として参戦した平山東岳

2018-05-14 | 画人伝・鹿児島

松下虎図 平山東岳 鹿児島県歴史資料センター黎明館

文献:黎明館調査研究報告第16集(絵師平山東岳の経歴について)、黎明館収蔵品選集Ⅰ、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

京都で四条派を学んだ平山東岳は、人物画、花鳥画、山水画など幅広いジャンルの作品を数多く残しているが、その一方、幕末明治の混乱期の薩摩にあって、薩英戦争が勃発すると、決死隊(西瓜売り部隊)の一員として英国軍艦に乗り込み、戊辰戦争の際には第六番大隊の監軍として軍功をおさめ、その戦功によって部屋住みの身分から新たに平山家を興すことを許されている。

また、東岳は藤島武二の最初の師としても知られている。藤島の画業は、明治15年から在学した県立鹿児島中学校で東岳に学んだことから始まっているが、明治16年に東岳が東京に移ったその翌年には、藤島も絵画の勉強を志して上京している。藤島が東岳を頼って上京したかどうかは定かではないが、一年で帰郷した藤島は翌年また上京し、師と同じ四条派の川端玉章に師事していることから、影響は続いていたと思われる。

平山東岳(1834-1899)
天保5年上荒田生まれ。平山作右衛門の二男。幼名は龍助、のちに季雄と改めた。初号は千穂。幼いころから画を好み、地元で四条派の絵師・甲斐東渓に学んだのち、京都で長谷川玉峰、塩川文麟の門に入ったとされる。国学を江戸の平田銕胤に学び、深く霧島神宮を尊崇した。明治2年、種子島の地頭職に挙げられた。明治16年宮内省御用掛となり、筥崎八幡宮に蒙古襲来図を奉納した。明治32年、66歳で死去した。


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薩摩の円山四条派

2018-05-11 | 画人伝・鹿児島

山水図 税所文豹 鹿児島市立美術館蔵

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

狩野派が大勢を占めていた薩摩でも、江戸後期から明治にかけて円山四条派に学んだ絵師や南画家が登場するようになった。京都で四条派の松村景文に学んだ絵師としては、京都見聞役をつとめていた税所文豹(1809-1852)がいる。文豹は絵を描くとともに和歌もよくした。また、伏見御仮屋守、京都御留守居の田尻種美(1794-1855)も景文に学んでいるが、作品は残っていない。師は不詳だが、同時代の若松則文も和歌をよみ四条派の絵をよくした。則文の門人としては都城の赤池南鳳がいる。

同じく京都で小田海僊に学んだ絵師としては、和田芸谷(不明-1851)と本田蘿山がいる。小田海僊は、はじめ呉春から四条派の手ほどきを受け、のちに南画を学び、江戸後期を代表する南画家の一人となった絵師で、和田芸谷が海僊に学んだ時期は定かではないが、円山四条派風の美人画を残している。芸谷の門人には三原文叢と都城の速見晴文がいる。晴文は竹下寒泉について学んだとも伝えられている。

また、竹村大鳳、宮下文蟻も四条派をよくした同世代の絵師である。大鳳の門人としては甲斐東渓がおり、各地を遊歴し、風景山水を描いたと伝わっている。

税所文豹(1809-1852)
文化6年生まれ。歌人・税所敦子の夫。通称は篤之、龍右衛門。京都見聞役をつとめていた。松村景文に師事し、和歌を千種有功に学んだ。「天神図」「山水図」が残っている。嘉永5年、44歳で死去した。

田尻種美(1794-1855)
寛政6年生まれ。通称は次兵衛、大蔵。伏見御仮屋守、京都御留守居をつとめた。松村景文に師事した。作品は確認されていない。安政2年、京都の薩摩藩邸において62歳で死去した。

若松則文(不明-1859)
師は不明だが四条派の絵をよくした。和歌を山田清安に学んだ。別号に南坡がある。安政6年死去した。

和田芸谷(不明-1851)
小田海僊の門人。諱は正命、通称は仲之進。海僊に師事した時期は不明だが、「美人図」「元禄美人図」など円山四条派の美人画が数点見つかっている。嘉永4年死去した。

本田蘿山(1821-1864)
文政3年生まれ。加治木の人。通称は小次郎。別号に桜州がある。嘉永年間京都に行き小田海僊に師事した。奥羽地方を漫遊し、一時音信を絶った。「虎図」「鷹図」が残っている。元治元年、45歳で死去した。

伊地知呉東(不明-不明)
小田海僊に師事し、海僊の画法をよく伝えている。

三原文叢(1812-不明)
文政9年生まれ。三原静軒の子。名は経正、通称は次郎左衛門。文政10年、16歳の時から和田芸谷について学び、その後脇坂南溟、新見大年らについて、西日本各地を遊歴したと伝わっている。長谷川玉峯とも交流した。

竹村大鳳(1813-1873)
文化10年生まれ。名は大。京都に住み四条派をよくした。「富士図」が残っている。明治6年、61歳で死去した。

甲斐東渓(不明-不明)
竹村大鳳の門人。通称は弥右衛門。谷村巣玄の子として生まれ、甲斐権兵衛の養子となった。各地を遊歴し、風景山水を描いた。「春景山水図」が残っている。

稲留源左衛門(不明-不明)
四条派をよくした。

宮下文蟻(1819-1881)
文政2年生まれ。伊地知希賢の子。四条派をよくした。明治14年、63歳で死去した。

井上玉翠(不明-不明)
藤井良節の弟。通称は長秋、弥八郎、大和、石見。別号に翠庵がある。四条派をよくした。


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薩摩藩最後の御用絵師・佐多椿斎

2018-05-10 | 画人伝・鹿児島

円窓寿老人図 佐多椿斎

文献:黎明館収蔵品選集Ⅰ、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

佐多椿斎(1817-1891)は薩摩に生まれ、地元の馬場伊歳に師事し狩野派を学んだ。当時の薩摩の絵師の多くが、地元で学んだのち江戸に出て江戸狩野家に入門しているのに対し、椿斎は江戸に出ることはなく薩摩で活動した。かつて薩摩藩十一代藩主・島津斉彬が、椿斎の才能を認め、藩の奥医師格の奥絵師として採用するように家老に申し付けた際、家老は、椿斎が江戸狩野家に学んでいないことを理由に、その資格はないと進言した。しかし、斉彬は「芸をもって採用すべし」と命じ、椿斎は薩摩藩最後の御用絵師のひとりとして活躍することになったという。

椿斎の師である馬場伊歳に学んだ薩摩の絵師は多く、そのほとんどが地元で伊歳に学んだのち、江戸に出て狩野家に入っているが、椿斎のように江戸の狩野家で学んだという記録のない絵師は他に、笹川蘭斎、二木直喜、中島信徴らがいる。

佐多椿斎(1817-1891)
文化14年鹿児島生まれ。上脇音右衛門の子。諱は清重、字は瘤山。旧名は上脇龍淵。初号は蟠雲斎。地元の馬場伊歳に狩野派の絵を学び、のちに画道の功により奥医師格を命じられた。また、伊地知馬翁から俳句を学び、李村、荷舟の俳号がある。子に絵や書をよくした小松甲川がいる。明治24年、75歳で死去した。

笹川蘭斎(1824-1883)
文政7年種子島生まれ。名は満郡、五兵衛といい、のちに伝と改めた。江戸の狩野家に学んだという記録はないが、馬場伊歳と谷山探成に学んで狩野の画法をよくしたと伝わっている。明治16年、60歳で死去した。

二木直喜(1835-不明)
天保6年生まれ。二木清房の子。別号に馨徳堂翠山がある。14歳の時に馬場伊歳に師事した。伊歳門人の中に二木玉圓とあるのは二木直喜のことと考えられる。嘉永2年から鹿児島藩御細工所絵師を命じられ、明治5年に三等教授図画掛、翌年二等教授図画掛、明治8年に三等副教長図画掛、翌年に二等副教長図画掛に、同年三等雇いをもって英語学校掛、準中学校正課時間掛を兼ね、のちに師範校画学伝習方掛などをつとめ、明治10年には鹿児島県雇いになった。明治15年東京水産博覧会に魚類の写生図を出品。明治17年に文部省に図画教育調査所を設けた際、図画取調方として同所に出張した。明治以降も美術教育行政に携わっていたとおもわれる。

中島信徴(1836-1906)
天保7年生まれ。中島定房の子。名は盛太郎、通称は一三。別号に玄春、白圭、雪谿、常盤山人がある。馬場伊歳の門人。同門の森養淳にも学んだ。島津家斎興、斎彬、忠義の三代に仕えた。元治元年島津久光に招かれた武田信充から有識故実を学び、作画に生かした。明治29年病によって職を辞し、晩年は、巨勢金岡、藤原信実の画風を研究した。明治39年、71歳で死去した。


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江戸後期を代表する薩摩藩の絵師・能勢一清とその門人

2018-04-27 | 画人伝・鹿児島

三傑図(左から張飛、劉備、関羽) 能勢一清 鹿児島市立美術館蔵

文献:黎明館収蔵品選集Ⅰ、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

能勢一清(1790-1857)は、江戸後期を代表する薩摩藩の絵師で、木村探元の高弟・能勢探龍の曾孫にあたる。幼いころから画を好み、森玄心に学ぶが、15歳の時にその門を辞して、狩野探幽、木村探元に私淑した。特に探元については画法をよく修得した。また、和漢の古典を研究しており、画域が広く、比較的多くの作品が残っている。

一清の門人としては、幕末明治期に活躍した実子の内山一観をはじめ、常に師から画才を称賛されていたが早世した八木松濤軒、絵を学ぶとともに詩歌、書、茶道、華道などもよくした下河辺行廉、都城出身の中原南渓、そして後に油彩画に転向する床次正精がいる。

能勢一清(1790-1857)
寛政2年生まれ。能勢探龍の曾孫。名は泰央、通称は武右衛門、小字は十郎次。別号に浄川軒、烹雪庵、静得、懐徳庵、黙観、心斎がある。狩野探幽、木村探元に私淑し、よく探元の画風に迫る作品を描いた。伊集院の広済寺のもとめに応じて十六羅漢図を描いた。嘉永6年の花尾神社改築にあたっては、社殿内の格天井に草花図を描いた。「楼閣山水図」「草蘆三顧之図」など比較的多くの作品が残っている。安政4年、68歳で死去した。

内山一観(1823-1897)
文政6年生まれ。能勢一清の実子。内山次右衛門の養子となった。諱は盛爾、通称は四郎右衛門。別号に浄雪軒、松泉軒成清がある。文久2年藩主館内の絵画を描いた。明治15年内国絵画共進会に出品し褒状を受けている。明治30年、75歳で死去した。

八木松濤軒(1829-1854)
文政12年生まれ。名は兼亮、通称は吉二。12歳のころから能勢一清について学び、常に師からその画才を称賛されていたとされるが、作品は確認されていない。嘉永7年、26歳で死去した。

下河辺行廉(1829-1888)
文政12年生まれ。通称は藤蔵。別号に細香盧、桑蔭、玄香堂、観耕堂、景洲、老筍翁がある。能勢一清に絵を学ぶとともに、詩歌、書、茶道、華道などもよくした。明治21年、60歳で死去した。


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狩野派風の作品を残した伊東養定

2018-04-26 | 画人伝・鹿児島

関羽図 伊東養定 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

伊東養定(1780-1860)は、「養」の付く雅号から木挽町狩野家に学んだと思われるが、その記録はない。狩野晴川院養信が書き溜めた『公用日記』にも名前はない。作品の落款に「正貳法橋」とあることから、藩の奥医師格であったと考えられ、高い評価を得ていた絵師と思われる。

江戸の狩野家との師弟関係が明らかでない絵師たちのなかには、狩野家に学んだにもかかわらず、そのことが伝わらなかった絵師もいると思われる。18世紀末から19世紀にかけて薩摩で活動し、狩野派と思われる絵師としては、狩野派風の絵を残している獅子目清雲、雅号から木村探元の門人と思われる児玉探月や古藤探達、別号の類似性から探達と近い関係にあったと思われる村田経方らが狩野派の絵師である可能性が高いが、作品は確認されていない。

伊東養定(1780-1860)
安永9年生まれ。養定斎とも称した。正貳法橋。作品としては、鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵の「関羽図」、指宿白水館所蔵の「寿老人図」が残っている。万延1年、81歳で死去した。

獅子目清雲(不明-不明)
別号に洞陽がある。狩野派風の作品を描いた。作品は鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵の「旭日鶴図」が残っており、落款が「薩摩洞陽」とあることから、駿河台狩野家の系譜に連なる絵師ではないかと考えられている

児玉探月(不明-不明)
通称は守約。別号に定山がある。

古藤探達(不明-不明)
別号は松雲子がある。

村田経方(不明-不明)
通称は源左エ門。別号に松溪子がある。

訓谷沢水(不明-不明)
家に法書・名画を多く所蔵した。

有馬純明(不明-不明)
通称は子達。別号に馬純明、夏陰がある。草牟田に住んでいた。


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農業百科事典『成形図説』の挿画を描いたとされる谷山洞龍

2018-04-25 | 画人伝・鹿児島

成形図説 挿画は谷山洞龍の作とされる

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

薩摩の絵師は、江戸に出て木挽町狩野家あるいは鍛冶橋狩野家に学んだものが多かったが、谷山洞龍と山口洞月は例外的に表絵師の駿河台狩野家に学んでいる。いずれも四代目当主・狩野洞春美信に学んおり、薩摩の絵師で、駿河台狩野家に入門したのはこの2人だけである。

谷山洞龍の作品としては、指宿白水館所蔵の「山水図」が伝洞龍作とされているが、画中に白文方印「谷山氏」とあるだけで、子の探成の作品の可能性もあるなど、洞龍作とは確認されていない。また、藩主・島津重豪の命を受けて、医者で本草学者の曾槃と国学者の白尾国柱らが編纂した『成形図説』の挿画は洞龍が描いたものとされている。

洞龍に続き、子の谷山探成も、孫の谷山龍瑞も、谷山家は三代にわたって絵師として活躍したが、それぞれ、駿河台家、鍛冶橋家、木挽町家に学んでいる。谷山家三代が別々の狩野家に学んでいることや、山口洞月が藩命によって駿河台家に入門していることから、時代の経過とともに、江戸初期には入門先として集中していた木挽町家に、それほどこだわらなくなっていったと思われる。なお、記録に見る限り、薩摩の絵師で上記三家以外の狩野家に入門したものはいない。

谷山洞龍(不明-1811)
名は美清。谷山探成の父親。初号は探楽。駿河台狩野家四代目当主・狩野洞春美信に学んだのち、画道の功により大進法橋に叙せられた。文化8年死去した。また、文化元年、曾槃と白尾国柱らが藩主・島津重豪の命を受けて著した『成形図説』の挿画は洞龍が描いたものとされている。

山口洞月(不明-1811)
本姓は平氏、名は美賢。奥山正蔵の二男として生まれ、奥山元陽と称した。寛政6年に山口典左衛門篤好の養子となった。幼いころから絵を学び、のちに御細工所の絵師になった。寛政8年に藩命によって江戸に出て駿河台狩野家四代目当主・狩野洞春美信の門人となった。作品は鹿児島県立図書館所蔵の「山水図」が残っている。文化8年死去した。


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鍛冶橋狩野家に学んだ薩摩の絵師

2018-04-24 | 画人伝・鹿児島

寿老人図 谷山探成 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

江戸後期に鍛冶橋狩野家に入門した薩摩の絵師としては、七代当主・狩野探信守道に谷山探成、児玉探翠、大山等雪が学び、八代当主・狩野探淵守真に大山探賢、園田探浄、樋口探月、樋口淵溪、そして都城出身の長峰探隠が学んだ。

七代当主・狩野探信守道は、木挽町狩野家の狩野晴川院養信らと同じく、よく古画を研究し大和絵に強い関心を示しており、晴川院が中心となって行なわれた江戸城障壁画の制作にも参加している。谷山探成(1807-1879)は探信守道に学んだが、残された作品は墨線を生かした伝統的な狩野派風を示している。「寿老人図」(掲載作品)は、松樹の下に鶴を従えた寿老人を配すという伝統的な構成で、狩野派の画風をよくあらわしている。

谷山探成(1807-1879)
文化4年生まれ。谷山洞龍の子。名は守昭。西田(現在の鹿児島市西田町)に住んでいた。馬場伊歳に学んだのち、江戸で狩野探信守道の門人となった。作品は「寿老人図」「亀甲仙人」「牡丹之図」などが残っている。明治12年、73歳で死去した。

児玉探翠(不明-不明)
狩野探信守道の門人。名は守清、諱は実行。「武者図」が残っている。

大山等雪(不明-1849)
狩野探信守道の門人。名は綱広、通称は勘介。天保11年大竜寺所蔵の秋月等観筆「桂庵玄樹像」を模写したと伝わるが、作品は確認されていない。嘉永2年死去した。

大山探賢(不明-1867)
大山等雪の子。名は守三。馬場伊歳に学んだのち、狩野探淵守真の門人となった。作品は「竜図」「大和武尊像」「花鳥之図」など数点が残っている。慶応3年死去した。

園田探浄(1816-1887)
文化13年生まれ。名は守志。はじめ馬場伊歳に学んだのち、狩野探淵守真の門人となった。大和絵風の作品「春瀑之図」が残っている。明治20年、72歳で死去した。

樋口探月(1822-1896)
文政5年生まれ。名は守保。狩野探淵守真に学んだのち、上総、上野、相模地方を遊歴した。明治元年宮内省に屏風を納めた。明治3年神祇官として出仕、翌年神祇抄録を拝命し、大甞会の際に屏風を納めた。明治5年ウィーン万博に屏風を出品。明治11年には当時13歳の黒田清輝とその姉・千賀子に日本画の初歩を教えた。明治13年宮内省から維新以前の旧儀式取調を命じられる。明治15年内国絵画共進会に出品し褒状を受けた。明治29年、74歳で死去した。

樋口淵溪(1827-不明)
文政10年生まれ。樋口探月の妻、板垣周蔵(号は有隣)の娘。狩野探淵守真に学んだ。


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写実的遠近法を用いた柳田龍雪

2018-04-23 | 画人伝・鹿児島

霧島栄之尾之図のうち桜島遠望図 柳田龍雪 尚古集成館

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

木挽町狩野家最後の当主となった十代狩野勝川院雅信に学んだ薩摩の絵師としては、柳田龍雲、谷山龍瑞、有田養圓がいる。柳田龍雪(1833-1882)の父親は刀具彫刻を営んでおり、龍雪もはじめは銅版彫刻をもって藩に仕えていたが、その後江戸に出て狩野勝川院雅信の門に学び、帰郷後の文久元年、藩の奥絵師として召し抱えられた。

龍雪は、江戸末期において島津家の重要な御用絵師だったと思われ、島津家の所蔵品を管理する尚古集成館には、龍雪の作品「英艦入港戦争図-薩英戦争絵巻-」「霧島栄之尾之図」の2点が収蔵されている。明治4年には西洋画法を学ぶように命じられて上京、翌年以降は海軍省や印刷局石版科につとめるが、それ以後も島津家の命によって絵画制作にあたっている。

「霧島栄之尾之図」は、横長の三幅で、それぞれ「桜島遠望図」「霧島栄之尾図」「栄之尾島津館図」に、霧島栄之尾周辺の風景が緻密に描かれている。「桜島遠望図」(掲載作品)には、霧島から錦江湾ごしに桜島と遠く開聞岳まで望む景色が描かれており、狩野派の絵としては極めて自然な遠近法が取り入れられている。

柳田龍雪(1833-1882)
天保4年生まれ。薩摩藩御用絵師。父の柳田鉄之助は刀具彫刻を営んでいた。はじめ馬場伊歳に学び、その後江戸に出て狩野勝川院雅信の門に入った。別号に拓梁斎、一松斎がある。明治4年西洋画法を学ぶように命じられ上京、翌年海軍省に勤務。同年紙幣寮出任となり、翌年辞職した。明治7年再び紙幣寮に勤務し、同年石版科長となった。同年島津忠義が張行した犬追物の図を描いている。明治15年、50歳で死去した。

谷山龍瑞(1832-1891)
天保元年生まれ。谷山探成の子。父に学び、のちに狩野勝川院雅信の門人となった。嘉永5年から3年間全国を遊歴した。明治24年、62歳で死去した。

有田養圓(不明-不明)
狩野勝川院雅信の門人。別号に養道がある。


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木挽町狩野家に学んだ江戸後期の薩摩の絵師

2018-04-21 | 画人伝・鹿児島

騎竜人物図 小林養建 鹿児島市立美術館蔵

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考

江戸前期には、薩摩画壇と木挽町狩野家とのつながりは深く、多くの薩摩の絵師が木挽町狩野家で学んだが、木村探元の活躍した江戸中期になると、そのつながりは弱くなっていった。江戸中期の薩摩の絵師の多くが探元に学び、江戸に出る場合でも鍛冶橋狩野家に入門するようになっていったからである。しかし、江戸後期になると、そのつながりは再び深いものになっていった。

薩摩の絵師たちが再び木挽町狩野家に入門するようになるのは、六代目当主・狩野栄川院典信に瀬戸口栄春が学んで以降のことである。そして、七代目当主・狩野養川院惟信に古藤養山、瀬戸口養元、馬場養龍が、八代目当主・狩野伊川院栄信に馬場伊歳が、九代目当主・狩野晴川院養信に古藤養真、小林養建が学んだ。森養淳も狩野晴川院養信の門人だっと考えられている。

瀬戸口栄春(不明-不明)
狩野栄川院典信の門人。別号に永雲、鶴峯舎、典孝がある。子に瀬戸口永雲(不明-不明)がいるが、父から絵を学んだといわれるだけで、詳しい師弟関係は明らかではない。

古藤養山(不明-1846)
狩野養川院惟信の門人。名は惟旭。別号に松雪斎がある。惟信の高弟のひとりで、諸方の古画鑑定を取り次ぎ、師家の家事も預かっていた。『古画備考』には、長屋に別に家を構えて住み、「屋敷奥医師格」と記載されている。惟信の孫・晴川院養信のもとでも働いていたと思われる。弘化3年、70余歳で死去した。

瀬戸口養元(不明-不明)
狩野養川院惟信の門人。名は惟程、のちに麟朝。兄弟子・竹沢養溪のあとを受けて木挽町画所の古画鑑定の取次役となった。しかし、散財による借金がもとで出奔。その後、他の狩野家の弟子となり、別姓を名乗り名を麟朝と改めた。その後、同門の古藤養山らのとりなしで藩の許しを得て、溝口家お抱え絵師となり、元の師家にも謝罪して赦された。

馬場養龍(不明-不明)
狩野養川院惟信の門人。名は惟澄。馬場伊歳の父親。詳しい画歴は伝わっていない。

馬場伊歳(1783-1854)
天明3年生まれ。狩野伊川院栄信の門人。馬場養龍の子。諱は養純。はじめ伊春、のちに伊歳と改めた。別号に吟雪斎がある。江戸の狩野家にいるころ上州地方を遊歴し、その景勝地を描いた「上州地取」があったという。師の命によって司馬温公の肖像を描いたともいわれる。文政4年「画讃合百首」巻子に松平定信、島津斉宣、松浦清ら9名の和歌百首に絵を描いた。門人を多く育てている。東嘉永7年、72歳で死去した。

古藤養真(不明-不明)
狩野晴川院養信の門人。古藤養山の子。晴川院とその門人によって天保13年に模写された「乙寺縁起」の中に名前がみられる。また、養信が書き溜めた『公用日記』には天保12年から弘化3年までの6年間に名前が数多く登場する。

小林養建(1815-1876)
文化12年生まれ。別号に酔蝶斎がある。はじめ薩摩で馬場伊歳に学び、その後、江戸に出て狩野晴川院養信の門人となった。天保11年、26歳の時に「烏丸光守奥書三十六歌仙絵巻」を模写した。また、『公用日記』には天保11年から弘化2年の6年間に名前がみられる。帰郷後は現在の鹿児島市西田に住み、酔蝶斎と号した。「雲竜図」「竹虎図」など数点が残っている。明治9年、62歳で死去した。

森養淳(不明-不明)
別号に清閑斎、養浩がある。『公用日記』には天保15年に3度、名前が見られることから、馬場伊歳に学んだのち、狩野晴川院養信の門人となったと考えられている。


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墨梅図ばかりを描いた有川梅隠と賛を寄せた書家の鮫島白鶴

2018-04-20 | 画人伝・鹿児島

墨梅図 有川梅隠 鹿児島市立美術館蔵

文献:鮫島白鶴の世界、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考

江戸後期の薩摩画壇での異色の存在として有川梅隠(1771-1852)がいる。梅隠は、薩摩藩士の子として生まれ、幼いころから画を好み、明時代の画法にならって独学で絵を描いた。もっぱら墨梅図を描いたと伝えられ、確認されている梅隠の作品はすべて墨梅図である。

そのひとつであるこの「墨梅図」(掲載作品)には、画面左上に鹿児島出身で京都で活躍した書家の鮫島白鶴(1773-1859)の賛が添えられている。白鶴は、薩摩藩の仕事で、江戸、琉球、京都などをまわったが、各地で書を称賛され、生前すでに偽者が出回っていたという。世間の常識にとらわれない豪放磊落な人物で、酒を飲むと百篇湧くがごとしだったといわれている。この「酒を酌めば梅辺の雪も寒からず」で始まる本画の賛は、白鶴がしばしば揮毫している自作の七言律詩である。

白鶴は、頼山陽、田能村竹田、小田海僊、福田太華ら文人たちと深く交流し、有川梅隠のほか、税所文豹、能勢一清ら郷土の画人たちとの合作作品も残している。

有川梅隠(1771-1852)
明和8年生まれ。薩摩藩士。諱は貞熊、通称は利右衛門。別号に撫松亭、白眉山人がある。父は伊集院彌右衛門兼道といい、のちに有川家の養子となった。梅隠はその末子。幼いころから画を好み、明の画法を学び墨梅図を得意とした。現存する作品は、梅の絵ばかりである。嘉永5年、82歳で死去した。

鮫島白鶴(1773-1859)
安永2年生まれ。鮫島政芳の子。本姓は藤原氏。通称は吉左衛門、字は黄裳、諱は政文。別号に鼓川、雲蘿、在中、畸翁などがある。幼いころ郷土の書家・馬渡大八に書を学んだ。学問を好み、詩作をよくし、才知が人並みはずれて秀でていた反面、自由気ままで、拘束されない言動が多かったと伝わっている。若いころから藩の仕事で江戸をはじめ各地をまわり、42歳の時には琉球にも渡っている。京都堀川邸に宮番として仕えていた時には、近衛忠熈公の前で書を披露し絶賛されたという。晩年には藩主・島津斉彬に論語を定期的に講義した。安政6年、87歳で死去した。


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信仰と作画が一体化した作品を残した野津無人相菩薩

2018-04-19 | 画人伝・鹿児島

楊柳観音図 野津無人相菩薩 鹿児島市立美術館蔵

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考

江戸後期に入っても、薩摩では依然として狩野派が大きな勢力を占めていたが、そのなかにあって、いずれの画派にも属さない画人として野津無人相菩薩(1726-1797)がいる。野津無人相菩薩は、薩摩藩士の子として生まれ、子どものころから深く仏教を修め、13歳の時に剃髪して仏門に帰依した。生涯独身を通し、修行と作画に専念したと伝わっている。絵は独学で、仏画などを見よう見まねで描いていたと思われる。

世事を意としない「奇異ノ人」で、常人とは異なる行動をとっていたとも伝わっている。橘春暉著『北窓鎖談』によると、仏画を描いては信心の篤い人に与え、また、他国から訪ねてきた修業僧にも自作の仏画を与えていたという。

野津無人相菩薩の作品は、経典の文字を書き連ねて仏の像を描くという手法が用いられている。「楊柳観音図」(掲載作品)は、白衣の陰影や顔の輪郭が淡墨で施され、その上からびっしりと経文が書き込まれている。野津無人相菩薩にとって作品を制作することは写経の心でもあったわけで、絵を描くことは精神修業の一環であったと思われる。

野津無人相菩薩(1726-1797)
享保11年生まれ。薩摩藩士・野津正太左エ門親永の子。名は親倍、はじめ八兵衛と称し、のちに藤兵衛と改めた。13歳の時に松原山南林寺の賢悦和尚のもとで剃髪。元文5年、15歳の時に野津藤内の養子となった。深く仏道を修め、自ら大観自在無人相菩薩、明照如来と称した。代表作に「十六羅漢図」「三尊官」「楊柳観音図」などがある。寛政9年、72歳で死去した。


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