石田三成の娘「辰姫」の研究

石田三成の娘”辰姫”の真実を追求し伝えるサイト。エッセイでは筆者の辰姫への想いや仏教の事を綴ります。

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 初めにカテゴリーの「1分で知る辰姫」と「辰姫年表」を読んだ後に、各カテゴリー内の記事を”古い記事から”読んで頂くと解り易いです。

辰姫からの授かり物「仏教の説く”業”と”縁起・因果応報”の教え」

2018年08月18日 14時51分27秒 | エッセイ (辰姫と私)
 今回のエッセイの内容は、前回のエッセイ記事の”辰姫からの授かり物「仏教」その2”の続きに位置します。

 仏教の経典の中で述べられている事の一つとして「得た仏の教えを伝える事は功徳である」という事も述べられています。
 その機会をこうして得られている事は私にとってはやはり辰姫のおかげと言わざるを得ないところです。


 前回の”辰姫からの授かり物「仏教」その2”では仏教は”より善くある為の教え”である事を述べました。

 では、なぜ”教え”であるのに他の宗教と同じように特定の対象(他の宗教では神、仏教では仏)を拝む必要があるのか?

 それは仏教である”教え”は仏の教えであり、仏とは悟りを開いた存在で、衆生(生きとし生けるもの全て)を救おうとする、苦しみから救い悟りに導く存在としているからです。
 その衆生においては”悪人”や”信仰の有る無し”を問わず、全て救う事が仏の目的と願いとされているからです。

 他の宗教では”信じる者(信仰者)のみを救う”や”悪事を働けば地獄行き”と言うように救われない条件がありますが、親交や行い云々を問わずに全てを救うとしている点が、他の宗教と仏教の決定的な差であり違いなのです。
 そして信仰をもつ事でその仏と親しくなり、導きを得て、修行によって一体となり、悟りに至る。

 その為に仏に拝むのです。

 それは、欲しいものを得たいとか地位名声を得たいなどと言った、自分の我で生じた利己の願いを叶える為の”お願い”という行為ではないのです。

 人生の苦はつきものです。誰しも悩みや困難は抱えているもの。表に出しているか否かの差だけです。

 稀に神社ではなく寺にお経のお守りではなく”開運”や”成就”のお守りが売られている事があります。
 ですが、仏教経典(無数にあるお経)を解読し、その一部の中で説かれている事は、

 ”人は不遇や不幸が続くと運や運命や神と言った目に見えないモノのせいにする傾向がある。”
 ”運や運命というものは無く、今までの自分の大きな行いから些細な行いまで全ての行い(想うだけも含む)が今の自分の境遇を作り出している”
 ”未来は行いによって決まる”

 これを仏教では”縁起”といいます。
 つまり、やった事は自分に返ってくるという”因果応報”というやつです。
 
 そして自分の行い、所業を”業(ごう)”といい、この業の報い(良くも悪くも)は、生前のお釈迦様ですら「業の支配からは逃れる術はない」と言い残されているのです。

 そして、存在する出来事のみならず万物は、”因と縁(因縁)”つまり”必ず原因があり、過程があり、その結果で成り立つ”とされているのです。
 そう、因縁と言うと悪い印象を持ちがちですが、本当は”原因と繋がりと結果”という意味なんです。良い悪い問わない言葉なのです。

 そう、仏教では”神が定めた”とか”運命に逆らえない”といった事など一切説いていないのです。
 これも他の宗教とは大きく異なる仏教の特徴の一つです。


 今回書いた内容は、他宗教と仏教の決定的な違いであり仏教独特の特徴でもあります。
 信仰を持たない者や悪人ですら救いの対象としているところなんかは、嬉しく思ってしまいますね。

 
 もちろん、仏教についてはこれだけで書き終われるものではありません。
 別記事として、まだまだ述べさせて頂きます。

 こうした事を知り、伝える機会を与えて下さった辰姫には、私は感謝してもしきれないところです。
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