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会津の名君 保科 正之は日本で始めて年金制度をつくった人です

2013年01月07日 | 日記


今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」ですが、舞台は会津です。
会津藩最後の藩主松平容保公の時代ですが、
会津松平藩の祖であり、
水戸藩主水戸光圀、岡山藩主池田光政、
と並んで江戸初期の
三名君と賞される保科正之公についてまとめました。  
少し長いですが、ご一読ください。

     

        保科正之像

保科正之は、1611年に第2代将軍 徳川秀忠のの4男として生まれました。
第3代将軍家光と第4第家綱を支えました。

子供の頃の名前を幸松といい、武田信玄の次女である見性院に預けられ、
その後、旧武田家臣の信濃高遠藩主の保科正光が預り、正光の子として養育され、
後に
正光は自らの後継者に正之を指名しました。
寛永8年(1631年)、正之が20歳になると保科正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主
となり、
正四位下肥後守兼左近衛中将となり、以後、肥後守と通称されます。

秀忠の死後、第3代将軍家光は、正之を可愛がり陸奥会津藩23万石と大名にし、
正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めることになります。

保科正之は、徳川幕府の基礎を築くにあたって多くの仕事をしました。 


それでは、保科正之の業績を見てみましょう。

幕政改革

1.文治政治の推進
 保科正之が活躍した時代の特徴として、これまでの「武断政治」から文治政治に転換した点がある。

 武断政治というのは、江戸幕府初期の徳川家康から家光までの政治を指し、武力で大名を
 支配する政治のことです。

 特に、家光の時代には、取り潰される藩も多く、浪人が増え、社会問題化していました。
 慶安の変や承応の変が起きました。
 この問題に対応するために、4代将軍徳川家綱の時代になって文治政治への
 転換を進めていくことになります。

 保科正之は、江戸幕府が大名およびその重臣から人質をとって江戸に住まわせた制度である大名証人制度を
 緩和し、大名の家臣については、適用なしと寛文5年(1665年)に廃止しました。

 また、末期養子の禁を緩和し、藩のお家断絶を減らしたことも文治政治の特徴とされて
 います。

 これらの政策は、その前年に交付された寛文印知の見返りとされています。

 寛文4年(1664年)に幕府がが全国の大名に対して一斉に領知判物・領地朱印状領地目録を交付し、
 その翌年には、公家、門跡、寺社などに対しても同様の措置を取りました。

 これによって江戸幕府の大名領地権と
日本全国の土地支配権を名実ともに確立したのです。

 また、保科正之は、会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度としました。

2.玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。

3.明暦3年(1657年)の明暦の大化後、焼け出された庶民を救済した。

4.主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅。
  火除け空き地として上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに

  取り組み、江戸の防災性を向上させた。

5.焼け落ちた江戸城天主の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、
  無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、
  以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。


藩政改革

保科正之は、藩政改革にも力量を発揮しました。

1.寛永20年の12月、留物令によって、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品目の藩外持ち出しを
 手形の有無で制限し産業としての育成に努めた。また、許可なくしては伐採できない樹木として
 漆木を第一に指定をした。

2.正保4年(1647年)、諸宿駅を定める。

3.明暦元年(1655年)に飢饉時の貧農・窮民の救済のため社倉制が創設された。
  これは日本初であった。


4.万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じた。

5.寛文元年に相場米買上制を導入。また、末升と秤の統一を行う。
  *飢饉の年にも餓死者を1人も出さなかったと言われる。

6.藩士に対しては寛文元年、殉死を禁じた。

7.朱子学を藩学として奨励し、好学尚武の藩風を作り上げる。

8.90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(玄米5合/日)を支給。
  *日本の年金制度の始まりとされる。

 

以上のことを成し遂げて、保科正之は、寛文9年(1669年)、58歳の時に嫡男の
正経に家督を譲って隠居し、
寛文12年(1672年)、江戸三田の藩邸で死去しました。
享年63歳(満61歳)でした。

 

保科正之公のエピソード

1.異母兄であり長兄の徳川家光が保科正之の存在を知ったのは、
  家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、
  そこの僧侶から「肥後守殿(保科正之の通商)は今の将軍家の弟君である」と
  聞かされて知ったとされ、後で成就院は家光より寺領を寄進されたそうです。

2.慶安4年(1651年)、家光が47歳の時、死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、
  「肥後よ宗家を頼みおく」と遺言し、後の寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を
  定め
ました。

  第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば
  家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
  幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、最後まで薩長軍と戦いました。

3.正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、
  生涯保科姓を通した。第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋が使用されました。


保科正之と学問

正之公は、熱心に朱子学を学び、それに基づく政治を行いました。身分制度の固定化を確立しました。
また、山崎闇斎に強く影響を受け、吉川惟足を師として、卜部家神道を学び卜部神道第55代の伝統者
にもなっています。神儒一致を唱え他の学問を弾圧までもしました。
儒学者の山賀素行が
朱子学を批判したために赤穂藩へ配流となっています。

 

*上記の記載はWikipediaなどを参考にしています。

 

 


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