ゴレ島って、知っていますか?
ダカール沖合い約3㌔にある島。
かつて奴隷貿易の重要な拠点となっていた所です。
この島に、西アフリカ全土から黒人たちが強制的に収容され、
この島から、アメリカ、ヨーロッパ、カリビアンなどに奴隷が送られたのです。
ゴレ島に一歩足を踏み入れる。
そこには、コロニアル風の色鮮やかな家が立ち並び、
青空と青い海を背景に、ブーゲンビリアが花咲かせている。
ゴレ島には3回行ったことがある。
いつ行っても「カワイイ所だなぁ。いい所だなぁ。」と思う。
初めの2回は、ただただそんな感想で終わった。
3回目にして初めて奴隷収容所を見学し、初めてしっかりとゴレ島を知った。
その衝撃は、大きかった。
ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスに代わる代わる占拠され、
奴隷貿易が展開されてきた。
男性は体重が量られ、強い者・弱い者に分けられ、価値がつけられた。
女性は商品としての奴隷を作るための「物」として扱われた。
妊娠させられ、出産し、子どもが1歳にもなれば引き離され、
子どもは奴隷商品に、母親はまた「生産」するための母体として使われた。
若い女性は、夜な夜な白人指揮官の相手にさせられていた。
しかし皮肉なことに、若い女性は白人の相手に選ばれることを望んだらしい。
もしも白人の子どもを妊娠できれば、奴隷収容所を出て、
生まれた混血の子(シニャール)をお世話する係りになれたから。
子どもは2歳児から売りに出され、年齢が低ければ低いほど価値が高かった。
小さな頃から奴隷として教育すれば、自分に絶対服従の奴隷が出来上がるから。
犬を飼いならすように、同じ人間を飼いならしていた。
ゴレ島に収容された黒人は、狭い暗い汚い部屋で、何ヶ月も過ごす。
そして、やってきた船に文字通り詰め込まれ、売りさばかれていく。
ゴレ島から船へ続く扉は、「二度と戻れない扉」と言われていたそう。
船に詰まれるくらいなら海に飛び込んで死んだ方がマシだ、
と、自ら命を経つ者も後を絶えなかったそう。
そんな人たちを待ち構えるサメがゴレ島の周りにはいっぱいいた。
アメリカ、ヨーロッパ、南アメリカ、カリブ海、
色々な所に黒人がいるけれど、彼らの先祖は皆、アフリカから連れてこられた人たちだったんだね。
そんなことに今さら気づきました。
西洋によくある名前で、
ジャクソン、ウィルソン、ピーターソンなどと言った名前があります。
その「ソン」は「サン(息子)」から来るもので、
奴隷を意味していたのを知っていましたか?
ジャクソンは、ジャックの奴隷。
ウィルソンは、ウィルの奴隷。
というように…。
真相はわからないけど、「カリビアン」って言葉も
送られてきた黒人を示す、"carry behind" から来るものと聞きました。
今何気なく使っている名前にも、こういった歴史が隠れていると知ると、
なんだか複雑な気持ちになる。
ゴレ島は色々なヨーロッパ諸国に占拠された。
その都度、建てられた建物には色がつけられたんだって。
もちろん、占拠した国の勢力を示すために。
ポルトガルは白。オランダはオレンジ(赤)。イギリスとフランスが黄色。
ちなみに一番有名な奴隷収容所は赤オレンジ。
これは、オランダ統治時代に建てられたものだから。
こんなにもカワイイ町並み、色鮮やかな家々にも、
負の歴史が影を落としていることを知りました。
ただ単に「ゴレ島かわいい~」なんてものじゃなかったんだ…。
今回ガイド説明をしてくれたセネガル人のおじちゃん。
失礼かな、と思いつつも、ひとつ聞いてみた。
「こういう歴史に直面して、アフリカ人としてどう感じるのですか?」と。
そうしたらおじちゃん、複雑な顔をして、
"we can forgive, but we can not forget"
と言っていた。
歴史は歴史。
許すことはできても、忘れることはできない。
忘れてはいけない。と。
同じ人間であるのに、肌の色の違いだけで、
どうしてここまでおぞましい事ができたのだろうか。
悲しみと怒りがこみあげてくる。
目を背けたくなるような、暗い苦い過去。
しかし、目を背けてはいけない。
しっかりと刻まなければいけない。
こういった歴史が繰り返されないためにも、
私たちは、忘れてはいけない。
(奴隷解放を記念した像)
ダカール沖合い約3㌔にある島。
かつて奴隷貿易の重要な拠点となっていた所です。
この島に、西アフリカ全土から黒人たちが強制的に収容され、
この島から、アメリカ、ヨーロッパ、カリビアンなどに奴隷が送られたのです。
ゴレ島に一歩足を踏み入れる。
そこには、コロニアル風の色鮮やかな家が立ち並び、
青空と青い海を背景に、ブーゲンビリアが花咲かせている。
ゴレ島には3回行ったことがある。
いつ行っても「カワイイ所だなぁ。いい所だなぁ。」と思う。
初めの2回は、ただただそんな感想で終わった。
3回目にして初めて奴隷収容所を見学し、初めてしっかりとゴレ島を知った。
その衝撃は、大きかった。
ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスに代わる代わる占拠され、
奴隷貿易が展開されてきた。
男性は体重が量られ、強い者・弱い者に分けられ、価値がつけられた。
女性は商品としての奴隷を作るための「物」として扱われた。
妊娠させられ、出産し、子どもが1歳にもなれば引き離され、
子どもは奴隷商品に、母親はまた「生産」するための母体として使われた。
若い女性は、夜な夜な白人指揮官の相手にさせられていた。
しかし皮肉なことに、若い女性は白人の相手に選ばれることを望んだらしい。
もしも白人の子どもを妊娠できれば、奴隷収容所を出て、
生まれた混血の子(シニャール)をお世話する係りになれたから。
子どもは2歳児から売りに出され、年齢が低ければ低いほど価値が高かった。
小さな頃から奴隷として教育すれば、自分に絶対服従の奴隷が出来上がるから。
犬を飼いならすように、同じ人間を飼いならしていた。
ゴレ島に収容された黒人は、狭い暗い汚い部屋で、何ヶ月も過ごす。
そして、やってきた船に文字通り詰め込まれ、売りさばかれていく。
ゴレ島から船へ続く扉は、「二度と戻れない扉」と言われていたそう。
船に詰まれるくらいなら海に飛び込んで死んだ方がマシだ、
と、自ら命を経つ者も後を絶えなかったそう。
そんな人たちを待ち構えるサメがゴレ島の周りにはいっぱいいた。
アメリカ、ヨーロッパ、南アメリカ、カリブ海、
色々な所に黒人がいるけれど、彼らの先祖は皆、アフリカから連れてこられた人たちだったんだね。
そんなことに今さら気づきました。
西洋によくある名前で、
ジャクソン、ウィルソン、ピーターソンなどと言った名前があります。
その「ソン」は「サン(息子)」から来るもので、
奴隷を意味していたのを知っていましたか?
ジャクソンは、ジャックの奴隷。
ウィルソンは、ウィルの奴隷。
というように…。
真相はわからないけど、「カリビアン」って言葉も
送られてきた黒人を示す、"carry behind" から来るものと聞きました。
今何気なく使っている名前にも、こういった歴史が隠れていると知ると、
なんだか複雑な気持ちになる。
ゴレ島は色々なヨーロッパ諸国に占拠された。
その都度、建てられた建物には色がつけられたんだって。
もちろん、占拠した国の勢力を示すために。
ポルトガルは白。オランダはオレンジ(赤)。イギリスとフランスが黄色。
ちなみに一番有名な奴隷収容所は赤オレンジ。
これは、オランダ統治時代に建てられたものだから。
こんなにもカワイイ町並み、色鮮やかな家々にも、
負の歴史が影を落としていることを知りました。
ただ単に「ゴレ島かわいい~」なんてものじゃなかったんだ…。
今回ガイド説明をしてくれたセネガル人のおじちゃん。
失礼かな、と思いつつも、ひとつ聞いてみた。
「こういう歴史に直面して、アフリカ人としてどう感じるのですか?」と。
そうしたらおじちゃん、複雑な顔をして、
"we can forgive, but we can not forget"
と言っていた。
歴史は歴史。
許すことはできても、忘れることはできない。
忘れてはいけない。と。
同じ人間であるのに、肌の色の違いだけで、
どうしてここまでおぞましい事ができたのだろうか。
悲しみと怒りがこみあげてくる。
目を背けたくなるような、暗い苦い過去。
しかし、目を背けてはいけない。
しっかりと刻まなければいけない。
こういった歴史が繰り返されないためにも、
私たちは、忘れてはいけない。
(奴隷解放を記念した像)
こうやって由子が代表して、皆が経験できないことを伝えていってくれることは世界の財産になっていくと思う。
これからもがんばってね。
白人至上主義者が、すべてを彼らの論理のみで推し進める、その精神は「白人以外の生物に対して、その存在までを否定している」ところか。(根はもっと深いだろうが)
卑近な例では、シーシェパードの捕鯨妨害にしても、捕鯨国のノルウェーの捕鯨船に本来行うべきであろう!
はたまた、「海洋哺乳類を食べてはいけない」という法律まで制定している合衆国のとある州。
「すべて彼らの論理のみで推し量ろうとする」その精神は、奴隷制度を生み出した遥か太古から変わらない「人間の性」かもしれないが、それを現在まで延々とひこづって来ている彼らの精神構造こそ抹殺するべきだ!
「人種差別」という言葉が世界の辞書からなくなることはないだろうが、そう希望するのは小生一人か!
すばらしい旅行でしたね!