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「一茶」 藤沢周平 文春文庫

2016-05-19 | 読書



藤沢さんの「一茶」は、自分の経験を下敷きにして史実を織り交ぜ書き上げた渾身の作だと思った。
若い頃の挫折感を一茶に見ている、その中に何か暖かい共感をもつ。
他の藤沢作品にある、恵まれない運命や境遇にある主人公に向ける心が、「一茶」という人の生涯に共鳴している、全編にわたって、経験だけでなく想像力豊かな作品になっている。悲惨で運命に対してあがき続けた一人の「風狂の人」が生き生きと写されている。

義母と折り合いが悪く、15歳で江戸に出された。勤め先も長続きせず、一日の食べ物にも事欠き、住むところも決まらない生活だった。その頃流行した戯れ歌作りでしばしば賭け金を取ったことで俳句の才能があることに気がつく。

江戸で一派を作り、名を挙げ、庇護者を得て暮らしを立てようとする。しかし育ちや生き方は作品とは別物といっても回りはそうは思わない、つねに変わらない扱われ方が、出自の貧しいところだった。
句作に興じる人たちは、富裕な生活の慰みだったり、既に名のある人の門下だったりした。

一茶はその中で苦悶し、あがき苦しみやがて年が過ぎていく。芭蕉や蕪村に倣い、周りの宗匠たちも見習い、少し江戸で名が知れたことを頼りに、地方をめぐって草鞋銭を稼ぎ、句会に出て指導して宿を求め、漂白の旅をすることで月日を埋めていた。旅先では少しの自尊心は満足し、そこから江戸に名前が伝わるかもしれないと言う考えもあった。
しかし追い求めた俳諧の世界で生きていくことは叶わず、帰郷する決心をする。

15歳で出て行く息子を哀れんだ父の遺言書をかたに家を守ってきた弟と相続争いに勝ち、妻帯し子供をもうける。しかし妻も子も死に、三度目の妻に見とられるまま老境に入る。
故郷ではそれでも俳諧を日々の糧にしていた。江戸にいた頃、真剣に句作について語り合った友も次々になくなっていったが、一茶はその頃になって、次第に自分の句を自己の思うままにつくり、それを受け入れるようになっていた。身近なところから今に伝わる秀句が生まれた。
生涯で2万句を作ったという。自然や生活や、思いをこめた句は、中央からは貧乏心を抜け出せない、貧しい暮らしを読んだ卑しいところのある歌のようにいわれ、一茶はそれに対するように、ひがみや諧謔や悪口まで句にしているが、それでも今になれば自然は野の詩人として飾らない詩心が返って強く胸を打つ。

「風狂の人」というのは俗世を離れて風流に身を任せ、身寄りや故郷を省みない、自分の求めるところに向かってひと筋に進んでいく人だと思っていた。

私のわずかな知識だと「西行」や「北斎」「芭蕉」が浮かぶ。他にはどんな人がいるのだろうと検索してみた。

名前の上がった人の数をみて驚いた。知らない人たちばかりの中に「寅さん」もいた。

西行も風流を求め歌の道を究めるために旅に出た人だった、でも「一茶」とは違う。恵まれた家の出で、努力の結果とはいえ都で貴族の中に入り帝にも認められた。歌の道を求めて家族を捨てた漂泊の旅だったが、常に政治にかかわり世を正すと言う目的もあった。

だが一茶はタダ食うために、明日を生きるために俳諧を手がかりに這い上がろうとした。力尽きようとしたとき、彼はまた生きるために、故郷に頭を下げる醜い相続争いも辞さなかった。と藤沢周平の中で「一茶」は一人の人間となって息を継いでいる。

藤沢作品は風景描写も美しい、信濃の空は一茶の境遇を照らすように模様を変えて読者を導く。
風光る頃、雲も重い冷え込む秋、雪に閉ざされた閉塞感に行き場のない思い、自然を感じる鮮やかな文章にいっそう引き込まれた。

「芭蕉」は辞世の句で,旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、と 詠んでいる。風狂の人は旅をして旅の中で死ぬのか、死にぎわまで旅を思うのか、それが名声を得たり、あがき苦しむ運命の中であっても。
読後は何か重たい。名作。

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