空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「ニジンスキーの手」 赤江獏 角川文庫

2018-01-23 | 読書




今年早々にバレエダンサーの友人と話していて、ニジンスキーを思い出した。

「ニジンスキーの手」で登場した赤江獏さんは亡くなられたけれど、何冊か集めた本がある。再読してみようと思った。
少し古いが買いなおすこともないかと思ったが、奥付を見ると昭和60年の5版だった。でも再版されているということはファンがいるのでしょう、嬉しかった。

赤江獏さんの作品は、少し時代は新しいが、乱歩やそのあと読んだ高木彬光の「刺青殺人事件」のように、異常な物語が醸し出すホラーに近い雰囲気は、なにか初期の探偵小説が持っている薄気味悪さに通じる暗い雰囲気が漂っている。
この頃の作品は、背景が古典芸能などの、作者の好みや趣味というには深い世界が背景で、その中で主人公たちが巻き込まれた事件を題材にしている。芸事に精進する人たちならではの一途な生き方が、次第に暗闇に迷いこんでいく様子や、芸の世界で競い合う人間関係のもつれや、人間の持つ業や宿命といった日本的な悩み苦しみの世界が、少し胸につかえるくらいの濃い筆遣いで書き表されている。そこが魅力でもあり、読後の昏さにともに落ち込みそうになる不思議な魅力がある。

☆獣林寺妖変
 五山の送り火の火床の跡が残っている、京都の船山の麓にある獣林寺への山道を、務が崇夫と登ったのは霙が降る冬だった。獣林寺の方丈の広縁の天井は桃山城から移したもので、そこで自刃した人たちの血痕が残っていた。ところが最近の調査で古い血痕の上に新しいものが見つかったと話題になっていた。

務と崇夫は大学卒業と同時に歌舞伎の世界に入った。今は名題試験を通り独り立ちできてはいるが、カレッジ俳優という枠から出られなかった。美貌と才気を認められつつあった崇夫は明木屋の部屋に入った。しかし彼は乙丸屋の持つ魔の世界、神通力に魅せられた。乙丸屋がめったに演じない「滝夜叉」を見たいと師匠に頼み込んで断られ、のぞき見をしたが詫びを入れて事なきを得た。その裏には部屋ごとの濁った見栄がうかがわれた。顔見世の前日崇夫が失踪した。
途中で崇夫は「女形をやめようかと思う」「泥海だなぁ」というような言葉を吐いていた。
崇夫は乙丸屋の芸におぼれるあまり、乙丸屋の男と寝た。
務もその男と関係した、崇夫を知るために。
そして血天井に新たな血が加わった。

☆ ニジンスキーの手
 戦災孤児だった弓村高は暑熱に焼けそうな上野公園でロマノフに会い養子になった。ロマノフには逆光の中を野猿のように走り跳ぶ高の肢体は空中に浮いているように見えた。

弓村高はロマノフによって古典バレエの技術を叩き込まれた。ある冷え込んだ雪の日ロマノフが死んだ。
わずかな遺産で東京バレエ学院に入り、三か月後アメリかのギド・ジャストレムスキーの目にとまりその舞踊団に入った。
ギドは古典バレエの基礎を厳しく納めながら現代舞踊の講演をこなし、この性格から《双頭のギド》と呼ばれた。それは伝統があるイギリスやパリの舞踊団とも互角に組める実力があった。
弓村高はここで開花した、21歳で2百人以上いる団員の中で主力のプルミエールになった。

彼は往年のニジンスキーの再来を思わせニジンスキーの特質はまさに彼のものだった。
回りがニジンスキーとの結びつきを感じたのは彼が振り付けた「クレタの牛」だった。
それはニジンスキーが振り付けた「牧神の午後」を彷彿とさせたが、彼は動じなかった。
過去にこういうことはあっただろう。ニジンスキーの演目が彼にあっていたということもある。

彼の「クレタの牛」の後観客が湧いた。
ギドは弓村高の「クレタの牛」に手を入れた。
弓村高はそれを踊ることはギドに成功を譲ることになる、アメリカ財団の保護を受けているこの舞踊団のボスに抗うことができない。彼はいったん心を鎮めた。

次の舞台で弓村高は、ギドの真意を知った。ギドが仕掛けた挑戦は、新しい「牛」をアンコールでも完全に踊りきることだった、最初から最後まで。そこで初演の感動をさらに高めなければならない。ギドの赤毛が燃えていた。

翌朝、新聞はギドの事故死の記事が出た。
一紙は弓村高のつよさをアメリカの政治的現実と重ね合わせた。
一紙はニジンスキーと並べていた。

風間徹は弓村高から連絡を受け取った。今の境遇の違いは大きかったが、かつては孤児院の仲間で友達だった。
記者に囲まれて弓村高は「お忍びできたのだがぶち壊しだ」といい「目をつぶってろよ」という18年前の弓村高の口癖で言った。

弓村高にスパイ容疑がかかった。「クレタの牛」の舞踊賦が素人には読み解けなかったこと、唯一残っているニジンスキーの未発表の舞踊譜の盗作ではないかというのだった。
彼は作譜を手伝った団員の証言で容疑は晴れた。だが記者の前でニジンスキーとの類似点を列挙することになった、疑は晴れたが、その席で弓村高は思う以上に「その手」に掴まっていることを実感した。

弓村高が自分の舞踊譜には「一頭の神」と名付けるといった。

ニジンスキーの日記には、彼は自分のことを神だと書いていた。彼の狂いかけた頭脳はこの神という言葉に支配されていたのだろう。弓村高もなぜかこのタイトルにした。

譜にストーリーを付けてほしいと風間に弓村高はいった。風間は冴えない地方局の台本書きだ。自信がなかった。
化野念仏寺をモチーフにして。と弓村高はいった。

雪の朝、一人の記者が念仏寺で死んでいた。弓村高のところにも警官が来た。

ここからがミステリとしての最終章。
殺人事件が起こった。

この弓村高とニジンスキーとギドをからませたバレエ界と舞踊家の題材は、他の多くの作品に流れている妖気が薄れている分、それぞれの心理描写が面白く短いけれど読み甲斐がある。

京都の見どころもさりげなくはいって雰囲気を高めている。

だが、読み終わると作者の意図はあまり成功したとは言えない、しりすぼみ感がある、短編のためか軽く終わっているのが惜しい。

他に

☆禽獣の門 
 能のシテ方の家柄だったが、そこを飛びだして暮らしている男の話、その男に惚れた女。男も彼女を愛して結婚した。
前半は二人の甘い暮らしがあり、後半は男が墜ちた妖しい世界になる。
何か腑に落ちないエピソードが移っていき、言葉や雰囲気は読ませるが、現実的な目で見れば世界観が受け入れられないところまで広がっていく。

☆殺し蜜狂い蜜
 タイトルは主人公の書いた詩のタイトルでこれで大きな賞を受けた。
だがこの詩にはいわくがあり、もう一人の主人公との関係が終始よじれているのがこの作品だ。
しかし無理やりな感じもあり、あまり面白くなかった。世間と距離がある伝統芸能などを題材にする作家でその死生観も色濃いが、耽美、妖気ふんぷんとした文章力は素晴らしく好きだか、アングラ演劇を指導する詩人や、集蜜家に題材をとってストーリーに絡ませてはいるが、下半身を蜂に刺されて興奮するシーン、など特異な人格形成は馴染みにくい。



クリックしてください↓↓↓↓

HNことなみ

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「木漏れ日に泳ぐ魚」 恩田... | トップ | 1月10日 八尾市に「しんとく... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

読書」カテゴリの最新記事