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「利休の闇」 加藤廣 文藝春秋

2017-11-18 | 読書



秀吉は針売りから身をおこし立身出世に邁進する、時代の流れに天才的な勘を持ちおまけに運までついていた。対、潔い求道者の利休という構図が浮かぶが。


前に読んだ山本兼一著「利休にたずねよ」はまさに期待通りの展開で面白かった。
今回の加藤廣著は、より信憑性を求めているのか、文献に沿って物語がやや細かく進んでいく。
やはり、資料だけでは不明なことが多く、歴史書はここをどう埋めるかに腐心するのだろう。
構想15年という「信長の棺」が話題になって評価されていて、とても期待していた。

面白かった。
秀吉の出自を引きずるいじけ具合や、出世第一の生き方、機を見るのに敏で、戦国時代ではこれに尽きるが、その上何かにつけてついていた。追従術にたけ呵責もなかった。やはりこれも秀吉の才能ということだろうか。

こういう風に利休を語るには秀吉が付いて回る。利休はその時どうしていたか、この本では歴史の歯車は二人を乗せて回っていく。

信長は、天才だったが、本能寺で焼き討ちに会い、ここでは生死も行方もはっきりしなくて、さっさと舞台から消える。光秀も討たれる。

秀吉と茶道・侘茶との接点は、信長の好きな赤烏帽子だった。高名な茶道御三家の一人宗易(のちの利休)に弟子入りする。
その頃の藤吉郎は利休の言う「遊び心の深さ」が言葉からしかわかっていなかった。

藤吉郎は信長から「茶会許可証」をもらい得意満面で姫路城で茶会を開いた。それは自他共に密かに天下取りの一人者と認め、認めさせる外部アピールの瞬間だった。

秀吉なりに向かう姿勢は違っても茶の湯茶道を理解していた。天下一になり湯水のように財力を使って、名器といわれる茶器を集め献上させて、それを披露し(見せびらかし)、手柄を立てた武将に下賜して、大いに力を見せたとしても。鑑賞眼がなかったのではない。

ただ、利休は求道者だった。当時重用されていた宗家の二人を置いて秀吉の下で勝ち組筆頭になっていた。

信長時代に認められ、茶器の巻手を任され、財力も蓄えていたが、秀吉は人使いが巧みだった。利休は面目をほどこし押しも押されもしない地位に就いた。

このあたりから彼にあからさまに様々な波押しよせる、信長の死、朝廷の介入で叱責を受け逼塞、秀吉との立場の逆転など、茶の道を究めようとする中で、世俗の風にさらされることになる。

弟子として見ていた秀吉が頭から指図を始める。賜った利休という名も気に入らない。
それでも彼なりに処世を見極め、茶道で生き残るために節を曲げることも多かった。
利休は若いころ放蕩もつくし、女もかこっていた。立場が危うくなると女の下に身を隠すこともした。

一方秀吉はますます忙しく、東奔西走して、各地の武将を操り、力を広げていた。
そして、子種なしと思い養子縁組までしたところにひょっこり茶々が懐妊した。

得意絶頂で茶道の遊びは脇に追いやられ茶会の数も減って利休の陰も薄くなっていった。

求道者という姿を持ち続けていた利休は、日が当たる秀吉という庇護者の光が陰ってくるにつれ、彼の闇は深くなる。

彼も多少意固地で頑固だった。誰しも目指すところが深ければ深いだけそれに助けられて生きていくことが多い。自尊心・プライドに導かれている。
利休はそれを捨てず貫いたというべきだろう。

石田三成は、賢明だった。主君の命を察し利休の罪を探した。彼は見逃せば見逃せる大徳寺の木造を理由にした。

堺に逼塞していた利休は刑の中でも多少軽いとされる切腹に決まった。

その時秀吉は
「愚か者め、ただの遊びにすぎぬのに」とつぶやいた。

歴史の闇も深い。利休関係の本をただ二冊読んだが、山本兼一さんのものは茶器に造詣が深くそちらの面でも読み甲斐があり、ストーリーに利休の茶道にかける執念がにじみ出ていた。

加藤廣著の方は、利休の生き方の生々しさと、立身出世という執念とともに茶道に向かう秀吉との対比が面白く、それぞれ違った味わいを持っていた。
こういうテーマはやはり事実がどうであっても物語に入りこんでしまう。




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HNことなみ



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