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オリーブになった夕陽と穴とアロマ錬金術

2007-12-04 05:24:35 | Greenベランダジャングル記
昨日は終日、缶詰仕事。夕刻、南西の窓に沈みかけた夕陽が
オリーブの梢に引っかかって、まるで輝ける木の実のように見えた。

冬の落日はうつくしい。こんな日の夜は、星も冴えかえっている。
暖房がフル稼働の部屋では、愛用の加湿器もフル稼動。
これがあると、子供の頃からウィークポイントの喉が乾燥しないで実に助かるのだ

こぽこぽいいながら 白く湿った熱い吐息をはき続ける働き者。
これは±0が2005年にグッドデザイン賞金賞を受賞した加湿器のver2。
今年2月にはMoMAのパーマネントコレクションにも選出されたよう。

アロマ機能がついたり、カラーバリエーションが変ったりして微妙にマイナーチェンジしつつ、
毎年進化している。今年は少し濃い色味のシリーズをセレクトショップでよく見かけるが、
私はこのオフホワイトがいっとう好き。ちょっと『時計仕掛けのオレンジ』に出てくる
キッチュなオブジェみたいでもある。あの映画空間に置かれていても違和感なくないですか?

±0としては、「モノが本来あるべき必然の姿」を見つけ出し
ほんとうに必要な機能だけをその中におさめること」をコンセプトに見出したかたちのよう。
±0のHPのフィロソフィーが興味深かったので一部引用。

「すでに存在しているはずの共有感覚を探そうとしています。
それは、たとえるならジグソーパズルの穴のようなものですが平面的ではありません。
時間も空間も行為も習慣も、文化も情報も教育も思想も、すべてを投げ込んだ入れ子の中の
隙間のようなものです。その穴を見つけることは、人やモノを見るのではなく、
その間の空気あるいはその輪郭を見るようなことだと思います。
「つくり出す」という意思のもとに、その穴のかたちをむりやり変形させてまで
押し込むような行為は、好きではありません。」

「穴」とはむろん比喩なのだが、しかし、この加湿器の中央の「凹み」のような「穴」も
ただこぽこぽ言っているだけの「穴」にあらず。非常に含蓄のある「穴」だったようだ。
道理で毎日対面していても、ちっとも飽きないわけだ。

私はこの「穴」にアロマオイルをいつも仕込んでいる。
風邪をひきそうなときには殺菌作用のあるティートゥリーや喉に心地よいユーカリをブレンド。
そこにラベンダーやローズウッド、ベルガモットなどを気分によって、適宜合わせる。
おもしろいことに、ほんの数滴ずつでも、相乗効果で香りが奇妙なほど増幅する。
まさに錬金術のごとし。そういえば、今年『パヒューム』という大変好みの映画を観たが、
アロマを調合しているときは、あの悪魔と天使が同居したような主人公の姿を
必ず思い浮かべてしまう。
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師走の渋谷でSade

2007-12-03 05:12:49 | Music
日曜は自転車で渋谷へ。東急文化村の周辺の木々が黄昏色に染まっている。
交差点に吹き溜まった落ち葉の上を 自転車を引いて歩くと、
サクッと香ばしく焼けたクロワッサンを齧るときみたいな音がした。

今日は道玄坂でお友達ライターRayさんが習っている音楽スクールの発表会。
ルパン三世のテーマからへルタースケルターまで、ジャンルレスな歌と演奏が
繰り広げられる中、Rayさんはひときわエレガントなシャイニーグリーンのドレス姿で
Sadeの「Kiss of Life」を披露。高校生も参加する中、大人のクールな色香で周囲を圧倒。
傍らでご監になっていたRayさんにびっくりするほどそっくりでお若いママも ほっと溜息。。


それにしても懐かしかった Sade。ハスキーなアンニュイボイスにキャットピープル(!)のような
しなやかなルックスで80年代を代表するディーバとして あまりにパーフェクトだったSade。
「Smooth operator」なんて、死ぬほど聴いた。

思えば、「Diamond Life」が出た頃、
今の六本木ヒルズ辺りにあったとんがったカフェバー(by’80年代死語辞典)インクスティックで
SadeLIVEがあり…観たくてたまらなかったけど、当時未成年だった自分の風貌が情けないほど童顔で、
アダルトなSadeライブには恐れ多くで踏み込めなかったっけ。。

Rayさんの2曲目披露まで2時間近く間があったので、中抜けしてアプレ ミディ セレソンへ。
ここでレコメンドになっているCDを試聴すると、必ずアタリが多々。しかもレコメンド版を買うと
橋本徹さんによるその時々のコンピがおまけでついてくる。これがまた素晴らしい選曲で、
そのコンピで気になった曲が収録されたCD「Love enchante」を買いに寄ったのだ。
このアルバムは、パリの選曲家集団D.I.R.T.Y. Soundsystemによる70年代のソフトなフレンチ・サイケ・ポップのコンピで、Olivier Bloch Laineの2曲(いずれも1976年作)が絶妙に快い。

アプレ ミディ セレソンの並びにある、いつもキュートなアイテムが満載の雑貨屋さんで
Rayさんの愛する“ロバ”がシンバルを叩くおもちゃをプレゼント用にゲットし、再び道玄坂へ。
今度はRayさん、シックな黒ラメ衣装で歌うアダルトなクリスマスソング。
目に耳に楽しい本日のベストドレッサーでした!

師走の渋谷に立ちつくす 孤高の電飾スケルトントナカイ。

土曜から二日続きでのんびり音楽夜話。しかーし、明日からはまたお仕事だぁ。。
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驚異の部屋 ドーモ・アラベスカ

2007-12-02 07:53:45 | Tokyo 闊歩・彷徨・建築探偵
土曜日は、よく一緒にお仕事している猫友達なデザイナーふくちゃんのお誘いで
杉並の「ドーモ・アラベスカ」へ。この語感、たまりません。ドーモ・アラベスカ。
所在地は、幼児期に住んでいたエリアに至近。(東京5歳児日記時代

葉っぱのレリーフがびっしりついたエントランス。


心地よい庭を臨む 窓や明り取りの自在なレイアウト。

ドーモ・アラベスカは、異色の建築家が集った「象設計集団」の1974年設計の住宅。
ドーモ・バレーラ(調布)、ドーモ・バレーナ(横浜)、ドーモ・チャンプル(沖縄)といった
“ドーモシリーズ”も展開しており、その本気とも冗談ともつかない脱力ネーミング、
もう大好き。

そう、「本気か冗談か」というのは、象設計集団の掲げる“7つの原則”のひとつ
「あいまいもこ」の主題でもある。
―「建築か庭か街か、内部空間か外部空間か、建物か衣服か、遊びか仕事か、
今か昔か未来か、完成か未完成か、株序があるのかないのか、部分か全体か、
本気か冗談か、生徒か先生か、誰がデザインしたのか、私たちはこのような
ことがらについて、あいまいもこな世界に住み続けていきたいのです」―

さらに「自力建設」という原則の項でも、こんなに魅力的で示唆的な文章に出逢える。
―「機械よりは多くの雑多な人々、知識よりは知恵、速さよりは持続力、
理性よりは情熱、狂気、妥当よりは過剰、規範よりは埓外のものごと、
結論よりは終わりのない問いかけ、形姿に求められるものは魔力。
最後に、空間の緑化がもっとも大切です」―

魔力―築33年のドーモ・アラベスカにも、まさに快い魔力がゆるゆる宿っている。

この家の主は、象設計集団の代表・富田玲子さんの弟である翻訳家の富田靱彦さん。
アルベロベッロのトゥルッリや、マテーラの洞窟住居を彷彿するような、有機的空間には、
至る所に文学、美術、建築…といった多彩な蔵書が 累々と積み上げられている。

スタッフに許可を得て拝見させていただいた2階の書斎。
先日もこのblogで触れた矢川澄子特集のユリイカや翻訳書が机の天辺に…。
周囲には澁澤龍彦の著作も多々。後で富田さんご本人に伺ったところ、
澁澤・矢川作品がお好きなそう。
…まさに、この書斎をはじめ、この家自体が“驚異の部屋”だ。

そんなドーモ・アラベスカの広場ともいうべきリビングで行われたクリスマススペシャルライブ。
翠川ケイトさん(来年2月に南青山で村上ポンタ秀一らのサポートでライブを行うそう)のvocalと、野本晴美さん(今秋2ndアルバム"Belinda"をリリース)のpiano、さらに飛び入り参加のsax奏者(名前を失念!大泉洋似)による演奏はとても心地よく。ビートルズやキャロル・キングのカバーも楽しく。薔薇色に塗られた括り付けの戸棚が美しいキッチンで作られるケータリング料理も美味でした。

なんでも床暖房が壊れちゃったそうで、70名が入っても少々冷えるお部屋ではあったけど、
この家に棲む3匹の猫の一匹「まるちゃん」雄9歳が、ふくちゃんと私の膝上で爆睡してくれた
お蔭で、この上ない湯たんぽ代わりに!
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「決定的瞬間」への逃避

2007-12-01 08:44:02 | Book 積読 濫読 耽読
仕事の調べものをしようと書棚を探っているうち、気がついたら好きな本を読み耽っていたり
画集や写真集に見入っていたり、ということはままある話で。
締め切りが翌朝に迫っていたりするときに限って、そういう衝動に駆られがちだ。

学生時代、テスト前夜に全然関係ない小説に突然着手し
徹夜で完読してしまったりする逃避行動とまったく同じ。
そして、そういう時に没頭したものに限って、
長く深く自分の中に残っていたりするから不思議だ。
一夜漬けでむりくり暗記した公式や年号なんて、すっかり忘れてしまっているのに。

今週の“逃避物件”は、こちらの写真集たち↑
左端の「桑原甲子雄写真集 東京長日」(1978年朝日ソノラマ刊)と、
中央手前「アンリ・カルティエ=ブレッソン近作集 決定的瞬間・その後」(1966年朝日新聞社刊)は
大学時代に写真の授業をとっていた時、父が膨大な蔵書の中から分けてくれたもの。
卒論でもお世話になった。私も父と同じく本に書き込む悪癖があり、所々にその痕跡が。。

中央奥は今春、東京都写真美術館で開催されていた「マグナムが撮った東京」展の図録。
右は、今夏、松涛美術館で開催されていた「大辻清司の写真」展の充実した図録。
大辻氏は、私が大学時代に受けた写真の授業の担当教授でもある。
写真への興味を深められたのは、大辻先生によるところが大きい。

彼は「実験工房」や「グラフィック集団」など、戦後の前衛美術と関わりながら写真表現を
追求した 日本の重要な作家のひとりだが、横顔が少し“ヨーダ”に似ていた(失礼!)
残念ながら、故人になられてから知ったのだが、実はうちの近所にお住まいで、
作品にもご近所風景が多々。

さて、これらの“逃避物件”には、はからずも共通点がある。
「決定的瞬間・その後」と「マグナムが撮った東京」は、当然、マグナムつながりだが、
それだけでなく、これらはいずれも撮影者が被写体に働きかけて演出することなく
撮った写真がベースになっている、ということ。(一部のモデル撮影や記念撮影は除く)
もうひとつの共通点は、これらの写真集の中には必ず
さまざまな時代の“東京”が どこか無名の街のように切り取られていること。

「なにかを見つけてハッと思ったとき、深くつきつめずに直感の命ずるまま、
ファインダーの中にその情景を切り取る」――大辻清司実験室⑨なりゆき構図 より

「私の写真を撮る態度は、基本的に対象の選択といったことにこだわらない」
――桑原甲子雄 パリから東京をかえりみる より

「彼の写真には、演出や、引き伸ばしのときのトリミングは決してない。彼のいう決定的瞬間とは、シャッターを切る瞬間に一切のものが決定していなければならぬ。その一瞬は絶対的に動かすことのできないものだ。後から手を加えることは、それを破壊することだという」
――木村伊兵衛 ブレッソン“人と作品”

ブレッソンは「忍者はだしの芸当©木村伊兵衛」で、被写体にぎりぎりまで気付かれないよう
忍足で撮影していたという。まさに報道写真家ならではのアプローチというか。

桑原甲子雄は、パリから帰国したばかりにしたためた「東京長日」の前書きで、「テーマは東京でもパリでもない。すこし気取っていえば、たとえば私という人間の、いま通り過ぎつつある生への呼び声であるといってもいい。そう願って写している気配がある」と述べている。

私が、彼らの写した写真にひどく魅かれるのは、彼らが「ハッ」とした瞬間の心の「呼び声」が
そのままシンプルに、そして「決定的」に映りこんでいるからなのだ思う。

いまは デジカメや携帯で誰でも簡便に安価に それなりの写真を撮れるけれど、
こうした「決定的」なものは、形だけ真似しても決して撮れるわけではない。
限りなく偶然に近い透明な芸術、とでもいうか。

一見なんでもないようなアングルだったり、なんでもない瞬間の動作や表情だったり。
技巧を前面に感じさせない写真に潜む、不思議な魔力に吸い寄せられ、
私はまた、開け放した書棚の前で、しばし仕事を忘れてしまうのだ。。
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