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シネフィル魂と新月のDARK BOX

2009-12-18 05:49:13 | Art

ぐっと冷え込みが増し、双子座流星群が降って、新月が明けた。
一寸のんびりしようかと思っていたのだけど、そうもいかないのがシワスの宿命。
そんな中、2つの展覧会へ。一つは戦後に数々の傑作映画ポスターを描いたGデザイナー野口久光の
「生誕100年記念 野口久光の世界 香り立つフランス映画ポスター」展@ニューオータニ美術館。

「大人は判ってくれない」(1959)のポスターも彼の代表作の一つ。
アントワーヌ・ドワネルことJ.P.レオーがセーターに貌を半分埋めたこの画は、
ヌーベル・ヴァーグの決定的なアイコンとなっている。
これを目にしたとたん、シネフィル魂がきゅんきゅん鼓舞される。

トリュフォー自身もこのポスターをいたくお気に入りで、
「二十歳の恋」にも登場させたほか、自室にも終生飾っていたらしい。

ちなみに、「大人は判ってくれない」の原題は、直訳すると「400発の殴打」。
邦題の方がベタだけど、多感な少年少女(かつてのも含めて)の心にぐさり刺さる言霊がある。
野口の手描き文字もたまらなく味わい深い。フランソワ・トリュフォーのクレジットの頭に
「鬼才」とわざわざ書き込んであるのもなんだか微笑ましい。



「禁じられた遊び」(1952)のポスターも野口作品。ポスターを見ただけでナルシソ・イエペスの
ギターが聴こえてくる。。私が映画好きになったのは、子供の頃に観たこの作品の影響が大きい。
何度も観たが、その度に父はラストシーンで眼鏡を外して涙をごしごし拭っていたっけ。



「いとこ同志」(1959)のポスターは、あえて色味を抑えた感じがいい。しかし当時の映画会社の
方針とは思うけど、「運命の非常…肉親のいとこを殺すか、自分の命を絶つか…
善良な心が選ぶものは?」など、ネタバレになる説明的口上がどのポスターにも見られて可笑しい。
しかし「いとこ同士」というと、ムーンライダーズの名アルバム「Nouvelle Vague」にある
同名曲が頭にぐるぐる巡る廻ってしかたがない。



「可愛い悪魔」のBBも、「ノートルダムのせむし男」のジーナ・ロロブリジーダも、
リアルな写真とはまたひと味違う品格が漂う。


雑誌の表紙も、この人の手にかかると、シンプルなのにどうしてこんな惹きつけられるのかな。
‘50年代に朝日新聞社から出ていたらしいバンビ・ブックの端整なオードリーさん(1957)に、
またまたワイルドなキネ旬表紙のBBさん(1961)。



「道」のジェルソミィナことジュリエッタ・マシーナや、
F.シナトラのアルバム ジャケットのさらっとした素描もいいなぁ。



川喜多かしこ夫妻がきりもりしていた東和商事時代の野口久光氏。彼の美校時代の映画ノートも
展示してあったが、タイトルやキャストも克明に書き出してあり、後のポスターに通じるような
見事なレタリングが随所に見られた。この人があれだけ魅力的な映画ポスターを次々と描けたのは、
何より映画を愛していたからに相違いない。器用で巧いだけじゃ こんなには愛されない。

*上記の野口久光の作品・肖像はすべて「野口久光の世界展」図録より。

帰り、赤プリ(言い方がバブルっぽいかも…。今はグランドプリンスホテル赤坂っていうらしい)の
窓にクリスマスツリーが浮かんでいた。緑や赤の部屋は、中からはどう見えるのかな?





日曜、「河口龍夫展 言葉・時間・生命」が最終日であることにはたと気づき
慌てて竹橋の東京国立近代美術館へ。

ポスターやチラシに採り上げられた「関係-蓮の時・3000年の夢」(1994年作)は、
縄文遺跡から出土した蓮の種が発芽したというニュースに触発された作品のひとつ。
鉛で封じ込められた蓮の種がベッドに人型の空間を形成しており、
3000年の眠りに就いていた蓮のメタファーとなっている。


河口先生には、筑波時代に幾つか授業を受けたことがあり、中でも「遊戯装置」という名の授業は、
課題制作こそ大変だったが、とても触発された。今も当時の命題について思いを巡らすことがある。
学生時代には意味が解らなかった命題が、今頃になって作動しているというか。
あるいは、その時に蒔かれた種が、知らぬ間に自分のなかで育っていたというか。

「DARK BOX」1975~

「真っ暗な中で、鉄の箱を開け、闇の中でその蓋を再び閉じてボトルで締める。つまり、その箱の
中は、物理的には空っぽだけど、その瞬間の“闇”が封印されているわけです」
――授業で河口先生がこの作品について語ってくれた時、すごくわくわくした。
これらの箱は、寓話的でロマンティックな闇の儀式の記録なのだ。儀式は定期的に続いていたようで、
美術館で密閉されたという2009年のDARK BOXのお隣には、2010年や3000年の闇を入れるための
BOXまで用意されていた。年代物の“ヴィンテージ闇”と“未来の闇”のための箱が整然と並んだ
インスタレーションに やっぱりわくわくしてしまった。


「関係-無関係・立ち枯れのひまわり」1998

カリカリに枯れ、種子の零れたたひまわりが、棺のように収まっている。
生と死を包括した匣とでもいうべきか。それが奇妙に美しい。

ふと、真夏に逝った親友のことを思い出した。彼女の棺に、その時うちに咲いていたひまわりを
切って供えようと思ったのだが、夏を謳歌しているひまわりの命をまっとうさせたくて
思い留まったのだ。来年、久々にまたひまわりを植えよう、と思った。


左:「ラベンダーのプール」2009  ほのかにラベンダーが香る水面に浮かんでいるのは、
鉛に包まれたラベンダーの種子。私は部屋で毎日ラベンダーの精油を焚いているものだから
このプールのラベンダー臭では物足りなかったが、ラベンダーマニアのツボを突く作品かも。
右:「7000粒の命」2009  これもすべて鉛で包まれた蓮の種子。奥にいるのは河口先生。
この種がすべて開花した図を想像すると壮観。一粒一粒がとても愛しく思えた。


*上記の河口龍夫作品の写真はすべて会場図録・チラシより。


先週末からずっと家で電話取材しながらひたすら原稿を書いていたので、
シチューとかポトフとかじっくりコトコト煮込んでは あったまっている。
材料や調味料の量はいつもながら適当。たいていハーブどっさり具だくさん。玉葱あまあま。




一昨日、新月の“闇”を、ベランダのオリーブやグミの樹越しにぱちり。
カメラ(camera)とはラテン語で「部屋」を意味し、写真機をカメラというのは、
素描用の光学装置「カメラ・オブスクラ(camera obscura)=暗い部屋」に由来するが、
真っ暗な部屋に吸い込まれた、真っ暗な夜闇は、「DARK BOX」の中身のようでもあり。


写真には写りそこねたけれど、
ほんとうはここに、美しい星がきらきら瞬いていた。
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コメント
 
 
 
400回の殴打 (nakrop)
2009-12-21 15:05:03
トリュフォーの出自は私生児で、少年時代は
アントワーヌ以上に悲惨だったらしいですね。
最後のほうで少年鑑別所に入れられたアントワーヌが
女性精神科医に「ぼくは私生児なんだ」とデタラメな物語を語るのですが、
どうもそれがトリュフォーの少年時代をなぞったものらしい。
 
 
 
Unknown (LunaSubito)
2009-12-22 04:04:06
そのエピソード、すっかり忘却の彼方に飛び去って
いたけれど、いわれて思い出しました。
「ぼくは私生児なんだ」と口走るとき
そこには台詞の嘘とか映画という虚構を超えた
かなしみがありますね。

トリュフォー映画は、「アメリカの夜」と「華氏451」もすきです。あと「日曜日が待ち遠しい」もかな。「大人は判ってくれない」と「突然炎のごとく」は大好きだけど、覚悟してからでないと おいそれとは観られません。
 
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