ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”あきれたぼういず”を歌ったオヤジは

2006-08-01 04:14:09 | いわゆる日記


 そのラーメン屋が私の町に店開きしたのは私がまだ頑是無いガキの頃と記憶しているのだが、そこに貼られていた”トピック写真”の内容から思うと、その頃私は高校生位になっていてもおかしくない気がする。なんたって「新宿のフーテン族は今!」だものなあ。いや。そのタグイの風俗が登場して来たのって、何年くらいが最先鋭だったんだ?とか、そっちの方の考察が目的ではないので、いい加減に流しますが。

 ともかくある日突然、我が眠ったような温泉町の川沿いに、その屋台のラーメン屋は店開きをしたのだった。その店の周囲は即日、ちょっとした人だかりが出来たのだが、中に入って物を食おうとする者はあまりいなかったのではないか。皆、その店を遠巻きにし、恐る恐る中の様子を覗うばかり。
 なぜって、その店の周りには、先に書いたが「新宿のフーテン族」とか、なにやら薄汚い若者風俗を写した生写真が大量に貼られ、その傍らには黒々と、「今、世界の最先端の風俗は斯く斯くである」とかなんとか写真の解説が汚い字で大書されていたからだ。そして店名は「当地初のゲテモノ・ラーメン屋、×××」とあった。

 今日のタフな感性のヒトビトとは違い、当時はまだ人心も純真なものであり、そのような恐ろしげな店の中にホイホイ入って行く勇気は”普通の人々”は持っていなかったのである。
 とは言え、それなりに物好きな客も付いて行ったとみえ、いつかそのゲテモノ・ラーメン店は屋台から出世し、表通りに面した飲み屋街の一角に店を構えることとなった。食い物には結構保守的な私は、それでもその店に足を運ぶことはなかったので、その店のラーメンがその程度のゲテモノであったか、いまだに知らないままなのだが。

 それからいきなり20年ほど時間が飛んで申し訳ない。すっかりオトナとなった私は友人と、バンドマンのチョーさんがやっているスナックで一杯やっていたのである。チョーさんのギターをバックに、「ディック・ミネのダイナとエノケンのダイナの歌い較べ」などという、地味な物真似ごっこに興じていたのである。と。

 カウンターの隅で我々のバカ騒ぎを聞いていた、痩せこけた銀髪の片腕の老人が「これは俺も負けちゃいられないな。おいチョーさん、いつもの奴をやってくれ」と言い出し、するとチョーさんもニヤリと笑って、「こりゃお珍しい」と弾き始めたギターのイントロは。あの”あきれたぼういず”の「地球の上に朝が来る~♪」だったのである。

 あっ。ここで”あきれたぼういず”の説明が必要になるのか。う~む、すでに文章が長くなり過ぎているので、恐縮ですが、検索でもしてみてください。戦前の日本を席巻した元祖コミックバンドです。外国のポップスから浪曲まで、さまざまな音楽の混在する、偉大なる大衆音楽を創造したグループでした。

 で、その老人は、それまでの店のカウンターに染み付いたシミであるかのような物静かな酒飲み振りとは打って変わった陽気なエンターティナーぶりで、ある時はコブシコロコロと浪曲をうなり、あるいはジャズの小唄を差し挟みと、我々スキモノ音楽ファンには伝説の巨人たちである”あきれたぼういず”のネタを演じきって見せたのである。そんなものをナマで聞けるとは思わなかった。うへえ、なんだい、この爺さんは。
 
 チョーさんに紹介されてさらに驚いたのだったが、その爺さんこそ、先に書いたゲテモノラーメン屋の創業者である人物だった。今はもう店は息子に渡しての隠居生活ではあるが、体調を崩して、老後の唯一つの楽しみだった飲み歩きもままならないと笑う。若い頃は、まだ最先端の歓楽地であった東京は浅草で鳴らしたモダンボーイであり、若き日の思い出の歌を我々が歌っているのを聞き、嬉しくなって久しぶりに昔の得意芸を披露してしまったとの事。
 
 これは面白い人に出会ったな、そうかあ、ガキの頃の私を恐怖させた、あの禍々しきゲテモノ店は、この爺さんの建立したものだったのか。こんな形で交流を持つことになろうとはなあ。

 まあ、昔の音楽話などおいおい聞き出そうなどと頷きあった我々だったが、飲み終えた彼が店のママに助けられつつ立ち上がるのを見て、さらにのけぞった。彼は、ほとんど半身不随といってよい体の状態だったのだ。自力で立ち上がることも危ういのだ。
 にも関わらす、連日、夜のチマタに繰り出して飲んでいるとは。これは酒飲みの鑑だなあ。と、私と友人は最敬礼で彼を見送ったのだった。

 それから老人との交流は続き、と言いたいところなのだが、一二度、チョーさんの店で杯を重ねただけで終わってしまったのだ、彼との付き合いは。なぜって、それからほどなく、ゲテモノラーメン店の創立者氏は、かって浅草を震撼させた、老いたる不良少年は、あっけなくこの世を去ってしまったからだ。彼が逝ってから、私はチョーさんに一本のカセットテープを手渡された。老人からの贈り物だと言う。

 「昔のジャズソングが好きならって、あんたに渡してくれと頼まれたんだが、まるで形見分けみたいになっちゃったね」と、チョーさんは苦笑した。
 家に帰って聞いてみると、片面には、それこそ浅草でボードヴィル全盛の頃の大スター、二村定一の、もう片面には今で言うデブキャラ・コメディアンにして、なかなかに粋な戦前のジャズシンガーである岸井明の音源が入っていた。
 それぞれ老人が秘蔵のSP盤からダビングしてくれたものだった。岸井のものは入手のむずかしいものゆえ、なかなかにありがたかった。

 それにしてもなあ。もっと早く知り合って、爺さんのライフ・ストーリーや昔の日本のボードヴィル事情など聞いておきたかったのだが。などなど悔やんでももう遅く。いやそもそも、そのラーメン屋自体がもう廃業してしまって、跡を継いだ息子氏もどこへ行ったやら分からない。諸行無常と言う奴ですな。