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今治市のHPによれば、現在の今治城は1980年に天守閣、武具櫓、1985年に御金櫓、1990年に山里櫓、2007年には鉄御門と27年間に渡って再建され、昔の城郭のイメージを今に伝えているようです。

さて、現在の土地に今治城を築城したのは、1600年(関ヶ原の後)、今治20万石の藩主となった藤堂高虎で、1602年から普請を開始、4年後に完成しています。 復元された鉄御門 

 

現在は内堀しか残っていませんが、当時は三重の堀に海水を引き入れた大規模な平城で、本丸に5層5階の天守、二之丸に藩主館、中堀の内側に上級武士、外堀の内側に侍屋敷が置かれ、要所に城門が9カ所、櫓が20カ所もあった大規模なものだったようです。 

1608年、高虎は伊賀20万石に移封、今治2万石には養子の藤堂高吉が城代となり、2年前に完成した5層の天守閣は解体され、丹波亀山城に移築されています。 本丸にある藤堂高虎の銅像

それから371年間、今治城に天守閣は無かったのですが、明治時代に撮影された丹波亀山城天守閣を写した写真を参考に、現在の天守閣が再建されたといいます。  5層の天守

城代藤堂高吉は、1632年に伊勢(その後名張)に移り、代わって徳川家康の異父弟松平(久松)定勝の5男定房(1604〜1676年)が今治3万石の城主となり、明治維新まで松平氏の居城となっています。 

 

その3年後、定房の兄で久松松平家の宗家を継いだ定行(1587〜1668年)が隣の松山藩主(15万石)となり、兄弟仲良く松山と今治の藩主となったのでした。 

 

しかし、39年後の1674年、松山藩3代藩主に世継が無かったため、今治2代藩主松平定時の長男定直が松山藩を、次男定陳が今治藩を継ぎ、藩祖定房の子孫が両藩を継承しています。   

その後233年間、今治城は松平氏によって保たれていましたが、明治維新以後の廃城令によって城郭内の建築物が破却されています。 

なお、松平定勝から始まる松山、今治の松平家の当主は、代々「定」の文字を受け継いでいましたが、13代徳川家定の将軍就任で、「定」の文字を避けて改名、家定の死とともにまた復活させています。

参考文献:近世今治物語 大成経凡



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