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1333年、鎌倉幕府を倒して建武の新政をスタートした後醍醐天皇は、ほどなく足利尊氏と対立して敗れ、2年半後の1336年に京都を脱出、吉野山に南朝を建てています。

吉水神社の鳥居



吉野に入った後醍醐天皇は、まず蔵王堂の南にある吉水院(現在の吉水神社)に入り、そこを行在所としていたようです。

吉水神社の山門



醍醐天皇の御座所は、ほどなく蔵王堂の西側の実城寺に移転、その際に寺名を金輪王寺と変えています。



後醍醐天皇は、北陸、九州、東北など各地に自分の皇子を送って足利幕府を牽制していましたが、1339年病に倒れ、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇1328~1368年)に譲位した翌日崩御されています。

後醍醐天皇陵を示す石碑



それから8年後の1347年、足利幕府の有力大名細川顕氏、山名時氏は、河内南部で力を蓄えた南朝の楠木正行(1326?~1348年)に破られ、室町幕府は危機感をつのらせます。

吉水神社の書院



1347年の年末、楠木正行の成長を確信した南朝の北畠親房(1293~1354年)は、時節到来と判断して正行に足利軍との決戦を命令しています。

吉水神社の拝殿



北畠親房は、9年前に最愛の長男顕家(1318~1338年)を足利軍との戦いで失っており、眼の黒いうちにどうしても足利に一矢報いたかったのでしょう。

吉水神社からの紅葉



楠木正行は、3千の手勢を引き連れて足利軍の主力高師直(6万)と四条畷で戦い、そこで自刃、勢いに乗った高師直は、それまで12年間も静観していた吉野の南朝を攻撃したのです。

四条畷にある楠木正行の墓所



北畠親房は、若い後村上天皇を補佐する南朝最高幹部でしたが、このとき無理に決戦を挑むことなく兵力を温存しておけば、次のチャンスがあったと思います。

四条畷にある楠木正行を祀る四条畷神社の鳥居



吉野山は、僅か15年の間に鎌倉、室町2つの幕府正規軍から兵火を受けたことになります。


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