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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大坂西町奉行所与力の内山彦次郎(1797~1864年)のことが「近世大坂地域の史的研究」(藪田貫氏)に載っていたので紹介したい。

1830年の与力町地図(浪華御役録)の内山家(上)と大塩平八郎家(下)



東西町奉行所にそれぞれ30騎(与力は、乗馬を許されていたので1騎と数える)とされた与力は、父親の在任中に子息が御用見習いとして出仕するので、内山彦次郎も17歳で与力の人生をスタートしている。

東町奉行所があった辺りを中之島公園から見る



その後当番となる役所の勤務を経て年功を積み、1837年の大塩平八郎の乱のときには41歳で三役上座という要職にあった。

天神橋から大川の下流を見る



内山は、大塩平八郎(1793~1837年)より4歳若い同時代の与力で、近所に住んでいた二人は面識もあったが、大塩と内山は犬猿の仲であったらしい。

1830年、諸御用調役(与力の最高ポスト)で辞職した大塩は、天保8年(1837年)の蜂起の際に内山の殺害を図っているが、内山は買米取り締まりのため西国に出張中であったために果たせていない。

天満与力町のあった造幣局



その内山は、大塩の乱の直後に呼び戻されて大塩逮捕チームの指揮を取り、40日後に大塩の潜伏先を突き止めて大塩を自爆死させている。

大塩最後の地の石碑



内山は、1839年諸御用調役見習に昇進、町奉行阿部遠江守正蔵に随行して老中水野忠邦と会い、幕府の御用金掛兼務となっているので、彼の行政能力は高く評価されていた。

1843年御用金掛兼務の内山は、大坂商人から御用金112万両を徴収し、幕府の税収を一挙に増やす豪腕ぶりを発揮している。

大商人、天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛合わせて十兵衛横町の石碑



そのため大坂商人からは相当恨まれていたようであるが、1855年には抜群の功績が認められ、譜代という大坂町与力には先例の無い身分にまで昇進したのである。

大商人三井呉服店の跡地に建つマンション



1861年には、幕府勘定格を拝命、町奉行所与力でありながら将軍家茂にお目見えまで果たしているが、強引に職務を取り捌き、大坂市中の商人は困っているという平野屋主人の恨みの日記が残っている。

内山彦次郎が暗殺された現在の天神橋



得意の絶頂にあった内山彦次郎は、1864年5月天神橋の上で何者かによって天下の奸賊として暗殺され最後を迎えるのであるが、その下手人は新撰組とも倒幕派浪士とも言われている。


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