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庶民のちょっとギャンブル日記
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2/18 つれづれ日記 一番競馬に燃えた年 (その1)

2005年02月18日 10時27分42秒 | 競馬
 昨日の日記で書いたようにこの年(1990年)は、私が生涯で一番燃えていた年であろう。競馬を覚えたばかりで、前年の1989年はかなり授業料をJRAに払っていた。
 元来、賭け事が好きで凝り性であることから、この年から競馬場に足を運び馬券の研究を始めていた。競馬場に足を運んだことが、訳のわからないケントク買い(松田優作が死んだからダイユウサクがきたとか)、数字のみで馬券を買うスピード指数(もちろんタイムは大事)とかに偏らない馬券を買うようになった。それまでは、新聞の印とコメントとタイムぐらいで決めていたが、レースそのものを見ることと馬を間近でみることの大事さが知ったのである。おかげでパドックでだまされたことも多々あるが。
 その年は、きら星のごとくすばらしい馬が集った年であった。競馬ブームになるのもうなずけるぐらいドラマがあったのもこの年である。

 まず、クラシックの最初は、桜花賞である。実は今でも牝馬のレースは馬券的には苦手であるが、このときも牝馬は河内でいこうとアグネスフローラから馬券を買っていた。そして、相手には芦毛の美しい馬で、ハイセイコーの子供にしては気品があったケリーバッグを指名した。実のところ、雑誌ナンバーの囲み記事をみて、応援したくなった部分があったのだが。結果は、アグネスフローラの完勝で終わった。このときからアグネスの馬券と河内馬券が大好きに下地が作られたのである。

 皐月賞 このときは、アイネスフウジンとメジロライアンで買っていた。結果は、ハクタイセイの南井がかった。ハイセイコー産駒ということで父のかわりにダービーを取れと言うような新聞記事が踊ったように記憶している。そして、オグリキャップ旋風と前述のケーリーバッグとなどの活躍から奇しくも芦毛の時代がきているとも言われた。馬券もハクタイセイと同枠にライアンがいてくれて当たったのである。

 天皇賞春 実は、このレースはほとんど見状態であった。それほど武豊騎手を好きでもなかったし、スパークリークも好きではなったので、レース自体の記憶もあまり無い。
 
 オークス 桜花賞と同じアグネスとケリーで勝負したが、牝馬の岸騎手のエイシンサニーにしてやられるのである。この後、エイシンの馬とは相性が悪くなってしまった。

 日本ダービー このときは、1ルームの部屋でTVの前に正座をしNHKの画面を食い入るように見ていた。一番人気は、メジロライアンで鞍上横山典である。実際の彼を知っている訳ではないが、このころのコメントが強きでとても生意気に聞こえた(声質も余りよくなかった)ので好きではなかった。そのため、アイネスフウジンの単勝馬券のみを買っていたのである。
 発走とともにアイネスフウジンは先頭に立つ、その逃げは華麗なる疾走なのか必死の逃走なのかわからない、明らかにスローではない玉砕的な逃げなのか画面ではわからない。しかし、4角でもその差は縮まらない大丈夫と思ったが東京の直線は、逃げ馬馬券を買っている人間にとっても長い長い直線と時間なのである。ゴール前後ろの馬がアイネスを捉えようと襲いかかる。しかし、アイネスフウジンはゴールを駆け抜けていた。
 テレビの前の私は、ほとんど放心状態で’勝った’と呟いていた。生涯で一番熱いダービーの単勝馬券を握りしめていた。今考えるとその単勝馬券は決して高い金額をかけていた訳ではなかったが、そのとき競馬につぎ込める最高金額を一頭の馬に託して勝ち得た勝利は、あれから十数年経っているがダービーではそのときの高揚感を味わっていない。

 続く

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