ふたたび長嶺ヤス子さんのこと 長嶺さんは踊りを通して もっとも伝えたいのはなにかという問いに「祈りです」と答えている。踊りも語りも歌ももともとは神に捧げられたもの...祈りなのだ。絵画も音楽も源流をたどれば宗教画や宗教音楽 また祭祀が起源であろう。
ひとは時代を超えてずっと祈りつづけてきた。最初は神の御名が誉めたたえられるよう また世界の言祝ぎを しだいに自分の幸福のみを。いま芸術といわれているものはもともと神への祈りであったし およそ芸にかかわるひとは その活動のさなかに大いなるものの実在を感知するはずだとわたしは思っている。
長嶺さんはこうも言っている。現代に生きるひとが生命の力を呼覚ますために必要なことは「自分自身を原点にかえってみつめなおすこと」であり大いなるものに生かされていることを知ることであると。
わたしの場合は 祈りははじめからあって その祈りをかたちにするひとつの道が語りだったように思う。語ることやHPやブログで語りとはなにか、生きる目的はなにか みつめなおすという作業のなかで考えを深くすることができたのならよいが...これは希望だが。自分のためと見えてそれは読んでくださる方がいてはじめてできたことである。そうして読んだ 感じた 思ったという時おりのたよりにどれだけ胸を熱くして 励まされてきたことか...ほんとうにありがとうございました。そのような日々のメモを読んでいただくのはすこし恥ずかしくもあり 書きたくも書けないこともあって歯がゆいこと多いのだが ここにきてくださる方々が確実に増えていることはありがたく 不思議な気がする。
PCを整理していたら むかし書いた日記がでてきた。最初のころのはこれしか残っていない。むかしから 書くことはそう変わってはいないのだった。
二十六の昼 (2003.01. 10) 痕跡
真夜中、 しろとよく遊んだ五稜公園でケヴィンを放した。まりのようにはじけて駆けてゆく。しばしたって、車に戻ったがケヴィンは落ちつかない様子でうろうろしている。自分の痕跡を残そうと必死なのだ。しろと違ってやっぱり雄である。人間も男は自分の生きた証を残そうとする。夫がダムや建物のまえで、「これオレがつくったんだよ」と嬉しくてしかたがないといった顔で話すのをよく聞いた。父も弟も自分の業績を誇る風があった。
わたしはカタチになるものは残したくはない。できることならなにも残したくない。ただ魂に痕跡を残せたら...と希う。みずみずしい子どもの魂に、美しいもの、大切なもの、生きることは意味があるということをカケラでいいから残せたら、本望である。早朝、小学校でおはなし会のあと、魂のこもった、まっすぐな、それでいて夢見るような瞳でみつめられることがある。...だからわたしは語り続ける。
十九の昼 (2002.12. 30) 標
どの方も「この一年、とくに夏が終ってからは速かった。目くるめくようだった」とおっしゃる。時間の感覚というのは不思議なもので、からだの大きさによって体感する速度が異なるようだ。からだの小さいものほど、時間はゆっくり進むから、ウスバカゲロウの一生も象の一生もそれぞれが感じる一生の長さはそう変わらないのかもしれない。しかし多くのひとがこの一年を速く感じたというのは終末へ向かって傾れ込んでいる予感をひとが感じ取っているのかもしれないとも思う。。
ひとの一生は、その死までが成熟への過程なのであろうし、文明もそうであろう。爛熟し終焉にむかうその過程は、新たなる生命の胎動とも重なる。ひとは輪廻転生を重ねてゆくと、わたしはある経験から固く信じている。だからわたしという生命の終わりは、新たな試みのはじまる兆しなのだ。文明にしても同じようにたとえひとつの文明が終ろうと、人類が滅亡しないかぎり、ひとはこの地にはびこり、大いなる試みを繰り返すことだろう。あたかもひとつの意志を持つごとくに。ひとりのひと、そしてその集積たる人類文明のこの連環は螺旋を描いて天に近づくのだろうか。すこしづつ誤りを糺し、偏頗を悟り、他者を食い尽くさぬものへ昇華してゆけるのだろうか。それともいくら試みても聖性を持ちえず、むなしく腐り果つるしかないのだろうか。
今年はわたしにとっても標となる年だった。表現について石を穿つ石工のように試みた。内在するエネルギーをどのようにあらわすか、どうやってこの伝えたい熱い衝動をカタチにするか、コントロールするか。考えつづけた。わたしはただ民話をそのまま語る語り手になりたいのではない。生と死を伝えたかった。命のよろこびを、死がけっして終わりではないことを伝えたかった。歌うことから学んだことは多かった。歌うことそのもの、声を出すことそれ自体が喜びであることをわたしは知った。からだとこころが感応し歓喜に震えるのをわたしは感じた。ことばとは音、文字ではない。波動が伝わる。イメージとは結果でなく頭で考えるものでなく、細胞のなかにすでに在るもの、それを一瞬にして波動として放出する。また演出という。しかしそのコントロールは敢えて頭脳でするものではない。場の力に委ねるだけでよいとは思わないが、作りすぎると感動を削ぐ。
芝居をしてわかったこともある。喝采はうれしいものだ。お客様を送るとき、目の輝きのなかに夢みるような魂を揺り動かされた名残を見るときの幸せ、そして仲間と一からつくりあげた喜びも。しかしながらあの感覚、わたしであってわたしでない、役の人間になるという意味合いだけでなく、もっと大きなものの懐にはいるという感じ、その意を伝えている赦されたやすらぎのようなものがある。もっと深く知りたいと思う。
物語もたくさん書いた。かっちゃんに励まされて「おさだおばちゃん」(レクイエムの1)と「青いガラス」(浦和物語の2)を書いたのは初夏だった。そして晩秋、検索から「由紀ちゃんの庭」に降り立った園江さんのメールは、「三角山の木の上の猫」、「なにかがついてくる」、「フランス窓から」(以上浦和物語)を書く後押しをしてくれた。「一本の樹」(レクイエムの4)はかっちゃんと妹が待っていてくれた。100人がよかったといってくれるものがたりはわたしには書けないだろう。そのうちのいくつかが、読んでくださる方の心に留まるのであればそれでよい。これからもぽつりぽつり書きつづけていきたい。
こうして歌や語りや芝居や物語をとおして、わたしは想いをかたちにして伝えてきたのだけれど、そのいわばハレの場だけでなく、日常のなかでこそ、それは必要なことなのだと気がついたのだ。朝、見知らぬひとへおはようございますと声をかけたり、店員さんにねぎらいをひとことつけくわえたり、こどもたちと語らったりすること。生きるってたいへんだけど、楽しいね、こうして会えて語って愛し合って日々を送れてしあわせだってことを日々のなかで、ことばとまなざしと笑顔でもって伝えてゆきたいと思うのだ。仮になにがが起きても、わたしの命が終るとしても 国が滅びるとしても ぎりぎりの暮らしであっても そんな風に生きてゆきたい。新しい年に........
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