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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   突然 鮮明な映像が脳裏に浮かぶ。今朝はパネル のりのついたパネルにうまく布が晴れなくて 皺になってしまうリアルな映像....それは実際に起こったことではなかった。きのう中野の帰り電車のなかで される牛の心象が飛び込んできた わたしは牛だった。少女時代のいつごろ 喪ってしまったのだろう....植物や動物や他のモノの感覚を肌とこころで感じるというあのセンス...喪ったというより自ら閉じてしまったのだろう。あんまり 苦しいから。

   すこしずつ甦ってきたのは 語るとき ひらく感覚にからだが馴れてきたのかもしれないし 語るときひらいた感覚をコントロールするすべをすこしずつ身につけることができるようになったからかもしれない。そしてたぶん強くもなったのだ。多くのものを受けとめられるほどに。


   語り手としての自分にイメージした道が月に照らされてどこまでも伸びてゆく。それとどうじにわたしがしたいのは わかいひとたちにひらくことを教えつたえてゆくこと。ひらくことは愛であり豊穣でありひとを知り受け入れ 目には見えない世界の秘密を知ることなのだ。しかし 制御されない力は やはらかなそれ自身の魂を傷つけてしまうことがある、だから わたしは コントロールする方法を伝えたり適切な導き手につなげる役目をしたいと思っている。

   歌うこと 語ること 絵をかくこと 演奏すること 演じること それらをとおしてひとはなにかにつながり自分を知り癒され 活き活きと歩き出す。まず 自分で もういちど体感しよう。それからはじめよう。自分の近くの場所で。





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    しあわせな時がながれる...余剰でもなく不足でもなくひたひたと岸辺に打ち寄せる波のおとが聞こえるような時間...これが賜物なのだ...自分を無にして語ったあとのごほうびのようなもの。たとえ喝采がなくとも なにものかがわたしのささやかな供物を受け取ってくださったあかし。無論 聞いてくださる方の目に見るたしかにうけとったというそれもふるえるような喜びであるが。

    きのうのおはなし会のあと あらためて思ったのは わたしは自分のなかから発することばで語る語り手であるということ  ほうすけのように雪女のように優れた作家、話者、再話者のテキストで語るのもいいが、本質はからだと魂の内奥からの血の通ったわたしだけのことばで語る語り手であるということだ。

    かたりはじめて 六年 まだまだ端緒についたばかりである。声の練磨、さまざまな声の音を駆使したりすることも 歌も楽器もまだまだである。だが 求めることは はっきりわかった。インプロビゼーション...風のように炎のように思うがままに ことばを生み出し いのちあるものがたりを歴史の深い谷間から また人類の無意識のわだつみの底から呼び起すこと...なんという夢 見果てぬ夢であろう でも その幻影のかけらを見てしまった。 もうひき返せない。

    このひとときのやすらぎはながくはつづくまい。またうずく痛みのようなあこがれのような衝動がわたしを捉えるであろう。そうして わたしを遥かに向けて 追い立てるであろう。



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