Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

今からカエルを食べますよ~

2008-07-31 | 子育て&自然の生き物
あっ、ごはんの時間だ


おっ、エサだ、エサだ。これはカエルだな。


パクッ。


むしゃ、むしゃ。

観衆「ぎょ~、何だこの凶悪そうな顔は!本性だ、本性だ!」


しれ~。う、う、うまかったもん。


ヒストリー・オブ・バイオレンス

2008-07-30 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/デビッド・クローネンバーグ
「暴力と平穏のボーダーラインは存在しない」



主演も同じヴィゴ・モーテンセン、テーマも同じ暴力。というわけで、新作「イースタン・プロミス」の前に予習観賞。

この「ヒストリー」と言うのは、歴史より履歴の意味が強いようですね。ある意味「歴史」と言うのは、いろんな解釈が可能であったり、歪曲して伝えることができるシロモノですが、「履歴」となるとそうはいかない、ということでしょう。暴力の権化みたいだったトムがいくら普通の生活を送ろうとしても、暴力の履歴は消えることがない。ただ、クローネンバーグは、トムと言う男をまるでジキルとハイドのように描いてはいないし、暴力と平穏を対立軸として描いてはいない。そこんところが、実に興味深いのです。

象徴的なのは、一番最初にマフィアが尋ねてきた時、「おまえらなんか知らない」というトムの反応。あれは、本当に知らないという反応に見える演出でした。私自身マフィアが人違いしているのかと、途中まで本気で思ってましたから。彼は巧みに2つの人格を使い分けしているわけでは決してない。どこからどこまでがトムで、どこからどこまでがジョーイなのか、というきちっとしたボーダーラインは存在しない。白から黒へのグラデーションのように、曖昧な部分が存在している。その曖昧の存在は、トムという男だけにあるのではなく、我々社会もそうであるということのように思えるのです。

かつては、危ないエリア、例えばニューヨークならブロンクス、といった具合に「ここから向こうへ行ってはいけない」というボーダーラインが存在しましたが、今は都会のど真ん中で、のほほんと電車に乗っていても、刃物で斬りつけられる。そんな時代を見事に映し出していると思います。いつもは臆病な息子が、銃をぶっぱなしてしまうことも。

面白いことに、鑑賞後初期の北野作品を思い出しました。にこやかないいお父ちゃんがふとしたことでビール瓶を振り回す凶暴性を見せたり、子どもの野球バットが凶器になったり。暴力と平穏は、北野作品でも決して表裏の関係ではなく、互いに溶け合って存在する曖昧さを見せています。北野作品の場合、あの独特の「間」によって、見る人を選んでしまいますが、クローネンバーグの場合は、すっかり円熟味も増して、奇才と呼ばれた頃の観る者を選ぶようなエログロな作風は、やや成りを潜めています。しかし、らしさが失われたと言うわけでは決してなく、還暦を過ぎても絶好調という感じです。

ジギー・スターダスト

2008-07-29 | 外国映画(さ行)
★★★☆ 1973年/イギリス映画 監督/D・A・ペネベイカー
「ここに宇宙人がいます」



「プレステージ」のボウイがあまりにステキだったもので、久しぶりに昔の彼を見てみたくなり観賞。ロックの殿堂と言われるロンドンのハマースミス・オデオンが会場ですが、ここ、YMOオタクの私としては、彼らの2度目のワールドツアー会場でもあり感慨深いものがあります。

私がボウイを知った時、既に彼は「ロックスター」ではなく「ポップスター」でした。ナイル・ロジャースがプロデュースした「レッツ・ダンス」が大ヒットし、日本でも行われたのが「シリアスムーンライト・ツアー」。当時16歳だった私もこのコンサートを観に行きましたが、あまりに妖艶で完璧にノックアウトされました。確か「チャイナ・ガール」の中盤のインスト部分でくるっと観客に背中を見せ、両腕で自分の体を抱きしめ、正面から見るとまるで女と抱き合っているかのように腰をくねらせ踊る。そのセクシーな後ろ姿は、今でもありありと思い出せます。

生のボウイを見て、いよいよこの人はただ者ではないと悟り、グラムロック時代まで彼を遡っていくことに。この作品のボウイは、そのロックスターを極めた最高潮の時のライブです。ひと目見て思いますよ。この人は人間じゃないって(笑)。まさに、宇宙人がここにいますって、感じ。「プレステージ」のボウイを見て、宇宙人みたいって思ったのは、この感覚が綿綿と私の中に残ってるからだなあ、と再確認。

奇抜な衣装も見どころの一つ。山本寛斎も衣装を提供していると聞いたことがありますが、んまあ、こんな衣装一体誰が着るの!ってなくらい、キテレツもキテレツ。トップはパフスリーブの真っ白なブラウス、なのにボトムはまるでふんどし!で、素足に真っ白な膝丈のロンドンブーツですからね。ぶっとびまくりです。宇宙人が歌う「スペース・オディティ」は、観る者を遙か宇宙の彼方へ誘います。まるで、ドラッグにやられたように、虚ろな目の女の子たち。そりゃ、そうでしょう。今まさに観客たちは、さながら宇宙空間を漂っているような感覚にどっぷり浸っているんですもの。日本にも、ビジュアル系バンドなんてものがありますが、やはり足下にも及びませんね。本当のスターとは、こういう人のことです。

ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間

2008-07-28 | 外国映画(た行)
★★★★ 1992年/アメリカ  監督/デヴィッド・リンチ
「ローラの弔い」




ビニールシートにくるまれていたローラは、あんなに美しく魅惑的だったのに、本作のローラは泣いてばかり、脅えてばかり。しかも、おばちゃんみたいに野暮ったいファッションセンス。ちっとも美人じゃないの。ごめんね、やっぱり死体のままでいてくれた方が良かった、なんて。また、ローラの親友、ドナをララ・フリン・ボイルが演じなかったのは、何とも残念。ヌードシーンがあったため、当時付き合っていたカイル・マクラクランが反対したのだろうか。テレビ版のドナとはイメージが違いすぎる。

確かに公開当時は喜び勇んで見に行った。ドラマシリーズでどこまで見ていたのか今となっては記憶がないが、もう一回確認したくて、納得したくて映画館に足を運んだような気がする。改めて見て、これは、ドラマシリーズでリタイアした人向きかも、と思う。ここをボーダーラインにすればいいのに、と以前語ったドラマシリーズのepisode16まで見終えて、この映画版を見るのが最もツイン・ピークスを堪能する方法と言えるかも知れない。というのも、やはりテレビシリーズ序盤の淫靡な世界観が圧倒的に映画版のそれを上回っているからだ。

しかし、悪の化身ボブに体も魂も乗っ取られたというのに、ローラは、天使に見守られて死んだ。その事実は、死後のローラが、安寧の地にいることを示唆している。つまり、リンチはローラを本作で成仏させたとは言えまいか。テレビシリーズで死体からスタートし、散々もてあそび、いたぶったローラという少女を、リンチはこの作品で無事天国、いやホワイトロッジに送り届けた。これは、ローラを弔うために撮られた作品かも知れない。


星になった少年

2008-07-27 | 日本映画(は行)
★★★ 2005年/日本 監督/河毛俊作
「音楽の力で泣かせる作品ではないはず」



当たり前だけど、音楽は映画にとって、とても重要な要素。だから、双方がしっかりと溶け合うように作品を仕上げるべきなのに、音楽が流れると急にボリュームがぐわ~んと上がって、「さあ、泣いてくださーい」とごり押しされる。本作は、音楽の力など借りなくても、話そのものが十分に感動的。これ見よがしに坂本龍一の音楽をかぶせる必要など全くないのに、なぜこうなってしまうのか。「世界の教授」に対する遠慮か、それとも盛り上げたい一心か。いずれにしても、この音楽の使い方は、物語がそもそも持っている吸引力を弱めているとしか思えない。それは、がんばって演技している俳優にとっても、作曲家にとっても、失礼な使い方ではなかろうか。

私は坂本ファンなので敢えて言うけど、彼の音楽は旋律がとても特徴的ゆえに、作品の中で音楽が一人歩きしてしまう。かなり神経質に扱わないと、作品のイメージごとごっそり持って行かれる、かなり取り扱い注意なシロモノだと思う。

そして、このような感動作をそれなりの完成度でもって仕上げる力が日本映画には、まだまだ足りないなあというのを痛感する。若くしてタイに渡り象の調教師を目指した少年が志し半ばであっけなく事故死してしまう、というプロット(しかも、実話)は、とても個性的だし、つまらない小細工などしなくても、確実に多くの人々の心を掴む作品になるはず。なのに、それができない。家族間の確執に迫っていないし、演出も凡庸。この素材を韓国へ持っていったら、きっと一定レベルの感動作に仕上げてくるような気がする。オーソドックスな物語をオーソドックスにきちんと仕上げる。そんな、映画を作る基礎体力がこの作品には欠けている。常盤貴子は母親には全く見えないし、高橋克美も存在感が薄すぎる。ミスキャストだと思います。物語をいちばん引っ張っているのは、象の存在。それが、せめてもの救いです。いい素材なのにとても残念な仕上がり。

狼よさらば

2008-07-26 | 外国映画(あ行)
★★★☆ 1974年/アメリカ 監督/マイケル・ウィナー
「ニューヨークの渇き」

「ブレイブ・ワン」と内容が酷似している、ということで観賞。

のっけからやたらとお洒落なジャズサウンドが流れる。音楽は誰かと思ったらハービー・ハンコックなんですよ。カッコいいわけだ。全編に渡ってこのジャジーでメロウなサウンドが心地よく、復讐劇としてのじめっとしたテイストを微塵も感じさせない。チャールズ・ブロンソンの作品を見たことがないとは言わないけれど、久しぶりのご対面。でも、私にはポールがあまりに硬派な男で、実のところ感情的な部分ではあまり入り込めなかった。強盗に妻を殺され、娘が植物状態になっても、あの落ち着きようって、どうなんでしょう。これって、やはり女性としての目線なんでしょうかね。

でも、ケリの付け方がすばらしいです。なるほど、社会とはそんなものだと皆が納得するようなエンディングです。本作も「ブレイブ・ワン」も共に同じ問題定義をしているわけですが、「ブレイブ・ワン」はそこに個人的な感情を介入させてしまった。そこが、賛否両論を起こしている最も大きな点だと思います。本作では、ポールの個人的な感情も、ポールを追いかける刑事の個人的な感情も、あまり大きなウェイトが占められていない。もしかしたら、ポールが妻の死を嘆き悲しみ、復讐に燃えるような感情的な描写を出してしまうと、観客は否応なしにポールの味方になってしまう。それを避けるために、あのような硬派な演出にしたのかも知れません。「ブレイブ・ワン」とは対照的にからっからに乾いた作品。でも、だからダメかというと、そうではなくて、このドライな感じが本作の持ち味のように感じられました。例のジャズサウンドもあって、ニューヨークという街そのものを見事に捉えた秀作だと思います。

ストロベリーショートケイクス

2008-07-25 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2006年/日本 監督/矢崎仁司
「愛しい彼女たち」



4人の女優、全員すばらしい演技を見せてくれるが、特に中村優子と岩瀬塔子、この2人の存在感が秀逸。原作者である魚喃キリコ氏(岩瀬塔子)がこれほどまでに、良い女優だとは知らなかった。彼女の嘔吐シーンは、身を切られるほどつらかった。漫画は何作か読んでいるが、ぜひ女優業も続けて欲しいと思わせるほど、輝いていた。

あまりにも振り幅が狭い4人の女たち。これほど選択肢の広がった現代において、なぜそんな生き方しかできないのか、と見ていてつらくなる。男や神様(拾った石)が生きていく拠り所である、ということ。情けないし、ナンセンス。でも、そんな彼女たちを馬鹿にすることなど到底できない。もはや自分の足で立つ意思をもがれた女たちは、自分ではどうしようもないその孤独を「誰か」によって埋めてもらいたいと願い続けることしかできないからだ。その姿に、「いつかあの時の自分」を重ねられずにはいられない。

あの時の自分をとうに過ぎた今の私なら、黙って彼女たちを抱きしめてあげられる。だから、たどたどしい日本語で語られる「あなたのお母さんは元気ですか?」というひと言に、みるみるちひろの表情が変わりゆくシークエンスが切なくてたまらない。ここは、淡々と続く作品全体に明るい光が差してくるような、冷たい氷が溶け出すような、そんな心地よい変化の兆しを見せるすばらしいシーンだと思う。みんな、おっきくて、あったかいものに抱きしめてもらいたいんだよ。

この作品を「女性向け映画」とくくってしまうのは、とても惜しい。確かに20代の女性特有の頼りなさや切なさ満載で、同年代の女性なら響くものは大きいだろう。しかし、現代女性が抱える孤独は、決して彼女たちだけのものではない。彼女たちを受け止められない、持てあましている男性の存在も表裏の関係として(作中には描かれなくとも)厳然と存在しているのだから。トイレでパンティをおろしたまま拾った石に見入る、それはいらないシーンだろうか。誕生日にどうでもいい男と寝て顔に精液をぶちまけられる、それは話題作りのシーンだろうか。そんなはずはない。それらのリアルな描写の向こうに見える切なさやつらさがぐいぐいと私の中に流れ込んできて、彼女たちが愛しくてたまらなくなった。

ヴォイス・オブ・ヘドウィグ

2008-07-24 | 外国映画(あ行)
★★★★ 2006年/アメリカ 監督/キャサリン・リントン
「シンディの歌声に涙が止まらない」



トランスジェンダー(性同一性障害を持つ人)の青少年の学校「ハーヴェイ・ミルク・ハイスクール」のためのチャリティー・プロジェクトを追ったドキュメンタリー。ジョン・キャメロン・ミッチェル監督と、オノ・ヨーコら個性派ミュージシャンたちによる『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のトリビュートアルバム制作の模様を、4人の生徒たちのエピソードと絡めて映し出す。

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本作は、2つのドキュメンタリー作品が同時並行で描かれてゆく。一つは、有名ミュージシャンに参加を依頼し、トリビュートアルバムを完成させるまでのドキュメント。もう一つは、ハーヴェイ・ミルク・ハイスクールに通学する4人の高校生の日常を追うドキュメント。2つのドキュメントが同時に存在しているので、正直それぞれ深掘りができずに中途半端な感じもしていた。ところが、終盤。シンディ・ローパーの歌う「Midnight Radio」で、涙腺が決壊。4人の高校生が人生の新たな一歩を踏み出すその様子とシンディの圧倒的な歌唱力を引き出すレコーディング風景、2つのドキュメントがここで見事に合致して、大きなうねりを起こす。版権の問題だろうか。シンディの姿が映像に映っていないのがとても残念なのだが、それでもこの歌声は必見ならぬ必聴。1人でも多くの人に彼女の歌う「Midnight Radio」を聴いて欲しい。

また、「Midnight Radio」に限ったことではなく、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」それぞれの楽曲の素晴らしさを改めて実感する。性同一性障害の若者たちを救うチャリティー活動である、と言う前に、一つひとつの楽曲がミュージシャンたちに歌いたいと思わせる魅力を持っていることが、参加の決め手となったのは間違いないと思う。

「ヘドウィグ」の製作者たちも、ハーヴェイ・ミルク校の関係者も、共に若者たちの側に付いている、いわば味方たちばかりである。なので、当たり前だが映画は最初から一貫して彼らに寄り添って描かれてゆく。だからこそ、ラストシーン、校門前に立ちはだかる公立化反対派の出現が、浮き足だった私の心を現実に引き戻す。このきりりとした痛み、それもまたアメリカの現実であるがゆえに、多くの人に本作を見て欲しいと願う。

SEX and the CITY シーズン5

2008-07-23 | TVドラマ(海外)
「センチメンタルな助走」


<vol.1>
いつも4人は一緒。いつだって、仲良し。いざと言う時はすぐに集まりあえる仲間。そんな友だち幻想に裏切られていくキャリーを描く第3話が秀逸。

女の友情に変化が訪れる時。それは、紛れもなく友人の出産だろう。意外と結婚は大したことがない。ミランダが子どもを産んだあたりから、4人のメンバーがそれぞれの道を歩き始める。何をするのも一緒では、なくなっていく。

独身の人は、キャリーに自分を重ねる。友だちが出産して、何か確かなものを得たような姿に嫉妬や羨望を感じたり、逆に、シングルとしての自由な身分に優越を感じたり。出産経験のある人は、ミランダに自分を重ねる。自分1人が老け込んだような気分に陥ったり、逆にかけがえのない宝物を得た気分に酔いしれたり。

離婚して新たな道を探し始めるシャーロット、初めて愛した男リチャードにケリをつけるサマンサなど、みんながそれぞれ「自分の人生」を生き始める。それは、とてもすばらしいことなんだけど、ただ仲良し4人組でキャーキャー騒いでいた頃はもう二度と帰ってこない。その現実が、とってもセンチメンタルな気分にさせるのです。

でも、この1人ひとりの物語が、今後味わい深くなるに連れ、再びもうワンランクアップした大人の友情物語が生まれてゆく。このシーズン5は、そのための助走と言えるのではないでしょうか。



<vol.2>
キャリーの恋の新しいお相手、バーガー。この人、すごくヒゲが濃くって全然私の好みじゃない。しかも「He's cute!」って、あのヒゲ剃り跡のどこがキュートなんだ!?キャリーって、一目惚れが多いんだけど、ホントに一貫性がない。まあ、なんだかんだ言って、このドラマの主人公だけに、脚本上いろんなタイプの男と付き合わされる設定になっているのでしょう。というわけで、今回は同業者と付き合わされるハメになったかわいそうなキャリー。物書き同士なんて互いの仕事内容に介入すればするほど、こじれるのは必至だね。

育児で追い詰められているミランダ。働きマンのツッパリが裏目に出て、何でも自分で背負い込もうとしてる。このあたり、本当に身につまされるなあ。自分のことを思い出しちゃう。私は、産後3ヶ月で仕事に復帰したんだけど、出張先まで子どもを連れて行って、休み時間におっぱい吸わせてた。仕事中も母乳のせいで胸が痛くなって、乳腺炎になって。「アタシ一体なにやってるんだろう」って虚しく思う時もあったっけ。私には本当に良くサポートしてくれる夫がいたけど、ミランダの場合、スティーブがいるとは言え、交代交代。それでも「一緒に住もう」って言わないミランダの強靱な精神力には恐れ入ります。同じアパートの奥さんが見かねてベビーチェアを持ってきてくれるくだりには、不覚にも涙してしまった。ミランダ、がんばれ~。

そして、シャーロットは全くターゲット外なツルピカおデブちゃん、ハリーとベッドイン。一緒にいる時、面と向かってボロカスに言ってるんだけど、相手の男に対してこんなに率直でいられるシャーロットって今までないんじゃいないの?しかも、それに対して怒ったりしないで、上手に受け流してるし。やっぱ、男は器の大きいのがいいよ。美女と野獣コンビの行く末が、いちばん気になる!

告発のとき

2008-07-22 | 外国映画(か行)
★★★★ 2008年/アメリカ 監督/ポール・ハギス
<TOHOシネマズ二条にて観賞>

「見応え十分。しかし、どうしようもない寂しさがよぎる」

戦争は、どんな人の心も悪魔に変えてしまう、というお話。誰が悪いと槍玉に挙げるわけでもなく、戦争の恐ろしさ、やるせなさをじっくりと見せる。そんなポール・ハギスの語り口の巧さに酔いしれました。

イラクから帰還した息子が我が家に帰ってこない。彼の行方を追ううちに、物語はサスペンス的な展開へと変貌する。犯人は誰かという謎、少しずつ顕わになる父の知らない息子の姿、そして、イラク戦場での恐ろしい現実。複数の物語が、それぞれ真実の姿を徐々に見せ始める。それぞれが重層的に絡み合いながら、実に奥深い作品に仕上がっている。あくまでも訴えかけるのは、個の心情で、国家や政府などと言うおためごかしなモチーフは一切登場しない。観賞後はずしんと心に響いてきました。

息子の壊れた携帯電話の修理を業者に依頼する父親。以来、父親のPCに修復した動画が少しずつ送られてくる。そのシーンが、真相究明の間にインサートされるのですが、これが非常にスリリングで効果的でした。息子の誠実さを信じて止まない父親。しかし、送られてくる戦場の動画は目を背けたくなるようなものばかり。息子に一体何があったのか。父親の気持ちを考えると本当につらくなります。しかし、この父親はあくまでも寡黙で何事にも動じない。多くを語らないトミー・リー・ジョーンズの演技がとても良かった。

物語の構成や語り口の饒舌さなど、ひとつの作品としてはとてもクオリティが高く、最後まで緊迫感を持って見られる一級品だと思います。ただ、ひとつ個人的に腑に落ちないことがあります。それは、母性の欠落です。この作品は、トミー・リー演じるハンク、つまり「父親」の背中を通して見せるということに徹しています。それは、作品の軸がぶれていない、ということにおいては、当たり前なのかも知れません。しかし、息子が行方不明だと言うのに、妻は家にひとりぼっち。まるで蚊帳の外です。戦争なんて、ない方がいいに決まっているのです。その未来を語る時に「母性」は欠かせないテーマだと私は思っています。また、刑事役のシャーリーズ・セロンは、シングルマザーと言う設定です。母親ひとりだけで息子を育てる、そんな彼女の後ろ姿に何かメッセージが隠されているのではないかとも期待したのですが、何も掴めませんでした。だから、なおさら寂しい、とても寂しいエンディングに感じられたのです。

女王蜂

2008-07-21 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1978年/日本 監督/市川崑
「全てを物語る岸恵子の目」



さて、初期の市川+石川版は「犬神家の一族」「悪魔の手毬歌」「獄門島」で三部作的な印象が強いため、この「女王蜂」という作品の評価は一般的に低いような気がします。もともとこの作品が期待薄だったのは、当時資生堂CMとタイアップしていたこと(加藤武は「口紅にミステリーか~」とわざわざキャッチコピーを言わせられてた)と、紅葉まぶしい京都の野点のシーンが豪華女優陣大集合ってな感じで宣伝によく使われていたことが原因だと思います。資生堂&京都の艶やかなお茶会は、いつものどろどろ怨念うずまく横溝世界とは、ちょっとイメージ違いすぎますから。

でも改めて見直すと、とても面白くて、前3作に負けない出来映えに驚きました。ちょっとこの作品を過小評価していたな、と深く反省。

まず、オープニングのスピーディな展開が観る者を一気に引き込みます。昭和7年のひとりの女とふたりの学生の出会い。そして3ヶ月後の惨劇。そして、その惨劇の謎を残したまま、昭和27年のテロップが流れたらいきなり時計塔の惨殺死体。のっけから過去と現在の殺人事件が立て続けに起きて、ドキドキします。その後も前作までの犯人役の女優が次々と登場し、サスペンスとしても十分楽しめる。ここで悲劇のヒロイン、中井貴恵の演技力がもう少しあったならと思うのですが…

と、前置きが長くなりましたが、何と言っても素晴らしいのは、岸恵子の「目の演技」。彼女の目の演技が、中井貴恵のつたなさや、資生堂とのタイアップやら興ざめする部分を帳消しにしてくれます。男を誘う妖しい目、男を疑う哀しい目、報われない愛を知る寂しい目。見つめたり、下から見上げたり、驚いたりとまあ、実に様々な美しい目の表情を見せてくれます。これは演技が上手いという範疇のものではない気がするなぁ。かといって天性のもの、というのでもない。彼女が人生において築いてきたものが全て目に出ている、としか言いようがありません。

彼女の目が語り続けるからこそ、最後の悲しい決断が共感を誘う。彼女に思いを馳せて金田一が汽車で編み物をするラストシーンが余韻を放つ。さすが市川崑監督。岸恵子と言う女優を知り尽くしていると痛感しました。


スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー

2008-07-20 | 外国映画(さ行)
★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/シドニー・ポラック
「ドキュメンタリーはファンや友人が撮らない方がいい」


フランク・O・ゲイリー。日本では神戸のフィッシュダンス・ホールが有名ですが、やはり何と言ってもスペインのビルバオに建てられたグッゲンハイム美術館が最も旬でしょう。この建築ができたおかげで、もし私が次回スペインに行くのなら絶対に訪れてみたい場所となりました。映画の中でも、このグッゲンハイム美術館の圧倒的な存在感は格別。建築は詳しくないと言うシドニー・ポラックですが、フランク・O・ゲイリーお得意の金属壁面に映り込む樹木や人々の陰影が美しく撮影されています。

でも、建築物こそ主役だと思ってみれば、カタログ的に主な作品を見られてそれなりに満足できるでしょうが、私は少し物足りなさを感じました。それは、何よりシドニー・ポラックが、フランクの友人であるからではないかと思います。やはり、人物ドキュメンタリー作品というのは、迫るべき人に対して、客観的なスタンスでないと面白くならない。もっと引いた目で描かないと。あまりに個性的な彼の作品を否定的に捉える批評家もいるのですが、そこんところ突っ込みが甘いな、と思いました。それは、友人だから突っ込めないのでしょうし、建築に詳しくないから突っ込めない。

事務所の様子が克明に映されているのは、なかなか興味深いものがあります。これだけのでかいプロジェクトを手がける巨匠の設計事務所とは、どのようなスペースで、どのように仕事が進められているのか、建築に興味のある人ならばその雰囲気を十分味わえます。しかし、一方その内実を知ると、確かに初期デザインは彼の発想であってもその後のプロセスは、ある意味流れ作業。事務所のスタッフが専門的に各工程を請け負う。もちろん、それは頭では分かっているのですが、やはり観る側はクリエイターがモノを作り出す苦しみや喜びを見たいと期待してしまいます。「才能は病気だ。治ることのない不治の病だ」と語り合う場面が実に印象的。どうせなら、友人と言うスタンスを存分に活かして、この手の話をもっともっと引き出しても良かった。どの視点でフランク・O・ゲイリーを捉えるのか、中途半端になってしまったのが残念です。

マグノリア

2008-07-19 | 外国映画(ま行)
★★★★★ 1999年/アメリカ 監督/ポール・トーマス・アンダーソン
「生きることの本質を強烈な語り口で見せる傑作」



189分と言う長尺ですけど、何度見ても飽きません。傑作です。それぞれのエピソードは、川の支流のように途中で合流したり、離れたりを繰り返しながら、死や別れの予感に向かって突っ走っていく。この独特のドライブ感を生み出すのが、P・T・アンダーソン監督は実に巧い。音楽やカメラ、エピソードのつなぎ方がとてもリズミカルで、観る者を飽きさせない。前作の「ブギーナイツ」同様、最初の1時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまいます。忘れないうちに言っておきますが、エイミー・マンの音楽がすばらしいです。

本当にヘンな奴ばっかり出てきますが、このキャラクターを考えるセンスには脱帽します。そしてこの特異なキャラクターをそれぞれの俳優陣が精魂込めて演じている。俳優陣全てに主演俳優賞をあげたいくらいです。ジュリアン・ムーアもフィリップ・S・ホフマンもいいのですが、何と言ってもトム・クルーズでしょう。これ以上のトム・クルーズを私は観たことがありません。男根教とも呼ぶべきイカサマSEX宗教のカリスマですが、そのイカれっぷりは圧巻です。

そして、スラング大会のように実に下品な言葉が次から次へと出てくる。罵ったり、蔑んだり、英語に精通した上品な方なら、耳を塞ぎたくなるような口汚さですね。ジュリアン・ムーアのセリフの90%はFUCKとSHITで成り立っているんではないかというくらい。でも、この俗悪さこそ、P・T・アンダーソンの強烈なオリジナリティであり、かつこの作品を傑作たらしめているものの一つだと私は思っているんです。

これらの汚いセリフは、彼らが地面を這いつくばって生きる、生き様そのものであり、魂の叫びのように聞こえます。どんなに下品であろうと、心の底から絞り出される悲痛な叫びであるからこそ、彼らは救われる。あまりにも、奇想天外な奇跡によって。初めてこの作品を見たときは、この唐突に起きる奇跡に声をあげて驚いたのですが、なぜかすんなり受け入れられたんですね。その腑に落ちるための伏線は、冒頭幾つかのエピソードで張られているのですが、それ以上に人間は「人生というものは何が起きるか分からない」と直観的に理解できているからだと感じられてなりません。己のどうしようもない所で、人間は生かされているのだ、という哲学的な見地から眺めたくなる作品。しかもそれが俗悪極まりない人物たちによって、創り上げられている。のたうち回って生きる彼らこそ、人間として最も美しく尊い存在に見えるのです。

フクロウをひろった…

2008-07-18 | 子育て&自然の生き物
3日ほど前に近所の子供たちが、弱ったフクロウの雛を見つけた。
どうやら羽をケガしているらしい。
「おっちゃん、何とかして~」
子どもたちから完全に「ダチ」と思われている相方が
つい引き受けてしまったようです。

「ようです」って言うのは、その日は私が外出していたため。
帰ったら縁側に見たこともない動物がいるのでびっくりした。

調べるとこれは、アオバズクとかそういう種類みたい。
雛なので、ネットで調べてもよくわからない。

私「とりあえずエサは何をあげるの?」
夫「昆虫とかカエルやろ。冷凍ネズミってのもあるみたい」

勘弁…

あのね、自然のフクロウは保護するのは禁止されているらしい。
でも、動くに動けぬ状態で見放すわけにもいかない。

そして3日ほど経過。
割りばしで、バッタやコオロギ、小さい蛙などを食べています。


この箸であげる、という行為が相方いわく、とても楽しいんだそうだ。
でも、元気になったら山に帰してあげないと。
渡り鳥だから、冬は東南アジアで過ごすらしいです。
さて、さて、どうなることやら。



ブラック・スネーク・モーン

2008-07-17 | 外国映画(は行)
★★★★ 2006年/アメリカ 監督/クレイグ・ブリュワー
「オンナの私でもパンツに釘付け」



これは、面白かった。すごいカッコイイショットの連続で。冒頭のトレーラーに中指立てるクリスティーナ・リッチとか鎖を巻き付けてソファで眠る姿とか。あんまり見た目がカッコ良すぎるもんだから、中身の方、つまり物語で言うとラザラスとレイ、ふたりの関係性に、もうひとひねり、ふたひねりあればなあ、と言う欲も出てくるのよね。「エクソシスト」の少女と神父みたいにさ、もっとラザラスを愚弄して、誘惑するレイでも良かったんじゃないの、なんて。

それに、まるで猛獣をつなぐような鎖を出してくるもんだから、監禁にまつわる物語性よりも、むしろ華奢なクリスティーナ・リッチが黒人のオッサンに太い鎖でしばられている絵を撮りたいという意思の方が強いのかも、なんて穿った見方をしてしまうんだけど、サミュエル・L・ジャクソンとクリスティーナ・リッチ。この二人の演技がそんな疑念を吹っ飛ばしてしまう。

特にクリスティーナ・リッチ。前半、ほとんどパンティー一枚。これぞ、女優ですよ。あの小さい体で男たちに弄ばれる描写が痛々しいのなんの。まるで、ボロぞうきんのよう。でも、演技は実に堂々としていてすばらしい。この延々パンツ一丁(しかも白いパンティーだぞ)には、作り手の明らかな狙いがあるはず。でも、それがどうだって言うのよ、と言わんばかりに目の玉ひん向いて迫ってきます。日本の若手女優陣は、これを見なさい!と言いたい。サミュエル・L・ジャクソンの老けっぷりも驚きました。「パルプ・フィクション」の颯爽とした男っぷりはどこへやら。白いランニングでトラクターを運転する姿がハマリすぎなほど。そんな、やつれ男のブルースっつーのも、なかなか女心に響きます。もがきながらも前向きに生きる底辺の人たちの交流をじめじめした演出ではなく、あくまでもクールに見せる。ハリウッド映画ではなくアメリカ映画を見た!という気分になりました。