てきたんですか? 一度は逃げたのに――」
それから、邇々芸の視線の先はゆっくりと下へ降りていく。擦り傷だらけになった狭霧の細腕や、膝から下があらわになった素脚や、引っかき傷や、葉の染みがついて黒ずんだ衣装など――。狭霧の姿をたしかめると、邇々芸は小さく肩で息をした。
「こんなに汚れて――大和の衣装でよかったら、すぐに替えを用意できますよ?」
「いいえ、身なりなんか――」
「そうかな? 大和の衣装も、きっとあなたに似合うと思いますよ」
困ったものに呆れるように、邇々芸は苦笑する。それから、ゆっくりと狭霧へ歩み寄ると、「失礼……」と声をかけて、触れる許しを請った。
恭しく伸びた邇々芸の指先は、帯にねじ込まれていた狭霧の裳の裾を引き出してみせた。http://www.cbbak.com
つややかな絹布で仕立てられた裳は、足首までふわりと落ち、もとの形を取り戻す。邇々芸は狭霧を、土いじりをする農婦のような格好から姫君の姿へ、手ずから戻そうとした。
その悠長な手つきを、邇々芸の背後に立つ穂耳が咎めた。
「邇々芸様――」
「わかっている。――支度をさせろ。たぶん事実だ」
「は」
短くやり取りを済ませると、命令を受けた穂耳は、さっと身を翻して邇々芸のそばを離れていく。向かう先はおそらく、港。そこで、浜里を離れる手はずを整えにいくのだ。
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穂耳の後姿を見届けると、狭霧はほっと胸をなでおろした。
狭霧たちがいる場所は海から離れた高台だったが、潮騒がそこまで響き渡るほど、あたりはとても静かだった。それは、まだ夜が明けていないからだ。草樹も、虫も、風も、じっと息を潜めているように静かだった。
朝の光は、まだここに届いていない。夜明けとともに攻め入ると高比古は狭霧へいったが、出雲軍がやってくる気配はまだなかった。
(間に合ったんだ――。邇々芸様たちは逃げ延びることができる……)
一度消えてしまえば二度ともとには戻らない大切なものを、今度こそは守ることができた。よかった――。
消えゆく穂耳の後姿を見送っていると、狭霧の目には涙が浮かんだ。そして、目尻の涙をそっと指でふく。
狭霧を見下ろして、邇々芸は眉をひそめていた。一度邇々芸は、わからない……といいたげに首を横に振り、それから、ため息をついた。それは、まだ見ぬ敵に感嘆するようだった。
「尋ねてもいいですか? いったいあなたは、どうやって襲撃を知ったんですか?」
(どうやって?)
狭霧は、答えに困った。それは、遠く離れた場所にいるはずの高比古が、彼に備わる霊威を使って狭霧に話したからだが――そのことをどう伝えればいいのか、わからなかった。
「この浜里のそばまで、窺見(うかみ)が忍び寄っていたわけでもないでしょう? だったら、あなたがここへ戻るのは難しかったはずだ。その窺見は、あなたを手放すまいと守るだろうから。ということは、ここに出雲の兵は来なかった。と、すると――? ……聞いたことがあります。出雲の禰宜(ねぎ)は事代(ことしろ)と呼ばれて、ほかの国の禰宜とは少し違った霊威をもつのだと――。あなたにここを襲撃することを伝えたのは、事代という名の術者でしょうか?」
狭霧は表情をこわばらせた。無言でいる狭霧に、邇々芸はやはり苦笑した。
「僕が聞いた噂は、事実だったようだ。――もう一つ訊いてもいいでしょうか? 出雲軍はどこから来ますか? 海から、川から? 僕たちはどう逃げるべきかを知りたいのですが」
「――それは、川です。さっき、遠賀の大河を下っていると……」
「川――ふん……」
邇々芸は、さも嫌気がさすといわんばかりに狭霧に横顔を向けた。それから、いま称
それから、邇々芸の視線の先はゆっくりと下へ降りていく。擦り傷だらけになった狭霧の細腕や、膝から下があらわになった素脚や、引っかき傷や、葉の染みがついて黒ずんだ衣装など――。狭霧の姿をたしかめると、邇々芸は小さく肩で息をした。
「こんなに汚れて――大和の衣装でよかったら、すぐに替えを用意できますよ?」
「いいえ、身なりなんか――」
「そうかな? 大和の衣装も、きっとあなたに似合うと思いますよ」
困ったものに呆れるように、邇々芸は苦笑する。それから、ゆっくりと狭霧へ歩み寄ると、「失礼……」と声をかけて、触れる許しを請った。
恭しく伸びた邇々芸の指先は、帯にねじ込まれていた狭霧の裳の裾を引き出してみせた。http://www.cbbak.com
つややかな絹布で仕立てられた裳は、足首までふわりと落ち、もとの形を取り戻す。邇々芸は狭霧を、土いじりをする農婦のような格好から姫君の姿へ、手ずから戻そうとした。
その悠長な手つきを、邇々芸の背後に立つ穂耳が咎めた。
「邇々芸様――」
「わかっている。――支度をさせろ。たぶん事実だ」
「は」
短くやり取りを済ませると、命令を受けた穂耳は、さっと身を翻して邇々芸のそばを離れていく。向かう先はおそらく、港。そこで、浜里を離れる手はずを整えにいくのだ。
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穂耳の後姿を見届けると、狭霧はほっと胸をなでおろした。
狭霧たちがいる場所は海から離れた高台だったが、潮騒がそこまで響き渡るほど、あたりはとても静かだった。それは、まだ夜が明けていないからだ。草樹も、虫も、風も、じっと息を潜めているように静かだった。
朝の光は、まだここに届いていない。夜明けとともに攻め入ると高比古は狭霧へいったが、出雲軍がやってくる気配はまだなかった。
(間に合ったんだ――。邇々芸様たちは逃げ延びることができる……)
一度消えてしまえば二度ともとには戻らない大切なものを、今度こそは守ることができた。よかった――。
消えゆく穂耳の後姿を見送っていると、狭霧の目には涙が浮かんだ。そして、目尻の涙をそっと指でふく。
狭霧を見下ろして、邇々芸は眉をひそめていた。一度邇々芸は、わからない……といいたげに首を横に振り、それから、ため息をついた。それは、まだ見ぬ敵に感嘆するようだった。
「尋ねてもいいですか? いったいあなたは、どうやって襲撃を知ったんですか?」
(どうやって?)
狭霧は、答えに困った。それは、遠く離れた場所にいるはずの高比古が、彼に備わる霊威を使って狭霧に話したからだが――そのことをどう伝えればいいのか、わからなかった。
「この浜里のそばまで、窺見(うかみ)が忍び寄っていたわけでもないでしょう? だったら、あなたがここへ戻るのは難しかったはずだ。その窺見は、あなたを手放すまいと守るだろうから。ということは、ここに出雲の兵は来なかった。と、すると――? ……聞いたことがあります。出雲の禰宜(ねぎ)は事代(ことしろ)と呼ばれて、ほかの国の禰宜とは少し違った霊威をもつのだと――。あなたにここを襲撃することを伝えたのは、事代という名の術者でしょうか?」
狭霧は表情をこわばらせた。無言でいる狭霧に、邇々芸はやはり苦笑した。
「僕が聞いた噂は、事実だったようだ。――もう一つ訊いてもいいでしょうか? 出雲軍はどこから来ますか? 海から、川から? 僕たちはどう逃げるべきかを知りたいのですが」
「――それは、川です。さっき、遠賀の大河を下っていると……」
「川――ふん……」
邇々芸は、さも嫌気がさすといわんばかりに狭霧に横顔を向けた。それから、いま称