言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『リズムの哲学ノート』を読む

2018年05月28日 16時46分05秒 | 本と雑誌
リズムの哲学ノート (単行本)
山崎 正和
中央公論新社

 山崎正和の作である。

 哲学書でありながら、とても味はひのある文章で、本当に読むことが幸せな時間をつれてきてくれる貴重な書であつた。

 病魔に襲はれて山崎の書き下ろしの最後の書になるかもしれないが、これほどの充実した内容を今後も期待したくなる。私にとつてはその社会的発言をめぐつてはアンビヴァレントな気分に引き裂かれる山崎であるが、得がたい文章家であることに変はりない。いい文章が心を鍛へてくれる。思考の運動を導いてくれる。現存する文章家のなかで、さういふ体験をさせてくれるのは誰かと言へば山崎に指を屈する。

 リズムといふこの不思議な「動き」。従来の哲学の対象は静止したものだつた。「運動は安定するまでの仮の姿とされた」からである。わづかにベルグソンなど生の哲学やクラーゲスの『リズムの本質』があるだけである。

 「動き」を哲学の対象にするとどういふことになるのか。

 自我といふものも、個人といふものも、静止したものではなく関係の中に揺らいでゐるものとなる。近代といふものが自我や主体性といふものを尊重したが、それも怪しいといふことになる。こんな印象的な言葉がある。

「個人があるときなぜ練習の必要を思い立ち、練習の開始を『決意』するのかをも説明する。正確にいえばこの『決意』という表現が常識の通弊なのであって、後にすべての行動について詳述するように、厳密にはおよそ人が意識的に自ら行動を開始することはありえない。常識も半ばこの真相に気づいているらしく、日常用語でもあらゆる行動の動機について、『する気になる』と言い習わしている。練習も当然、人が『する気になって』始まるものであり、個人と共同体のリズムが共鳴し輻輳しあい、新しいリズム単位をつくるべく身体を駆り立てたときに始まるというべきだろう。」(112頁)

 かういふ言葉にしばし立ち止まり、考へ、味はひ、喜びが湧き上がる。かつて『近代の擁護』を書きながら、その地平を自ら崩しながら、その上にもう一つ新たな位相を見出さうとしてゐるやうである。

 上の文章にも象徴的だが、「常識」への挑戦が本書の眼目でもあつた。そのことについては228頁の「哲学と常識にたいする『私』の登場」に詳しい。全文を引用したくなるほど、知的な興奮に満たされてゐるが、それは是非とも書店で読むか、買つて椅上で熟読されたい。

 かつて世阿弥を論じて「序破急」をすくひ上げ、西洋の庭の噴水と日本の庭の鹿おどしとを比較して「水の東西」を論じた山崎は、ここでも序破急と鹿おどしの運動構造に注目する。流動と拍節といふ二つの次元がひとつの「動き」に存在する姿こそ人間の本質であり、リズムの属性である。

 この哲学的な収穫は、きつと今後の社会論にも波及していくだらう。そのことを山崎に求めることはできないかもしれないが、その思考の後継者は、きつと出てくるに違ひない。

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