言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

芦田宏直先生との哲学、教育談義

2018年12月13日 21時33分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論
芦田宏直
ロゼッタストーン

 

  今となつては、当地に来て唯一の楽しみとなつてゐるのが芦田先生との談義である。昨日の晩に近くのホテルに宿泊してゐるとフェイスブックにあつたので今朝メールすると1時間半ほど空いてゐるとのことで、その時間に合はせて大学に伺つた。

  いつも一方的に話を伺ふばかりなので、今日は先手を取つて、「今日は伺ひたいことが二つあります。一つは機能主義の問題点。もう一つは近代人が作り出したものは近代的概念が保証するわけで、それは再帰的であつて相対主義に陥つてしまふといふことについて。」

  堰を切つたやうに話が始まつた。入力と出力とに一定の傾向性があれば、そのブラックボックスの中身が分からずとも同一のものとするのが機能主義。今日のAIの分析など、入力と出力だけで考へるから、まるつきり機能主義である。教育はその機能主義的要素が強い。試験などは出力に基づいて評価するのだから機能主義的である。ところがである。同じ問題を東大生が出来、その他の学生が出来なかつたとする。それだけなら機能主義はちやんと機能してゐて、東大生とそれ以外の学生とを識別できたといふことになる。ところが、中卒の人が出来たとする。出力は同じだからその人を東大生と認めるかといふとそれはしない。存在の属性を尊重する考へを本質主義と言ふが、教育にはさういふ側面もある。それをメリトクラシーと呼んでゐる。機能主義には自づと限界がある。

  そこから天皇の機能主義と本質主義の両義的問題につながり、カント、ヘーゲル、ハイデガー、デリダ、ガダマーと話は広がり、最後はシラバスとカリキュラムの話に着地して、約束の時間を20分もオーバーしてしまつた。実に面白く興奮した時間であつた。

  新著を早く出してくださいとお願ひしてお別れした。

  何だか天から恵みをいただいた気分である。勉強して学恩に報はねばと感じてゐる。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-12-17 09:05:35
知的な興奮のおすそわけありがとうございます。
その会話を横で聞いていたかった。。。
またシェアして下さい。
文章を追加。 (logos6516)
2018-12-17 09:27:41
コメントありがたうございました。本文に少し追加しました。自分の文章は読むたびに飛躍があることに気づきます。コメントがあると、つい自分の文章を読み直すことになりますが、それがなければ、放置したまま。コメントをお寄せいただくことが有難い理由です。

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