言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「歴史と人間」4(最終回)

2018年04月12日 22時42分20秒 | 日記

承前

 

 矢内原は、講演の最後に「歴史を創る人間とはいかなる存在か」について語る。

「吉田松陰についても、今日に於て松陰の思想は斯うである、松下村塾は斯うであつたと言つて世人は尊敬し賞賛しますけれども、松陰の松陰たる点は、彼が時代に於て容れられなかつたにも拘らず、自分の信念は天地神明に対して背かざるものであるから、どんなに世間の人が自分を容れなくても、排斥しても、自分は正しい松陰の守つて居る道が正しい、その深淵があつたが故に彼はあのやうな生涯を送つて、莞爾として獄吏の刃に消えることが出来た。さういふ所に彼の偉さがある。(中略)今日は日本民族が大きな民族的使命を負担し、それを自覚して行かなければならない時であります。さういふ時代に際会しまして真に必要なのものは、真理を守つて一歩も退かない、さういふ人間が必要だと思ひます。」

 そして、さういふ存在が歴史を創ると言ふ。矢内原にはさういふ覚悟があつたし、その師である内村鑑三にも紛れもなくあつた。歴史の流れをわづかな角度でも変更させるには、さういふ「真理を守つて一歩も退かない」人間の存在なのだらう。さういふことは学者では到底無理であつて、果たして宗教家にもゐるであらうか。自分の学説に固執して、他者の意見を聞かうとしない厚顔無恥の学徒は「教育界」や「学界」にはごまんとゐるが、それで世界は幸せにはならない。異端とは激しい闘争をするが、異教には友愛を唱へる宗教家もあきれるほど多いが、それで人間を救つてはゐない。さういふ今日の日本社会に、歴史を創る人間の誕生をひたすらに願つてゐる。

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