言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

欠落感が思考を生み出す。

2018年03月20日 18時08分53秒 | 日記

    矢内原忠雄全集を読み続けてゐる。

    彼は神学者ではないけれども、世界は体系的であるといふ信念から、さまざまな事象を解釈して、かうあるべきであるといふ理想を提示する。したがつて、勢いその文章は演繹的でもあるし、極めて論理的に文章を書いた構築物のやうでもある。

   トマス・アクィナスはほとんど知らないけれども、神学を体系立てるにはかうした構築物として言葉を組み立てることが必要なのだらう。

    岩下壮一はその傾向が強いやうに感じるし、内村鑑三にはその意識は薄く、吉満義彦はその中間のやうに思ふ。そして矢内原は内村と吉満の中間くらゐだらうか。

 

  さて、何が言ひたいのかと言へば、どうしてキリスト教にはかうした構築物としての神学が誕生したのかといふことを考へたからである。

   仏典は観念か物語である。言はばキリスト教の聖書に当たる。その仏典を読誦し、悟りを待つ。しかしキリスト教には聖書の他に構築物としての神学書がある。それは何故か。

 

   結論をあつさりと言へば、キリストの不在に耐へるためではないかといふのが私の見立てだ。イエスは33歳で亡くなつた。公的な活動はしかもわづか3年。しかし、その存在の大きさは時空を超えて後代の人々に伝へられていく。フランチェスコのやうに啓示が降りてくるやうな篤信の信者でもなければ、救ひ主は自らに訪れない、その渇望が神学を生み出したのではないか。でなければ、矢内原もあそこまでの文章を書き続けなかつたであらう。もちろん、未信者への伝道の意味もあつたであらう。しかし、本質的には自己の内にある欠損感を埋めようとして書き続けたのであらうと考へてみた。

 

 

    まづは感想に過ぎないが、しばらくこの営みを続けていく。

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