言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

堂々と反知性主義

2019年01月02日 09時46分11秒 | 評論・評伝

 元旦の産経新聞が面白かつた。曽野綾子の「正論」も気持ちのよい文章だ。

 そしてとても良かつたのが別冊に載つてゐた「日本の針路 見据えて」といふ記事である。国連軍縮担当上級代表の中満泉、歴史家の磯田道史、そして国際基督教大学副学長の森本あんりの三氏のコメントはそれぞれに学ぶことがあつた。正月からかういふ文章に出会へたことがとても嬉しかつた。

 森本のものは従前からの主張であるが、インタビューはそれをうまくまとめてゐた。「多様な評価軸を持って」といふタイトルの後半にかうある。「米国の思想史で『反知性主義』を掲げた人々もまた、世間で重視されている価値観とは異なる、もう一つの価値基準の軸を持っていた。それは『信仰』だった。高学歴の権力者(知性主義者)を前にしても、彼らは『神の前では平等だ』と考えることで権力を堂々と批判することができたのである。」と。

 これまでもこのブログで何度も書いてきたことだが、日本の知識人が使ふ「反知性主義」といふのは安倍政権への批判の文脈で書かれることが多い。曰く、安倍は歴史修正主義だ。曰く、安倍の経済政策(瑞穂の国の資本主義)は客観性を欠いてゐる。内田樹や佐藤優などが批判するのはその文脈で、出身大学一流のエリート(知性主義)にたいして二流大学出身の為政者への揶揄として「反知性主義」と命名してゐる。

 しかし、それは大いなる誤解である。「米国の思想史」において生まれたその言葉の出自を忘れ、批判のレッテルとして言葉だけを用ゐるのは、彼らの言ふ「反知性主義」そのものではないか。だから言葉を正しく使はう。「世間で重視されている価値観とは異なる、もう一つの価値基準の軸」それこそが反知性主義である。それが米国では「信仰」であつた。

 私たちの現代日本を作つてゐるのは、東大出身者を頂点とする官僚である。彼らは紛れもない「知性主義者」である。しかし、どうだらう。彼らが作つた硬質な社会制度は、前例主義であり、形式主義である。今日それは機能しなくなりつつある。一例を挙げれば、官僚としては二流であらう文科省が次々に繰り出す制度改革は、一向に現状の改革には届かない。英語四技能も、主体的で活動的な深い学びも、東京大学の学生相手に施策を考へてゐるのかと思はれるぐらゐ的外れである。英語を全国民が話せる理由がどこにあるか。主体的な学びの前に受動的な知の蓄積が必要ではないのか。かういふ主張こそ言葉の正しい意味で「反知性主義」である。しかし、そこには(日本の反知性主義)には米国にあるやうな「信仰」はない。基礎価値としての何かがないから、対抗するものとしても弱い。明確で深遠な人間論を提示できないのが日本の「反体制の思想」の欠点であらう。

 しかし、それを逆手に取つてかう言はうと思ふ。知性主義に対抗できる思想や信仰はない。けれでも、知性主義は間違つてゐると言ひ続ける姿勢のなかで自づとその確からしさは示されていく。つまりは関係の中で暗示されていくもの以外に知性主義の誤りを指摘することはできないといふことである。思へば、信仰であつても、「これこれである」と明示すればそれは神学になつてしまふ。神学になればそれは新たな知性主義である。米国の神学論争についての知識はないが、反知性主義が多様な評価軸を持つことの重要性を言ふものであるのだから、信仰が神学になることはないといふことは明らかである。

 対話以外にあるまい。論理一辺倒で相手を論破し、折伏することを知性の効用と考へる知性主義の罠に陥らないためにも、生きる姿勢で示していく必要がある。

 さういふ対話を最も苦手とするのが私自身であるが、対話を始めてみたいと感じさせられた元旦であつた。

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)
森本 あんり
岩波書店

 

 

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
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