言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

景色は変はる。

2018年08月05日 15時23分13秒 | 文学

 視点がどこにあるのかによつて、見えてくる景色は違ふ。

 そのことを東京大学教授の安藤宏氏による『「私」をつくる』によつて考へてゐる。安藤の漱石『猫』の分析は面白い。一言で言へば、斬新だ。御存じのやうに「吾輩は猫である」で始まるのだから一人称小説だが、事情により連載が長くなつたのだが、長くなるにしたがつて、猫からの視点では世間の分析やら人間観察やらを描くのに限界が来る。そこで第九章にいたつて、「読心術」を語り出すことになる。つまりは、猫が猫でありながら極めて超越的な視点を持つ、猫でない猫に変身しなければならなかつたのである。その読心術といふ虚構を設定することで猫は三人称の視点に立つことができ、全知になり得たのであつた。

 

「私」をつくる――近代小説の試み (岩波新書)
安藤 宏
岩波書店

 私は『猫』をあまり愛読してこなかつたから、第九章の変身などまつたく気がつかなかつたが、なるほどと思はされた。

 それで私はもつと平易な文章でそのことを考へて見る。それは新美南吉の「ごんぎつね」だ。

 きつねの「ごん」が兵十の母親が食べたいと言つてゐたうなぎを盗み、そのことを兵十に詫びるために今度は鰯売りから鰯を盗んで兵十の家に届ける。すると、鰯売りから兵十が疑はれ殴られてしまふ。ごんはますます申し訳なくなり、いろいろなものを兵十の家に届ける。そして以下の場面である。全文の最後の章だ。

(引用始め)

 その明くる日もごんは、くりを持って、兵十の家へ出かけました。兵十は物置でなわをなっていました。それでごんは、うら口から、こっそり中へ入りました。

  そのとき兵十は、ふと顔を上げました。と、きつねが家の中へ入ったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。

  「ようし。」

  兵十は、立ち上がって、納屋(なや)にかけてある火なわじゅうを取って、火薬をつめました。

  そして足音をしのばせて近寄って、今、戸口を出ようとするごんを、ドンとうちました。ごんはばたりとたおれました。兵十はかけよってきました。家の中を見ると、土間にくりが固めて置いてあるのが目につきました。

 「おや。」と、兵十はびっくりしてごんに目を落としました。

 「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは。」

  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。

  兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。

(引用終はり) 

ごんぎつね (日本の童話名作選)
黒井 健
偕成社

 この最後の「うなづきました」とは、誰の視点で書かれたものだろうか。主語は何かと言へば、「ごん」である。だから「うなづいた」のは「ごん」である。しかし、それは「うなだれた」のかもしれないし、「首ががくつと落ちた」のかもしれない。それを「うなづいた」と見たのはだれか。

 考へられるのは三つ。

 一つは、兵十。この場面の4文目に「きつねが家の中へはいった」とあるから、ここから視点は「ごん」から「兵十」へと移つてゐると考へられるからである。

 二つは、この話のすべては「村の茂平」が語つたから、その茂平である。

 三つは、その茂平の話を「わたし」が聞いたといふ設定だから、「わたし」である。

 この三つが考へられる。それぞれによつて、この「ごん」の行動の意味が変はつてくる。視点によつて景色が変はる。小説においては、とても大事な事柄である。

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