言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

大地震に備へるために

2018年06月20日 20時49分44秒 | 評論・評伝

 以下は、2009年2月に書いたものである。ついこの間書いたものかと思つてゐたら、9年も前のものだつた。阪神大震災が1995年だから「14年前」と本文に書いてあるが、今なら23年前。この間、2011年には東日本大震災があつた。その時は、この文章を書いたことすら忘れてゐた。

 「備へるべきは、餓死せぬための食糧と缺如の自覺である」とはその通りだと思ふ。

  ちなみに「大地震」は「おおぢしん」と読む。

 

  いよいよ大地震が來さうである。とは言つても今日明日の話ではない。今後三十年以内に三%程度の確率で起きるといふことである。それでも新聞は定期的に、防災の注意を促し、最新の技術である免震にも限界があることを指摘し、長周期地震動への對策を怠るなと警鐘を鳴らし續ける。東京や大阪では萬の單位で死者が出ることも發表された。

 關西では、阪神・淡路大震災の人人の記憶は今も鮮明で、そのときどうだつたと訊けば、こちらが期待する以上に詳細に語つてくれる。箪笥やテレビが兇器となること、吊るされた電燈の状態などを臨場感たつぷりに語つてくれる。じつに恐ろしい。

 この一月十七日で、その大震災から丸十四年が經つた。神戸の街はきれいになつたが、倒壞を免れながらも再建の費用が出せずに、マンションから出て行かざるを得なかつた人人の特輯をテレビで見た。死者六五〇〇人の慘状は直後の悲劇であるが、時間の經過と共にじわじわと侵蝕してくる苦しみは年老いていく身體の變化を伴ふゆゑにより一層の悲しみを募らせる。區劃整理は進んだが人口は戻らずすさんでいく街。なるほど、自然はこのやうに私たちを打ちねぢ伏せてくるのか、そんな思ひになつた。

 自然保護を謳ひ、エコロジーといふ言葉を多用し、地球にやさしくなどといふスローガンを見ると、つくづく嫌になる。そんな自己欺瞞は、もういい加減やめてもらひたい。省エネもCO2削減も地球のためにやつてゐるのではあるまい。自然を征服できない私たちの力不足を認めたくないがゆゑの自己欺瞞である。いつそ「自然に負けるな」「自然に學べ」の方が正直である。科學の精神とは元元さういふものであつたはずだ。地球にやさしくなどといふ傲慢不遜は願ひ下げだ。

 そもそも、私たち人間は缺如の自覺があるからこそ進歩發展して來たのである。自然状態ならば、即刻飢え渇き死んでしまふ。衣服がなければ皮膚は傷つき、寒さで凍えてしまふ。靴をはかなければ足は血だらけになつてしまふ。物質的な面ばかりではない。知識の缺如を自覺するから人は本を讀み、人の話を聞き、學ぶ(逆に言へば、勉強をしないのは自分に缺如を感じないからである)。一人では生きられないから結婚し家庭を持つ。岸田秀が「人間は本能が壊れた」と表現することを「缺如」と呼んでみたが、その自覺こそが人間を動物から隔絶させたのだ。佛教では業と言ひ、キリスト教では原罪と呼ぶものの命名は、宗教の觀點から言ひ當てたものだらう。

 さて、大地震が來たとき、着のみ着のままで放り出される私たちはまた缺如を自覺させられる。そのとき、私たちはどう對應するのだらうか。もはや私有物などといふものはない。個人の生存や人人の共存の前に所有の觀念を投げ捨てる覺悟は果してあるか。自衞隊を即ちに呼び被害を最小限に食ひ止めるには、その「私」の觀念が最大の障碍になる。少少きれいごとに過ぎるが、極限状態の中の缺如において私たちは平等だ。その觀念の有無はすぐれて民度の問題である。もちろん、急いで附け加へたいのは、自立の意識である。何もかもを他者に依存する精神はそれこそ民度の低さを示すことになる。しかしながら、缺如の平等の觀念なくして、蔑みと優越感からなされる「施し」は、人を腐らせる。

 安全は大事である。が、人は身體的にのみ生きてゐるのでもない。備へるべきは、餓死せぬための食糧と缺如の自覺である。

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