言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

難しい、ね。

2018年07月30日 15時39分28秒 | 評論・評伝

 読みたいと思はせる批評家がゐない。

 新聞や雑誌、それからSNSなどに熱心に書いてゐる批評家もゐるが、それらを真剣に読んでみようと思ふことはない。そもそも批評といふものが成り立ちにくい時代なのかもしれない。

 批評を書いてゐる人間がこんなことを書いてしまふことは自己否定であるが、フィクションでもなくエンターテイメントでもなく、対象を分析して類推して見えなかつたことを明らかにするといふ批評の行為が成り立ちにくいのではないか、そんな気がしてならない。

 もちろん私は批評を必要とする人間である。自分の自我は砂の造形のやうにもろいものであると自覚してゐる者には、批評といふ行為によつて辛うじて「生のかたち」が維持できるからである。しかし、それにしてもである。批評にはその視点となる基準が必要である。その基準自体が「人それぞれ」でいいと言ふ時代には、そもそも基準自体が存在しない。たとへば、ここに1mの物があるとして、ある人にはそれが80cmに見え、別のある人には95cmに見えるといふのであれば、それは何が正しいか正しくないか分からなくなる。いやいやそれならまだいい。mやcmといふ単位があるではないがか、説明と説得とを重ねればいつしか物の長さは決まつていくと可能性もあるではないかと言はれるかもしれないが、今は単位自体がないのである。1某、80某、95某ではもう何も対話が生まれない。

 さういふ時代のやうな気がする。政治も経済も、それから教育も文學も、独り言をそれぞれがつぶやいてゐるだけで、「対話」が生まれない。さういふ時代だらう。それだから、言葉が溢れてゐる。読書離れは叫ばれてゐても、SNSは隆盛を極めてゐる。対話が少なくなつてゐるのに、4技能が声高に言はれる。まつたく笑ひ話である。英語を使つて話す聞く読む書く、それに熱心な文科省の高官は、ひそひそと「うちの子の入学をお願ひします」と密談する。素晴らしい時代だ!

 いつまでもかういふ時代が続くはずはない。滅びるに決まつてゐる。

 だからこそどうするか。良心の声を聞く訓練を始めようではないか。教育が出来ることは、さういふ日常倫理の実践である。

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