言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ヒューマニズムとニヒリズム その3

2018年06月07日 09時42分19秒 | 評論・評伝

 私たちは絶対者といふものを信じることのできにくい民族であるから、相対主義といふものに親近感がある。なにもかにも神が宿ると信じられるといふことは、じつのところ何も信じてはゐないといふことに接近してゐる。だから、神を信じながら拝金主義になる人。仏を信じながら権力亡者になつてしまふといふことが起きる。もちろん基督教にも拝金主義者はゐるだらうし、権力亡者はゐる。しかし、それを否定する力もその一方に持つてゐるので、さういふ人物は内部から引き裂かれる。良心の起源を明らかにし、絶対者の定着する場所を示してゐる。ヘッセの「少年の日の思ひ出」はそのことを幼い子供にも分かるやうに描いた小説だ。

 一方、何もかも信じる相対主義者には良心もまた容易に相対化される。そして彼は静かにニヒリストになつていく。声高に虚無を叫びはしないけれども、信じるといふことを人生から手放し、生きるために生きてゐるといふこと以外に生きる目的が見出せない、静かなニヒリズムが浸透していくといふことになる。試みに隣の誰かに(いや自分自身に)「生きるとはどういふことだらうか」と尋ねてみてはいかがだらうか。さういふ問をするのは野暮で嫌なやつには違ひないが、それにたいして明言できる人はゐないのではないか。普段は、さういふ問を封じ込め、さういふ問の存在を忘れようとしてゐる、それが静かなニヒリズムである。

 矢内原もまたさういふ心理を知らないわけではないし、さういふ心情を通つてきたのであらう。だから、「基督教はさういふ意味で、徹底的と言つてもいい位ニヒリズムの思想を体験した者の人生記録を、聖書の中にもつてをるのです」と書き、「伝道の書」といふ旧約聖書の一つを挙げてゐる。

 そしてさういふ徹底したニヒリズムを越えたところにあるのが、真実のヒューマニズムであるとし、「人間の人間たる事、すなわち真の意味のヒューマニズムは、人間の作り主たる神を知ること、そして神の道を歩む事だ。このことを発見して、始めて彼は人生の意義を知り、己が人生を肯定することが出来たのです」と記してゐる。

 キリスト者でなければ、かういふ言葉を受け止めることは困難であるが、かういふ人物がゐたといふことは困難を抱へた人にとつては救ひであることは間違ひない。

 ところで、この直後から矢内原の筆は大きく転調する。最後の節の冒頭は、次の文で始まる。

「今日日本の国は混乱してをります。多くの運動がなされてをり、多くの要求がなされてをりますが、学問的精神は実に稀薄であります。真の意味の政治的精神も稀薄であると思ひます。真理を愛し国を愛する精神がないところに、学園の復興はありません。教育の復興もありません。それを通しての日本の復興もないのです。正義のために一身を犠牲にし、輿論の声を恐れる事なく、権力者の威嚇を恐れる事もなく、義しい事を義しいと言ひ、義しくない事を義しくないと言ふ精神がなければ、本当の政治は起こりません。さういふ政治的精神が今の日本にはないのです。」

 矢内原が「ヒューマニズムとニヒリズム」を書きながら念頭にあつたのは、「どうして日本人は徹底してものを考へないのか」といふ思ひがあつたのであらう。だから、かういふ「叫び」が最後になつて登場してくるのである。

 この言葉は今もまた有効であるし、といふことは今もまだ「徹底して考へてゐない」といふことである。私たちの相対主義は国運を遠ざけてゐる。どんどん冷めていくぬるま湯につかつてゐるやうである。

 

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