言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ロレンス『死んだ男』を読む。

2017年08月05日 08時33分52秒 | 日記

 福田逸氏の新著『父・福田恆存』を読んでゐる。その感想は後日書くことにしようと思つてゐるが、読みながらいろいろと寄り道をしてゐる。ロレンスによつて若き福田恆存は「生きる杖」を得たとどこかで書いてゐたが、そのロレンスの思想は『チャタレー夫人の恋人』よりも『死んだ男』に表れてゐるとその本の中で書かれてゐたので、早速それを読んでみた。

 あらすぢは、ここが参考になる。なかなかすぐには手に入れられないと思ふので、この詳細なあらすぢで内容は分かる。もちろん短編なので実際に読んでみるに越したことはない。

 http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10009945602.html

 「死んだ男」とは磔(はりつけ)にされたイエスであり、死んだ男が生きてゐるのであるから「復活した男」でもある。結婚もせず神の愛を説き続けた男が処刑され、復活された後に女性の肉体に惹かれ、交はり、その肉感にこそこれまで味はつたことのない喜びを抱いた。自身のなかに「太陽」(最晩年の福田恆存なら「日輪」と訳しただらうが、私の読んだものでは「太陽」となつてゐる)が再び目覚める。

 第一部と第二部とのつながりは必ずしも分明ではないけれども、上に引用した方の分析によれば「差異とそれをつなげる俯瞰の視点」があるとのことであるやうだ。

 肉欲を否定したキリスト(イエス)が死後にそれを求めるといふのは、イエスの生涯を描いた最新の映画「最期の誘惑」にも見られた視点である。つまりは、イエスの恋愛といふことである。これはキリスト教の最大のタブーである。しかし、イエスは独身主義者でないことは疑いやうがない。イエス自身もマリアの子であるが、聖霊によつて身ごもることなどあり得ない。すなはち男性によつて生を得たのである。しかし、イエスが結婚するためには、きつと必要な手続きがあつたのであらう。それができなかつたから結婚ができなかつたのである。神が人間を創造されたのである。その人間に男性と女性がをり、その両者の結合によつて生命が誕生するのであるから、結婚をキリストだけがしていけないといふことはない。むしろ、キリストこそその道を歩み、生を快活なものに、純粋なものに、清浄なものにすべきである。

 そのことの願望がロレンスにはあつて、それを死後の交はりとして(独身で死んだ事実は消しようがないからである)描いたといふのであらう。生前のイエスが説いた「愛」への不信がロレンスにはある。つまり所詮人間には「性愛」しかないといふ断念(さうとしか思へない経験がロレンスにはあつたのではないか)が根底にあつて、それをイエスの交はりとして描き出したといふことであらう。

 それにしても、愛と性とについてこれほど真剣に考へる文学者は私たちのものではない。だから、ロレンスの葛藤も、この種の小説の主題も私たちのものではない。ただ文学史上の物語として読むだけである。簡単に交はり、簡単に別れ、簡単に別の人と交はる。それを自由と言ひ、恋愛と言ふ。それが私たちの文学である。これは古代から現代に至るまで変はらない。それを私たちの文学の誇りとして、ノーベル賞の季節が訪れるたびに今も語られるが、果たして本当だらうか。

 ロレンスは一向に読まれない。本も手に入らない。さういふところにゐる私たちの文学の水準が私たちの現代の水準を作つてゐるのであるから、もう少し自重してもよいのではないか、さう思ふ。

 世界を見てゐるやうで見てゐない。グローバル化といふ言葉を聞くたびに、白々しさを感じてしまふのはさういふことがあるやうな気がしてゐる。

新潮世界文学 39 ロレンス 1 (39) 息子と恋人・干し草山の恋・狐・てんとう虫・死んだ男
吉田 健一
新潮社

 

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3 コメント

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『父・福田恆存』から (由紀草一)
2017-08-08 08:44:16
 久しくお目にかかりませんが、お元気ですか。
 またしても、御記事を拝読して思ひついたことを気ままに並べます。

 ロレンスの小説では、いや、全部読んだわけではないのですが、管見の限りでは、「死んだ男」が一番よいと思ひます。
 彼の、特に長編小説は、登場人物の描写と作者の思想の直の表明が未分化のまま並列されてゐるやうで、そこがいまいち、興を殺がれるやうに感じます。
 おしなべて、評論の方がいいですね。その中でも「アポカリプス論」はいい。そして、これに直結する小説が「死んだ男」なのですが、描写も人物造形も筋の運びも間然するところなく、全体として自然に、ロレンスの思想が滲み出てくる。傑作ですね。

 イエスが妻帯しなかつたことになつてゐて、その後キリスト教の、中でもカトリックの聖職者に結婚が禁じられてゐるのは、言はれてみれば不思議ですね。ユダヤ教のラビは、結婚してよい、どころか、それが義務でさへあるのでせう? それなのに。
 「最後の誘惑」は未見ですが、「ダヴィンチ・コード」(小説及び映画)も同じテーマを扱ひ、女性蔑視から説明してゐましたね。これだとちょっと、つまらんな。

 『父・福田恆存』は私も興味深く読みました。ほんの少し垣間見た福田先生の、晩年のお姿が思ひ出されて、ひとしきり感慨に耽りました。
それはさうと、三島由紀夫との絡み、「暗渠で西洋/日本と通じてゐる」のところですが、この本で取り上げられてゐるのを読んで、改めて、ちやんと考へなければいかんのだな、と感じました。私ごときに決着がつけられる筈はもとよりないのは重々承知の上で、自分一個の愚考はまとめておきたいといふ意欲がわきました。
近いうちに書きますので、できたら、ご意見をいただけると嬉しいです。

颱風の被害は如何ですか。どうぞお健やかにお過し下さい。
またお目にかかれる日を楽しみにしてをります。
生活と思想と (前田嘉則)
2017-08-09 07:30:00
コメントありがたうございました。嬉しく拝読いたしました。私の方もあれ以来勉強会サボつてしまつてをります。今夏は、例の教員免許更新講習とやらを義務付けられ、いやはや言ひやうのないやうな時間の使ひ方を強いられてをります。

さて、件の暗渠問題。私もこの本を読んでさういふ問題があつたかと気付かされました。今の所これまでの解釈と異同はありませんが、三島についての解釈より、福田が暗渠で西洋に通じてゐるかどうかでせうか。その意味では、暗渠どころか本流で西洋に繋がつてゐるのであつて三島がどうしてそんな言ひ方をしたのかが問題ですね。日本主義は西洋に片足を突つ込まなければあり得ない、さういふことをしてゐるのだといふことであれば、両者は同じ地平に立つてゐると言へるのではと考へます。
『父・福田恆存』については、何か書くかもしれません。
書かうと思つたこと。 (前田嘉則)
2017-08-09 12:53:05
一つ前のコメントで書かうと思つてゐて書き忘れてしまひました。
それは思想と実生活といふことです。その峻別をそれこそ一生かけて書いて来た批評家が、その息子によつてその思想の意味を損なはれやうとしてゐる。実に悲劇である。どうして本になどしてしまつたのか。福田恆存について息子しか書けないことがあるのは当然である。しかしそれは書かずもがなであらう。批評家として自立するなら、書けることではなく、書かねばならぬことを書いて欲しい。福田恆存とはさういふ人ではなかつたか。批評の自立を目指した小林秀雄、そしてその衣鉢を継いだ福田恆存、批評が文学である道を辿るのは、それだけ難しいといふことであるか!

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