言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『批評の魂』――いいな、かういふ本をずつと讀んでゐたい。

2018年10月09日 20時16分21秒 | 評論・評伝
批評の魂
前田 英樹
新潮社

 『批評の魂』をついに読み終はつてしまつた。かういふ本をずつと讀んでゐたい。忘れてゐたことを思ひ出させてくれる、さういふ経験ができる本には滅多に出会はないが、久しぶりに邂逅できた。

 言ひたいことは、次の言葉に尽きていようか。

「遠い昔に学問と呼ばれたものは、どうなっているのであろうか。人は何を信じ、いかに生きるべきかを、わが身を賭けて問い詰める分業の役割、宣長の言う『道の事』は、近代日本の一体どこに在るのか。大学の言わば官製の学問制度のなかに、そういうものがないこと、あり得ないことを、白鳥も、小林も、河上も、はっきりと知っていた。彼らを『独身批評家』に育てたものは、まずはこの自覚の深さなのだと言ってもいい。近代ジャーナリズムは、どうであろうか。そこに群がり生じた大そうな数の自称批評家たちはどうであろうか。昭和十七年に、小林は書いていた。『西洋の文学が輸入され、批評家が氾濫し、批評文の精緻を競ふ有様となつたが、彼等の性根を見れば、皆お目出度いのである。『万事頼むべからず』、そんなことがしつかりと言へてゐる人がない。批評家は批評家らしい偶像を作るのに忙しい』(「徒然草」)」

 全くこの通りであらう。批評など必要としてゐない人が西洋の真似をするために批評をし、批評など求めてゐない人が批評を生き方にしてゐるやうに振る舞ふ。それは偶像批評家と偶像読者である。さういふ偶像は今も量産されてゐるし、それが偶像であることさへ分からなくなつてゐる。本当は、かういふ時代にこそ本物と偽物とを分ける批評家=「独身批評家」が必要なのであるが、それは現代に生きる者の目には分からないのだらう。

 ただありがたいのは、かういふ書が現にあることである。『批評の魂』、もつと讀まれていい。

 

 

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 内田樹『ローカリズム宣言』... | トップ | 時事評論 平成30年10月号 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

評論・評伝」カテゴリの最新記事