言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『三四郎』あれこれ

2017年01月08日 20時23分03秒 | 文學(文学)

 年末に撮りためてあつたテレビ番組を、ちよつとした時間に見てゐる。

 昨年は漱石没後100年といふことで、全集は出るし、テレビでもドラマあり評論ありの大盛況であつた。再会される授業では私も『こころ』を扱ふことにしてゐるので、公私ともに漱石シーズンである。

 『三四郎』についての読後座談会と再現ドラマとを見た。私の好みではない作品なので、ソファに横になりながら時折うつらうつらしながら見た。美禰子といふのは相変はらず嫌な女だなといふ感想を抱きつつ、漱石が言つてゐたといふ「無意識の偽善者」といふ言葉だけが印象に残つた。美禰子のモデルである平塚らいてうといふインテリ風情を評言する言葉としては、これ以上ない正確な言葉であらう。もちろん、そんな女に引き寄せられる森田草平といふ漱石の門下生もその程度である。

 漱石は、その二人の心中未遂を「恋愛ではない」と断言したさうだ。その通りであらう。恋愛ごつこである。真剣さがない。

 さて、無意識の偽善者といふ言葉に引き寄せられて、改めて『三四郎』を読んでみた。もちろん、通読するほどの興味はない。今は、青空文庫といふ便利なデーターベースがあるので、「偽善」といふ言葉で検索して、その周囲を読んでみたのである(私の本には、いくつか付箋がつけられてゐるが、その箇所を調べても「偽善」といふ言葉がなかつたので、青空文庫を利用した。ありがたい)。

(引用)

「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」

「いいえ」
「今ぼくが即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人(いちにん)――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔は殿様と親父(おやじ)だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋(ふた)をとれば肥桶(こえたご)で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(きじ)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫(らんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」

(引用終はり)

 偽善と露悪、そしてその繰り返し。それぞれだけだと不便になるから、ぐるぐると巡つていく。平衡を取ることができるが、進歩はない。英国がさうだといふのである。英国で苦しんで来た漱石の言葉であらう。

 平衡は生きる術ではあつても、よく生きることにはつながらない。イギリス人の知恵は、哲学にはなりえない。漱石は哲学を求めてゐたのであらうか。

 よく生きること。それが人を本気にさせる。『三四郎』はその意味で、ただ生きるで良いのだらうかと疑問を提示したにすぎない。小説の最後が「迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)」で終はるのは暗示的である。 

 そして、『それから』に引き続き書かれるのが『門』であるといふのは少少出来すぎである感がしないでもないが、漱石は本当に、考へながら生きてゐる人であつたといふことである。

 『門』には、かう書かれてゐる。

「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 竹島に初詣 | トップ | 幕府は、任意団体。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿