言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

西部邁の自死を改めて

2018年12月28日 10時39分08秒 | 評論・評伝

 昨日、たまたま風呂上りにテレビをつけたら、NHKで西部邁の自死についての番組をやつてゐた。偶然とは思へない巡り合はせで、かういふことがあるから人生は不思議だ。まづそんなことが頭をよぎりながら視聴した。

 タイトルは、「事件の涙」である。

 今年の1月20日にそれは起きた。近著でもその予告はされてゐたが、衝撃だつた。家族ならさらにそれは強いものである。振り返るのに一年を要したといふことであるが、それにしてもよくぞ番組制作に協力したなといふ思ひもある。劇場的な死は、その死後にも語られ続けられるといふことなのか。違和感があつた。

 家族は自殺を拒んでゐた。しかし、いくら説得しても「父は聞かなかつた」と言ふ。きちんとお別れが出来なかつたことを悔やむ長女。二週間前に喧嘩別れした長男。いづれも晴れやかな顔ではない。しかし、テレビに出てくるほどには距離を持つてその死を見てゐるやうではあつた。

 最後に、自殺幇助をした人が顔を隠して出てきた。長男と食事をしながら、面接を受けてゐる受験生のやうな畏まつた姿が伝はつてきた。長男とではなく、NHKがきちんとインタビューすべきだと思つた。あれでは初めから両者に上下の格差がある。思想家の死を取り上げるなら、家族の視点だけでは分からないものがあるはずだからである。「事件の涙」は、家族以外の当事者も流してゐる。

 幇助を受けなければ実行できない自死はあるだらう。身体に障碍がある場合などで。しかし、「家族にすぐに見つけてもらふために体をロープで縛りその先を木に括り付けてもらふ」ために第三者が必要である自死とは何だらうか。「自分の最期は自分で決めたい」といふのであれば、別の方法がある。思想家の死はあまりに無惨である。やりきれない思ひを再び感じながらテレビを消した。

 火照つてゐた体が冷えるには丁度よい時間の経過であつたが、すぐに寝ることはできなかつた。

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