言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論 六月號

2014年06月24日 21時35分07秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

 

   6月號が発刊された。これまで触れたことがないが、本紙には一面左下に「北潮」といふコラムがある。今回は、元東大総長の南原繁について書いてゐる。きつかけは平川祐弘氏の『日本人に生まれて、まあよかった』といふ新潮新書の新刊を讀んだことによるのだが、そのなかで、南原の師事した内村鑑三について触れたところで、内村の思想を「絶対的平和主義」と言ひ、それゆゑに南原の思想には「オカルト的要素」があると書いてゐるが、それはどうだらうか。確かに、内村はキリストの再臨を信じて、晩年赤城山にこもつて、イエスが雲に乗つて再臨すると思つてゐたから、飛び跳ねる練習をしたとかいふ逸話もあるぐらゐ「オカルト的要素」はあるだらうが、内村の根本思想は決してオカルト的なものではなく、正統なキリスト教であるどころが、正統な人間論である。絶対といふ言葉を正確に使ひ、人間と神との関係をこれ以上ないほどの真摯な態度で追及した思想家である。最終的には「キリスト教は宗教にあらず」といふところにまで言及できた探究者内村は、日本近代が生み出した最善の最高の思想家である。それを南原を貶めるために、内村を引き合ひに出して、一緒にオカルト的と称するのは、はつきり言つて間違ひである。南原が絶対平和主義者でないのは、彼が単純な平和主義者であることを見れば分かる。平和のためには戦争も辞さず、とは言へない絶対的平和主義などあり得ない。

 

   ☆        ☆    ☆

価値観外交、靖国参拝そして憲法改正

 「偉大な事」を伝えようとしている安倍首相   

       福井県立大学教授   島田洋一

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地政学と現代東アジア情勢

      国士舘大学特別研究員 山本昌弘

教育隨想       

  教育による国民統合を (勝)

この世が舞臺

     『宇治拾遺物語』盗跖と講師と問答の事                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     生物としての制約 (紫)

     再検証・シュリーフェン計画 (石壁)

     「進化」が人間を傷つける(星)

     政府には向かない仕事(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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2 コメント

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●時事評論6月号の留守晴夫氏の記事について (愛読者)
2014-06-26 19:38:43
●時事評論6月号の留守晴夫氏の記事について

前田さん、初めまして。
「言葉の救はれ」の記事の更新を楽しみにしている者です。

時事評論6月号の「この世が舞臺」において、留守晴夫氏が
宇治拾遺物語に収録されている「盗跖と孔子と問答の事」を採り上げております。

この説話は、中国古典「荘子」雑篇中に「盗跖篇」という形で収録されている話を、
宇治拾遺物語の作者が引用したものなのですが、留守氏は文中でこの点に
ついて触れておりません。
もしや留守氏はこの説話を「荘子」からの引用ではなく、
宇治拾遺物語作者の創作だと勘違いしたまま採り上げてしまったのでしょうか?

或いは紙幅の都合で触れることが出来なかっただけなのかもしれませんが、
これでは読者に間違った知識を与える可能性があります。

出来れば留守氏は時事評論の次号に訂正記事を載せたほうが良いと私は思うのですが・・
「愛読者」様へ (前田嘉則)
2014-06-27 08:27:33
「愛読者」様へ

コメントありがたうございました。

留守先生の件、私がコメントする立場にはありませんので、お答へはできません。悪しからずご了承下さい。

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