言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「無様な理想主義」

2018年09月02日 16時34分05秒 | 文學(文学)
批評の魂
前田 英樹
新潮社

 今、前田英樹の『批評の魂』を読んでゐる。とても面白くて、ゆつくりと時間をかけて読んでゐる。

 今日読んでゐるところに、昨日書いた話題に関連する事柄があつたので引用する。

「自然主義作家らがしたことも、多かれ少なかれ創作に過ぎないが、その創作がもたらす真実味は、彼らを取り巻く現実よりも生き生きとしている。それはなぜか。言うまでもない。『どうかして生きたい』という彼らの烈しく、無様な理想主義が、実在のモデルを現実以上に真実な、名状し難い生き物の姿として引き出してしまうからだろう。」

 藤村、花袋、秋声、泡鳴の小説にたいする正宗白鳥の評論『自然主義盛衰史』について、前田が丁寧に論じてゐる部分である。

 いはゆる自然主義作家たちが、その理想主義通りに生きられない姿を「赤裸々」に書き、それを「自然」として描いてゐるといふ自尊心を彼ら自身はうまく隠してゐると思つてゐるやうだが、じつはさういふ自尊心、自負心はしつかり白鳥の目には捉へられてゐる。「実在のモデルを現実以上に真実な、名状し難い生き物の姿として引き出」すとは、さういふ意味であらう。「生き物」といふ名称も、その真実の姿を「引き出し」てしまふといふ書き方も、それが作家の仕組んだ意図を超えて生まれてしまふ不可思議な事柄であるといふことを巧妙に書き表はしてゐる。それは彼らの掲げる理想主義(=自然主義)が極めて「無様な」ものであるからだ。

 自然主義を通して生まれた私たちの近代文学であるとすれば、かういふ無様な姿もまた私たちのものである。そのことは肝に銘じなければならないが、この近代文学の始まりの自然主義作家たちには、それが決して無様なものであるとの自覚はない。それは丸つきり他人事であると言へるだらうか。さう言へないところに、私たちの近代の問題がある。そのことを踏まへると、理想を理想として掲げながら、現実は現実として受け入れるといふ二重生活に我慢できず、すぐに理想を現実化しようとしてしまふ愚を犯すのも、理想を理想として掲げることで、現実は直ちに理想化したものだと思ひ込んでしまふ愚を犯すのも、まつたく「無様な理想主義」であることに違ひはない。私たちは未だ明治の子であるのだ。

 

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