言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

基督教会と共産党

2018年06月24日 10時46分39秒 | 評論・評伝

  1949年に大阪の中ノ島公会堂での矢内原の公演である。直接的には大学法案を巡つて共産党が勢力拡大の手段にしようとしてゐることへの非難である。共産党はその理念を曲げ戦術的に大衆迎合路線を引いて来てゐる。プロテスタントの赤岩栄牧師の入党はその術策にまんまとはまつてしまつた証である。しかしながら基督教会も同じやうに純粋さを失つてはゐないかといふのが、矢内原の主張だ。

  彼の念頭には、エレミヤがをり、イエスがをり、内村がある。だから、この長い公演文に何度もその名前が出て来る。迫害され、否定され、命まで奪はれることがあつても彼らには信仰があつた。その凄まじい力の源泉にしばし読む時間が止まつてしまつた。矢内原にもそれが明確に意識されるから、かうして口をついて出て来るのであるが、私には重かつた。

  学生時代、聖書を読んでエレミヤ書に感じた思ひそのままだつた。内村鑑三を卒論に選んだのも、さういふ生き方に惹かれたからであらうが、50歳を過ぎて今の私にはさういふ力はあるのだらうか。しかし、ここに来て矢内原を読むといふ巡り合はせとなり、何かを感じざるを得ない。

  引用する。

「地上に神の国を建設することはキリスト自身の目的とせられたところであり、また我々の努力すべき問題、我々の念願とすべき問題として示されたところでありますけれども、その目的を成就する方法は何であるか。それは有力な政治団体を作つて、盛んなるデモをやつて、共産党に敗けないやうな賑やかな活動をして、たくさんの代議士を出して、大衆運動に成功して、そえで地上に神の国を建てるといふのであるか。否、そんな方法では絶対に出来ないといふことを、イザヤ、エレミヤそのほか旧約の預言者は皆叫び、その主張のために彼らはことごとく孤独にこの世を去つたのです。キリストもパウロもヨハネもペテロも、その点に於いては旧約の預言者と同じことを教へ同じ道に立つたのです。我々の先輩である内村鑑三然り、藤井武然り、いづれもこの世を神の国と成すといふことを生涯の念願となしましたが、併しその目的を達成する道は、大衆の支持を得、大衆の賛成を得て、大衆から王として、リーダーとして崇められて、それでもつてこの世を神の国と成すものではない。かへつて反対に、この世から罵られ捨てられ嘲けられ十字架につけられ殺されて、それによつて此の世を神の国とするのである。この事実を、彼らは言を以てまた生涯を以て我々に教訓したのです。」

「一方的宣伝によつて大衆が動くといふことについては、戦争中に国家主義者・軍国主義者たちの一方的宣伝によつて、日本の国民、宗教家、大学教授や学生たちが如何に一斉に動いたかといふ事実を、私共は記憶するのであります。戦争が終つて後に、国民は言ひました。『我々はだまされてゐたのだ、軍国主義者に騙されてゐた。日本の国は本当に善いことのために戦争してゐると考へてゐた。そして戦争に勝ちつつあると信じてゐた。あとになつて、あれは皆だまされてゐたのだ、といふことがわかつた。我々は政府と大本営の発表する情報以外に何も知ることが出来なかつたから、それを信じる外に道がなかつた』と言ひます。けれども、だました者に責任はありますが、だまされた者にも責任がある。だまされたといふ責任があるのです。」

 だから、いますべきことを純粋にすべし、それが矢内原の叫びであつた。

エレミヤ書 (岩波文庫 青 801-7)
関根 正雄
岩波書店

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 滝廉太郎青年は、「荒城の月... | トップ | 5冊並行読書 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

評論・評伝」カテゴリの最新記事