言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

若者はなぜオウムに走つたのか

2018年07月12日 21時51分14秒 | 評論・評伝

 先日、オウム真理教の教祖やその幹部たちの死刑が執行された。法律に反して犯罪を犯したのであるから、それに報いたまでである。私には特別な感慨はない。不潔極まりないあの風体が私には宗教家と感じさせなかつた。ぶよぶよに膨れた体躯には聖性を微塵も感じなかつた。

 私には「なぜ若者はオウムに走つたのか」といふ文章がある。珍しく賞で一席を頂戴したもので(産経新聞主催「私の正論」)、それを載せておく。1996年12月11日に記したものだ。

 

 宗教入信の動機として、亀井勝一郎は古代から近代までの文献をあたって、端的に「死の恐怖」「罪の意識」「病者の自覚」と三分した。そしてさらにそれらを一つにつづめて「恐怖観念」が奥底にあるとみた。

 なるほど、宗教が個人の必要に応じて選ばれたのだとしたら、これらの当否は別としても、「動機」があるに違いない。しかし、ことオウム真理教に関する限り、あるいは新々宗教全体に言えることなのかもしれないが、「動機」というものが希薄に見える。たとえば、彼らが「動機」を持ち主体性を発揮しての入信であったなら、その動機に反する行動を強いられてもできなかったはずだ。しかし、彼らは言いなりだった。となれば、「動機」があったのは彼らではなく、むしろ教団の側ではないかと考えられる。「動機」は教祖のみが有し、彼らは導かれたに過ぎないのである。「選んだ」と思ったのは錯覚であり、実は「選ばれた」のである。

 ただし、いつでも宗教は「選民思想」を持っている。自分たちこそが救世主につながり、現実の諸問題を解決し、新しい文明を作り出すのだという気概があったればこそ、今の私たちの文明も築かれた。「選民思想」なくして、社会の閉塞を突き抜ける活力は生まれない。では一体何が問題か。ここではそれを「選ばれた若者」の側から論じてみよう。

 一言で言って、彼らには自我(伝統的価値)がない。寄って立つ自我がないから、新しい教理と対決することがないのである。つまり、今の若者には自己とは何かを考える意識もなければ、それを可能にする言葉もないのである。一体なぜこんな風になってしまったのか。現代の状況を概観してみたい。

 私たちの現代は、物質的に豊かになり、戦争や貧困や不衛生などの社会全体に共通する問題はほぼ解決されている。そこでの「不安」はひっきょう個人的な問題にならざるをえない。かつてのように「今日のオマンマ」を気にしていれば吹き飛んでしまったような個人的な問題、たとえば、学業の不振やいじめの問題や持病などに、個人が生々しく向き合わなければならなくなったのである。そこでの感情はおそらく「焦燥感」であろう。個人の現実に直面したがゆえの、「何かをしなければ」という強迫観念に似た感情がソフトなファシズムのように支配している。

 ところがである。それとは本来両立するはずのない「退屈感」もまた、私たちの気分を支配しているのである。社会の専門化が極端に進んで、個人は全体の部分に過ぎないことを骨身にしみて感じている。全体につながる開かれた個人としての自覚ではなく、閉ざされた個人として、「何ができるというのさ」という諦めにも似たソフトなニヒリズムが蔓延しているのである。

 こうした「退屈と焦燥」を生きる閉塞した個人が、一気に解放される手段としてオウム真理教を考えると、極めて魅力的な説得力のある存在に見えてこよう。「君はこういう使命を持っているんだよ」「君の能力がこうやって歴史に、人類に貢献するんだね」「君の前生は悪いことをしたからこうしなければならない」という言葉は、退屈と焦燥の二律背反の気分に引き裂かれた現代の若者を存分に引き付けるのである。教祖の語る言葉によって、「初めて自分の生きる目的を知った」かのような安堵感が、彼らの心に訪れたに違いない。

人はいつの世も自己とは何かを知りたいと思ってきた。そして、それを宗教やそれらを基調に紡ぎだされた文学をたよりに地道に行ってきたのが、私たちの歴史でもあった。しかし、現代はそれらをあまりに足蹴にし過ぎた。自我の拠り所とすべき言葉を私たちは自分自身の手で葬ってしまったのである。あるいは、今日の複雑な問題を伝統的価値では解決できないということなのかもしれない。

 好きか嫌いかという本能的な感情表現の言葉はあっても、沈みこんだ現実から救いあげてくれる言葉を私たちは失いつつあるのだ。そうとなれば、見る限り論理的で一貫した体系を持った「価値」を提示され、「私」のすべきことが明言されれば、もはや私たちにはその声を防ぐことは難しい。

 だから、今後ますます宗教は興ってこよう。それが新しい価値の創造過程とみるか文明の没落兆候と見るかは、意見が別れようが、この傾向は強まると見ることに異論はあるまい。

「現代の不安」というものを、ナイーブで神経過敏であるがゆえに感じてしまった若者の一部が、たまたまオウムへ行ってしまったのである。だから、同じ気質を持ちながらオウムへ偶然行かなかった若者は内心「オウムじゃなくて良かった」とつぶやいている姿が、容易に想像されよう。

 もう宗教は「走る」ものではない。ここに「ある」のである。

 

 

 

 

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