言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「書く」と「話す」の接近

2016年12月07日 21時51分14秒 | 日記

 日本語は、書き言葉である。英語をはじめとした西洋言語は、話し言葉である。

 祈りを考へても、日本語は文字に書かれた祝詞を読み上げる、あるいは仏典を暗誦する。それに引き替へ、西洋では祈りは心の内を吐露する。コンフェッション(告解)も、それを神につなげる「とりなし」も、それは文字にせずに即興で神に告げられる。

 文字を飾る文化はわたしたの文化であるが、西洋にはそれはない。

 長い間さうして築き上げられたのが彼我の文化である。だから、といふ訳ではないが、私は話すことよりも書くことを重視してきた。書くことによつて自分を鍛へようとしてきた。なになに、そんなエラさうなことを書いていいのか、と突つ込まれさうなので急いで付け加へるが、書くことで自分を鍛へようとしたのであつて、文章を鍛へてきたのではない。私の書いた文章はどうもごてごてしてゐて、特にこのブログの文章は調子が崩れてゐることしばしばである。

 それはともかく、かうした私の思ひとは別に、最近感じるのは、話がうまい人は文章もうまいなと感じることが多くなつてきたといふことである。文章のうまさと言つても名文といふのではなく、「読みやすい」といふことである。「書く」と「話す」とは二元論で別々に鍛へるものと今も思つてはゐるが、話がうまいと文章も讀みやすくなるといふことであらう。両者をうまくこなせる人は、話すやうに書いてゐるといふなのだと思ふ。さうなれば、話す≒書くで一元論的になつてしまふので、私の目指すところではないが、それはそれでよいとも思ふ。言葉は、流通しなければならないからである。ただし、さういふ言葉はきつとすぐに消費されてしまふ言葉なのだらうとも感じる。

 消費となれば、それは物であり、言葉の物象化といふことになる。しかし、言葉は物象であると同時に心象であり、やはり二元論的存在である。

 ところで、最近新潮社が「リスボ」といふサービスを始めた。落語家や作家の「声」を毎月定額で聴き放題といふサービスである。前者は話す専門家。後者は書く専門家である。もちろん、前者も書かれた「本」を話してゐる訳であるが、いづれにしても文字を「声」化したものである。音源サービスは新潮社の長年の商売であつたが、かういふサービスは流行るだらうか見物である。所有したいといふ思ひを満足させずに、毎月1,500円を払ひ続ける読者ならぬ聴取者が果たしてどれほどゐるか分からないが、私はちよつと静観したい。

 御関心があれば。https://www.lisbo.jp/

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