(ヴィルヘルム・ハンマースホイ【背を向けた若い女性のいる室内】1903-04、ラナス美術館蔵)
わたしがヴィルヘルム・ハンマースホイという画家のことを知ったのは、確かかなり前にNHKの日曜美術館を見ていて、だったと思います。
上の「背を向けた若い女性のいる室内」という絵に描かれている女性は、ハンマースホイの奥さんであるイーダさんなのですが、他の絵でも彼女は後ろ向きであることが多かったように記憶していたり
以下は、ウィキの解説からの抜粋です☆
>>室内に描かれる人物は1人か2人で、後ろ向きであることが多く、正面向きに描かれたとしても顔のタッチがほとんどぼかされるか影に入っているうえ、人物は鑑賞者と視線を合わせない。さらには、人物のいない、無人の室内を描いた作品も少なくない。このように、ハンマースホイの絵はタイトル以外、解釈の手がかりをほとんど排除している。同じ室内を繰り返し描く点などフェルメールのオランダ絵画の影響が指摘されるが、白と黒を基調としたモノトーンに近い色使いと静謐な画面はハンマースホイ独自のものである。
そうなんですよね――ハンマースホイの絵って、一言でいうとしたら、もう「静謐」の一語に尽きるというか。
きのう紹介した画家のクノップフの絵にも、共通した「静謐さ」のようなものがあるとは思うんですけど、クノップフは唯美論者だったと言いますから、象牙の塔ともいえる自分で設計した家に住み、ちょっとこう……なんというか少し(かなり?)ナルシストな傾向にあるタイプの画家さんだったように感じられるというか(^^;)
でもハンマースホイの絵からはそういう、自己に陶酔するといったようなナルシズム的傾向はまったく見受けられず、静謐な空間にマグリットの絵にも似た謎かけが散りばめられているといった印象を受けます。
(【陽光に舞う塵埃】1900、オードラップゴー美術館蔵)
たとえばこの、「陽光、あるいは陽光に舞う塵」という絵には、扉に取っ手がありません(^^;)
これはわたし個人が勝手に受けた印象と想像(妄想?)なのですが、たとえば、小さな子供がずっと空き家である幽霊屋敷に好奇心からつい迷いこんでしまったような、そんな感じというか、視点を覚えるのですよね。
果たして、あの取っ手のないドアの向こうには一体何があるのか――小さな男の子(or女の子)がどうにか扉を開けようとした時、ハッと目が醒めて、それは夢だったことを知る……といったような。
そして十年後、少年(or少女)になった彼(彼女)の引っ越した場所が、この絵に描かれているのと同じ屋敷で、でもその時には小さな頃に見た夢のことなど、すっかり忘れているんですね。
でも、「やあ。ここには以前僕はやって来たことがあるぞ」といったような既視感だけは見た瞬間強く感じるという、そうした不思議さを覚えます。
(【白い扉、あるいは開いた扉】(1905)コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション)
この「白い扉、あるいは開いた扉」という絵も、正直画家が何を訴えたいのかって、見る者には謎ですよね(笑)
ただ何か、ドアが歪んでいて不吉な感じがするというよりは――とても静かな、諦めにも似た寂寥感があって、やっぱり画面には描かれていないけれども、何か幽霊のような存在が見る人が見れば見えるのではないか……といったような錯覚を覚えます(あるいは、このドアの向こうには異次元の世界が広がっていて、うっかり一度<向こう>へ行ってしまったが最後、戻ってきた時、ドアのこちら側はすでに違った世界である、といったような想像力をかきたてられます☆)
でもその幽霊というのは、悪戯好きで活発な幽霊ではなくて、とても静かで臆病だったりするんじゃないでしょうか(^^;)
それで、屋敷の静謐さをその幽霊が愛しているがために、そこにはいつまでたっても誰も住む人間が現れない……といったような物語が、ついわたしの頭には思い浮かんでしまいます。
画家のマグリットのことも、わたし大好きなんですけど――マグリットの場合はもっと、受け狙い的な側面が強いというか、いい意味でそういう画家としてのサービス精神(?)のようなものを感じるのに対して、ハンマースホイの絵は貝のようにじっと閉じているといった印象なんですよね。
マグリットの絵が、公明正大にオープンな謎かけを鑑賞者に投げかけているのだとしたら、ハンマースホイのほうは「謎なんてそもそも何もない。これは自分と妻の住むコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートの一室という、ただそれだけさ」といったような、静かな答えしか返ってきそうにないというか。。。
まあ、これもある部分わたしの悪い癖(?)なのかどうか、絵を見ているとどうも、ディキンスンの詩が思い浮かぶことが多いのですww
そんなわけで、今回もまた一篇だけ、引用したいと思います♪(^^)
幽霊に憑かれるには 部屋でなくてもよい
家でなくてもよい
頭のなかには現実の場所よりも
はるかに多くの回廊がある
そとの幽霊に真夜中に出会うほうが
はるかに安全だ
あのもっと冷たい客に
うちがわで向かい合うよりも
石に追われて
僧院を駆け抜けるほうが はるかに安全だ
淋しい場所で 武器もなく
自己と出会うよりは
隠れている背後の自己のほうが
もっと驚かす
私たちの部屋にひそむ暗殺者などは
すこしも怖くない
からだはピストルを携えて
ドアを閉める
だがもっとすぐれた幽霊か
なにかを見逃すのだ
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社より)
ではでは、あとは参考(?)までに最後にマグリットの絵を何枚か並べて、この記事の終わりにしたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
【約束】
【光の帝国】
【ピレネの城】
【黒魔術】
【恋人たち】
わたしがヴィルヘルム・ハンマースホイという画家のことを知ったのは、確かかなり前にNHKの日曜美術館を見ていて、だったと思います。
上の「背を向けた若い女性のいる室内」という絵に描かれている女性は、ハンマースホイの奥さんであるイーダさんなのですが、他の絵でも彼女は後ろ向きであることが多かったように記憶していたり
以下は、ウィキの解説からの抜粋です☆
>>室内に描かれる人物は1人か2人で、後ろ向きであることが多く、正面向きに描かれたとしても顔のタッチがほとんどぼかされるか影に入っているうえ、人物は鑑賞者と視線を合わせない。さらには、人物のいない、無人の室内を描いた作品も少なくない。このように、ハンマースホイの絵はタイトル以外、解釈の手がかりをほとんど排除している。同じ室内を繰り返し描く点などフェルメールのオランダ絵画の影響が指摘されるが、白と黒を基調としたモノトーンに近い色使いと静謐な画面はハンマースホイ独自のものである。
そうなんですよね――ハンマースホイの絵って、一言でいうとしたら、もう「静謐」の一語に尽きるというか。
きのう紹介した画家のクノップフの絵にも、共通した「静謐さ」のようなものがあるとは思うんですけど、クノップフは唯美論者だったと言いますから、象牙の塔ともいえる自分で設計した家に住み、ちょっとこう……なんというか少し(かなり?)ナルシストな傾向にあるタイプの画家さんだったように感じられるというか(^^;)
でもハンマースホイの絵からはそういう、自己に陶酔するといったようなナルシズム的傾向はまったく見受けられず、静謐な空間にマグリットの絵にも似た謎かけが散りばめられているといった印象を受けます。
(【陽光に舞う塵埃】1900、オードラップゴー美術館蔵)
たとえばこの、「陽光、あるいは陽光に舞う塵」という絵には、扉に取っ手がありません(^^;)
これはわたし個人が勝手に受けた印象と想像(妄想?)なのですが、たとえば、小さな子供がずっと空き家である幽霊屋敷に好奇心からつい迷いこんでしまったような、そんな感じというか、視点を覚えるのですよね。
果たして、あの取っ手のないドアの向こうには一体何があるのか――小さな男の子(or女の子)がどうにか扉を開けようとした時、ハッと目が醒めて、それは夢だったことを知る……といったような。
そして十年後、少年(or少女)になった彼(彼女)の引っ越した場所が、この絵に描かれているのと同じ屋敷で、でもその時には小さな頃に見た夢のことなど、すっかり忘れているんですね。
でも、「やあ。ここには以前僕はやって来たことがあるぞ」といったような既視感だけは見た瞬間強く感じるという、そうした不思議さを覚えます。
(【白い扉、あるいは開いた扉】(1905)コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション)
この「白い扉、あるいは開いた扉」という絵も、正直画家が何を訴えたいのかって、見る者には謎ですよね(笑)
ただ何か、ドアが歪んでいて不吉な感じがするというよりは――とても静かな、諦めにも似た寂寥感があって、やっぱり画面には描かれていないけれども、何か幽霊のような存在が見る人が見れば見えるのではないか……といったような錯覚を覚えます(あるいは、このドアの向こうには異次元の世界が広がっていて、うっかり一度<向こう>へ行ってしまったが最後、戻ってきた時、ドアのこちら側はすでに違った世界である、といったような想像力をかきたてられます☆)
でもその幽霊というのは、悪戯好きで活発な幽霊ではなくて、とても静かで臆病だったりするんじゃないでしょうか(^^;)
それで、屋敷の静謐さをその幽霊が愛しているがために、そこにはいつまでたっても誰も住む人間が現れない……といったような物語が、ついわたしの頭には思い浮かんでしまいます。
画家のマグリットのことも、わたし大好きなんですけど――マグリットの場合はもっと、受け狙い的な側面が強いというか、いい意味でそういう画家としてのサービス精神(?)のようなものを感じるのに対して、ハンマースホイの絵は貝のようにじっと閉じているといった印象なんですよね。
マグリットの絵が、公明正大にオープンな謎かけを鑑賞者に投げかけているのだとしたら、ハンマースホイのほうは「謎なんてそもそも何もない。これは自分と妻の住むコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートの一室という、ただそれだけさ」といったような、静かな答えしか返ってきそうにないというか。。。
まあ、これもある部分わたしの悪い癖(?)なのかどうか、絵を見ているとどうも、ディキンスンの詩が思い浮かぶことが多いのですww
そんなわけで、今回もまた一篇だけ、引用したいと思います♪(^^)
幽霊に憑かれるには 部屋でなくてもよい
家でなくてもよい
頭のなかには現実の場所よりも
はるかに多くの回廊がある
そとの幽霊に真夜中に出会うほうが
はるかに安全だ
あのもっと冷たい客に
うちがわで向かい合うよりも
石に追われて
僧院を駆け抜けるほうが はるかに安全だ
淋しい場所で 武器もなく
自己と出会うよりは
隠れている背後の自己のほうが
もっと驚かす
私たちの部屋にひそむ暗殺者などは
すこしも怖くない
からだはピストルを携えて
ドアを閉める
だがもっとすぐれた幽霊か
なにかを見逃すのだ
(「エミリー・ディキンスン詩集」、新倉俊一さん訳/新潮社より)
ではでは、あとは参考(?)までに最後にマグリットの絵を何枚か並べて、この記事の終わりにしたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
【約束】
【光の帝国】
【ピレネの城】
【黒魔術】
【恋人たち】
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