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詩の翻訳可能性について

2017-07-17 00:25:56 | 日記
最近ロシア語の詩を訳すことにしているのだけど、なかなか訳文で詩情を出すことは難しい。そもそもロシア語能力が低いので、正確に訳せているかどうかも定かではないのだが、それには目をつぶるとして、詩は果たして翻訳可能なのだろうか?ということを考えている。

詩は翻訳不可能である、とよく言われる。自分で訳していても、例えば原文の韻をそのまま保持して、訳文でも韻を踏むということは結構難しい。意味のずれを生んでまで韻を写す必要があるのかなど、訳者によって違うだろうけど、意味をほっぽって韻だけを写すわけにもいかない。そんなことをしている訳は読んでみたいが、翻訳とは言えないだろう。

話がずれた。
原文のポエジイを理解できていない身で言うのもなんだが、自分の訳文にはポエジイがないということは分かる。
そして言ってしまえば、他人の訳した翻訳詩というものにもポエジイが感じられないのである。これは偉い先生方に喧嘩を売っているわけではなく、訳しているほうも「詩の翻訳不可能性」を分かっているからそうなるのだと思う。さて、ここで言いたいのは、翻訳詩ばかり読んでいると詩に絶望してしまう、ということだ。翻訳詩を読み、翻訳を試み、自分の訳文に絶望し、原文のポエジイも分からず(最後のこれが一番問題ともいう)、そんなことを繰り返していては詩を嫌いになっても当然だ。

この悩みとは関係なしに、中原中也の詩を読む機会があった。そうしたら、なんと、そこにはポエジイが溢れているではないか! 以前読んだときにはこれほどではなかった。ポエジイに飢えていたために、ぐんぐん吸収できたのだろう。そうして詩への絶望は払拭された。めでたしめでたしである。
とはいえ翻訳の問題が消えたわけではない。自分の訳詩には依然ポエジイはない。ただ、この復活した詩への愛を胸に頑張るしかないのだな、と反省した。詩を翻訳するものはまず詩人たれ、という言葉は、詩は翻訳不可能である、という言葉と同じくらい耳にする。

そういえば私が訳を進めている詩人は翻訳者でもあって、フランス詩を翻訳しているのだけど、この前その翻訳詩を見てみたら(読んではいない)韻が踏んであって驚異的であった。仏語から露語は、露語から日本語より楽だと思うけどな…と言い訳をしてみる。対象がやっていることを私もしなくてはならない、なんてことはないけれど、つくづく反省したのでありました。
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