日記

読書録等

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誤読の名手

2017-07-18 01:57:00 | 日記
時々「誤読の名手」を自称する私だが、文学を論ずるなんていかに誤読をするかが勝負、というところがある。もちろん他人を納得させるだけのものを書かなければならないが、作者の意図からどう抜け出すかが一番大切なのである。
さてこういう話をすると思い浮かぶのはナボコフ『青白い炎』で、妄想註釈小説といっていいだろうが、実をいうと私はナボコフを読むと2ページで寝てしまうという特異体質のため、しっかり読んでいない。しっかり読んでいる人は「妄想註釈小説」なんて書かないだろう。
それはともかく、文学を語ることはある意味「妄想の註釈」を付けることと変わらないのではないだろうか。

妄想の話がしたかったのではなく、ナボコフの話がしたかったのだが、完全に道を誤ったようだ。ナボコフは書くことと読むことに非常に意識的な作家で、それはほうぼうでいわれていることなのだけど、このことはある種の隙のなさを生んでいて、だから私(誤読の名手)なんかはナボコフを論じられる人は天才だと思っている。
書くことと読むことが大好きな作家というのはドストエフスキーにも同じことがいえる。しかしドストエフスキーの場合には隙がある、というより目くらましのように様々なテーマ(?)が散りばめられているので、どんな読みをしても怒られないだろう、という余裕がこちらにも生まれる。
ナボコフの場合、少しでもずれたことを書こうものならナボコフの亡霊が現れて、「君は間違っている」と叱られそうだ。というのは完全な想像なので、本気になさらないでくださいね。

パッと開いたページから引用。

「三段論法。他人は死ぬ。しかしぼくは
 他人ではない。ゆえにぼくは死なない。」
(太字は引用元では傍点です)
ナボコフ(富士川義之訳)『青白い炎』岩波文庫

これに対する註釈も面白い。けど引用はしないでおこう。
ナボコフはキミとボク系ですよね、といったことがあるけど、今でもそう思う。そしてそういうところがドストエフスキーの初期の作品に通じると思っている。
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