魯露西亜夢酔談

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日本人は仏教徒?

2006-04-12 09:15:36 | 日常生活
この稿、掲示板に書き込みしたものを一部加筆訂正の上、重複掲載しました。

まず、「人格を形成する芯は宗教である」これを前提条件とさせてください。モラルは宗教からもたらされ、人格形成の柱となります。ですから、もし仮に他民族の人に、「私は無神論者である」と話すならば非常に不思議に思われるでしょう。なぜならば、その意味は「アナキスト」か「野蛮人」ですと、いうことに他ならないからです。

ここでさらに仏教をお復習いさせてください。
三大宗教があるのですがその中で実は仏教が一番日常の生活に律していない宗教であるといえますし、その反対にイスラム教はいわば箸の上げ下ろしまで戒律の中で厳しく生活を規律している。これは仏教が本来生活宗教として発生、伝播したわけでなく哲学としての学問であったことによります。いわばプロフェッショナルな学者のための解脱の哲学、これが小乗仏教と呼ばれるものでした。そこから派生したのが大乗仏教で、お釈迦さんは学者だけが救われると言っとらん、一般の人々も救うはずだと、いうもの。日本に渡来した仏教はすべてこの大乗仏教系。鎌倉時代に庶民のレベルまで普及した、いわゆる鎌倉仏教が今日の日本の仏教の基礎となつて以後日本の歴史に深く関係してきますよね。

しかし面白いのは日本の仏教、そもそも日本人の性格なのか、それとも哲学としての仏教がそうであるのか、日本で神も仏も渾然一体となってしまう。それどころか儒教までも仏教に組み込まれてしまう。お仏壇に位牌、法事など、先祖供養に関する様々な習慣、実はこれ元を質せば皆儒教、もともと先祖霊などは仏教哲学と大矛盾、お釈迦様でもご存じあるまいと言うことか!

ここで、じゃあ儒教とはいったい何なのさ、と言う質問もおありでしょう。宗教の一種と考えている人も多いはずですね。正解は思想です。ですが、この思想というのがまた、やっかいです。民主主義思想とか社会主義思想とか言葉として使われますよね。儒教とは儒教思想なのでして、思想とは必ずその思想を具現化するための社会体制を持ちます。従って三権分立や自由選挙、婦人参政権のない民主主義思想の国家はあり得ないわけです。その儒教思想にもとずく国家を律令国家と呼ぶのですが、日本では飛鳥時代から10世紀の中頃まで成立しておりました。社会体制としては、耕作地を班給する土地制度(班田収授法)、個人を課税対象とする租税制度(租庸調)、人民に一律的に兵役が課せられる軍事制度(兵役、防人)、人民を把握するための地方行政制度(国郡里、戸籍、計帳)があり中央集権国家思想でした。世界の中で戸籍制度を持たない国家が多いのは、これでご理解いただけるでしょう。戸籍制度とは、儒教体制の一制度なのですから。しかし日本は厳密な意味での儒教国家ではあり得ませんでした。終始社会体制が伴っていなかったのです。その意味ではお隣の韓国は、いや歴史的に言うなら朝鮮民族は実にこの儒教思想に基づく国家経営の優等生、このあたりが日本民族を卑下する所以でしょうけれども。かつてもつとも進んだ儒教思想国家を形成していた朝鮮民族そして、それより劣った社会体制しか持たなかった日本民族がその国家を侵略した。日韓問題の根の深さは。このあたりが起因の一つでもあるかもしれません。いずれにせよ、後述するように儒教思想が、中国周縁国家に与えた影響は絶大なもの、夷(野蛮人)の地域を教化し文明を与え、国家と人民という概念を教えた。

儒教の中で日本人に一番深く影響を与えたものと言えば、誰でも知っているいわゆる四書五経中の「論語」実はこれは教育論でして、しかも進士のための教育論。現代風に言えば国家公務員上級試験合格者のための教育論でしょうか。いわば天子に代わり人民を統治するための教育論、これは懐が深いはずですよ。この論語が中世から明治に至るまで実際に庶民の隅々にまで浸透していった。特に江戸期の「寺子屋」と呼ばれる制度の果たした役割は大きいものでした。

結論的にこれが日本人の性格を形成するバックボーンとなった。教義を持たない神道でもなく、生活に根ざした宗教たり得なかった仏教でもありませんでした。宗教を持たない日本人とはこのことで、もちろん何らかの宗教に関係してはいるのだけど、その教義を受け入れ己の生活信条としているかというと別問題。では最初の命題からすると、宗教心無しで、モラルからなる人格を形成している、きわめて珍しい民族と言うことになります。そして日本人の言う道徳とは、ことごとく儒教、特に論語からきています。

アジアの中では、仏教国というよりは歴史的に儒教国家を形成した民族が、きわめて日本人と近い考え方をしているというか、そのバックボーの中に極めて同質の考えがある思います。本家中国、韓国、日本、台湾、ベトナム、シンガポール、これら皆かって儒教思想国家を形成した地域。思いませんか、この国々皆アジアの優等生。古代に儒教思想はその国の文明の度合いに、深く強い影響を及ぼしましたね。あとは同じ仏教国でもほとんど異質だと思います。民主主義国家として最も古い米国でさえ、その歴史はたかだか200年です。米国が力づくでも伝播させようとしている民主主義思想(歴史的に見て優れた文明とは、必ずこの伝播作用をもたらします)、まだまだ悠久の時間が必要と思われます。西洋民主主義思想にもとづく国々は、 時を経た後に、果たしてその時代で文明を形成する優等生たり得るのでしょうか。この辺、大いに興味がわくところです。

確かに東洋の思想の中には、西欧のそれとは違う大きな美徳があります。それは、他と調和して生きると言うことです。己を知り相手を知る、そして他者もまたよく相手を知る、このことからハーモニーが生まれます。それは一人ではなし得ない素晴らしい関係なのですが、なかなか難しい。このことは儒教思想に感化されている東洋人にとっても難しいこと、ロシア人には通用しません。

本質的に他者を理解するとは、どのようなことでしょうか。論理的にでしょうか、それとも感情的にでしょうか。そしてまた、理解したその先に、何があるのでしょうか。人にはそれが何人であろうとも、理解できないこともたくさんあり、また理解する必要のないこともたくさんあります。つまるところ、本質的に異質な存在であるものを抱き留められるかどうか、もし抱き留められるのならば、理解はもはや必要すらないかもしれない。ただその場合その存在に、不快感がないかどうかですね、それが相性というものでしょうか。ロシア人は非常に個が強い民族なのですが、この点異質な存在をあるがままに、抱き留める懐の深さがある民族でもあります。お互いの相性がよい場合、日本人とロシア人は、理屈抜きにみように合う場合が多々みられます。計画された時間軸の中で万事を進めようとする日本人、しかしそこから一端外れ想定外のことには自己を喪失しかねない日本人。そのときのロシア人の発想力の不思議さ、力強いことこの上ない。再度言わせてください、日本人とロシア人ある意味で相性がとても良い場合があります。