曲学阿世:真実を追求し、虚実の世間に迎合するようなことはしたくない。

真実を曲解し不正な情報によって世間の人々にこびへつらい、世間にとり入れられるような、ことはしたくない。

絶望の山に分け入り希望の石を切り出すということ

2015年03月25日 13時49分04秒 | 政治経済、社会・哲学、ビジネス、

                   

        「植草一秀の『知られざる真実』」

                       2015/03/24

 

  絶望の山に分け入り希望の石を切り出すということ

         第1109号

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人に感動を与える生き方というものがある。

人間は社会的な生き物である。

社会のなかで生きることを強制される。

その社会が、責任あるものかといえば、そうではない。

多くの人が、社会の目を背に受けて生きてゆく。

社会に認められたい。

社会で名を挙げたい。

多くの人が、社会の目を基軸に生きようとする。

しかし、その結果として、いつの間にか、自分が不在になる。

自分が何をしたいのかではなく、自分が社会にどのような姿を見せたいのかが
主軸になってしまう。

しかし、社会とは本当にそれほどの価値があるものなのか。

社会的地位を獲得することが人間の価値を決めることなのか。

社会が決める価値とは別に、本当の価値というものがあるのではないか。



しかし、人は弱い存在であるから、「社会」という得体の知れないものにすべ
てを委ねてしまう。

そして、その「社会」の目にすべてを奪われてしまうのである。

そのような「社会の目」、「世間の目」から超越して、自分を見つめ、自分の
心に忠実に生きる人々がいる。b

「社会」から注目されることも、「世間」から注目されることもない。

しかし、そのような「些事」には囚われない。

自分の心に忠実に、自分の価値判断に忠実に、生き抜く人々がいる。

ノーベル賞にしても、勲章にしても、賞をもらったから偉いのか。

同じ人間が、賞をもらったら偉くなり、賞を取れなかったら偉くないのか。

そんな「賞」にしても、しょせんは、同じ人間が選んでいるものに過ぎない。

「勲章」にしても同じ。

同じ人間が選んでいる。

「勲章」が欲しいがために行動する人が後を絶たない。

その「勲章」をもらったとしても、自分が変わるわけではない。

「社会の目」、「世間の目」を意識しているだけのことである。



昨日の中日新聞(東京新聞)『こちら特報部』が京大原子炉実験所を定年退職
する小出裕章氏を特集した。

2011年3月11日の東電福島第一原発の放射能事故が起きたために小出氏
が脚光を浴びることになったが、小出氏は、そのようなことにまったく関知し
ない。

自分の信念に沿った生きざまを描き、事故が起きたあとも、その生きざまをた
だひたすらに貫いている。

原子力の平和利用の言葉に夢を見て原子力研究の道を選んだ。

しかし、大学3年のときに、「原子力の平和利用」が誤りであることに気付い
た。

爾来、原子力の利用を断念させるために力を注ぎ続けた。

福島の事故が起きて脚光を浴びるが、そんなことにはまったく無関係に生き
る。

自分の内面の声にだけ忠実に生きているのである。

小出氏が原子力の平和利用を欺瞞だと断じるのは、原子力利用の構造が、本質
的に差別構造を内包するからである。

大都市の人口密集地に原発を立地しない。

過疎地に立地するのは、原発が潜在的に危険極まりない存在であるからだ。

原発事故が起こる前も、起きたあとも、原発の間近で、危険を背負いながら働
くのは、底辺の労働者だけなのである。

原発を推進する政治家は、原発のなかで働こうとしない。

戦争の構図とまったく同じである。

戦争を推進する人々は自分の身を必ず安全な場に置く。

戦場に送られるのは末端の名もなき兵士であり、戦争で犠牲になるのは罪のな
い市民なのである。



ものごとを評価する尺度を変えるべきである。

今だけ、金だけ、自分だけ

の価値観と、社会的評価、経済的利得だけを追求する生きざまは、重なる部分
が大きい。

本当の価値はそこにはない。

本当の価値とは、社会的栄達、経済的利得とは離れたところにある。



強者と弱者。

現実に強者と弱者が存在するのは事実である。

問題は強者と弱者が存在するなかで、それを放置するのか、それとも、共存を
図ることを目指すのか、の選択である。

生物界にも強者と弱者が存在する。

そして、弱肉強食の原理が支配する。

しかし、その弱肉強食は、神の摂理とも言える、自然の法則によるものであ
る。

この弱肉強食と人間界の弱肉強食とは異なる。

人間界の弱肉強食には際限がない。

自然界の弱肉強食は、神の摂理によるものであって、生存の目的を超えて、強
者が富を蓄積し、弱者の生存そのものを追い詰めることがない。

ひとつの調和のなかに弱肉強食が保たれている。



これに対して、人間界の弱肉強食は、とどまるところを知らない。

そして、その弱肉強食を追求する主体が、「資本」なのである。

「資本」は資本の論理に従って、際限なく利得を追求する。

そして、利得のためには、弱き者の生存そのものをも追い詰めるのである。

これが現代社会の特徴である。

産業革命によって人類の生産水準は飛躍的に拡大した。

自由放任による経済の運営は、「神の見えざる手」によって、調和につながる
と考えられた。

ところが現実には、自由放任の経済運営が貧富の格差の拡大、富める者と貧し
き者の格差を際限なく拡大させることが明らかになった。



20世紀に入って、この傾向が顕著になり、いくつかの恐慌の経験をも踏まえ
て、資本主義は本格的な修正の局面を迎えた。

この時期に、一時的にではあるが、貧富の格差が縮小、是正される局面を迎え
た。

20世紀的な価値観として、「生存権」なるものが提示され、結果における平
等という概念がクローズアップされることになったのである。

ところが、この流れは永続しなかった。

1980年頃を境に、経済の運営は、結果における平等重視から、再び、自由
放任の方向に大きく振り子を戻し始めたのである。

日本においては、2001年に発足した小泉純一郎政権がこの流れを前面に押
し立てた。

その後のサブプライム危機不況、年越し派遣村の教訓から、2009年に鳩山
政権が樹立されるととともに、この流れに対して、一時的に是正の動きが強
まったが、その是正は一時的な現象にとどまった。

菅直人政権、野田佳彦政権を経て、安倍晋三政権に至って、完全に、資本の論
理だけが優先される状況に舞い戻ってしまったのである。



社会的な評価、経済的な利得だけで、ものごとの価値を判断する浅薄な風潮が
一段と強まりつつある。

結果における平等を重視し、共に生きる、共生の哲学はいま、根底から否定さ
れようとしている。

こうした時代にあって、社会的評価、経済的利害と一線を画して、自己の内面
に誠実に生きる生き方が、改めて見直されるべきだろう。

そうした生き方の価値が、改めて見直されることになる。

多くの民は、権力とカネの力に流されやすいが、こうした時代にあっても、そ
の風潮に抗い、人間の内面を見つめ続ける生きざまを示す人物が少なからず現
れてくる。

そこに、大きな救いと、潮流転換の契機が潜んでいることだろう。



きれいごとを言っているのではない。

本当に大切なものは何か。

人類の将来にとって、価値あるものとは何か。

根源的な問いに対する答えが、そのなかから生まれ出てくるのである。

さまざまな利害が錯綜し、利害得失がすべてを支配しつつあるなかで、これら
を超克した、真に価値ある生きざま、価値観が人々の心を揺さぶるときが必ず
訪れると確信する。



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