日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
〇 デモクラTV「山口二郎のムホン会議」に出演して!
6月4日(土)午後、デモクラTVの「山口二郎のムホン会議―この選挙には行かなきゃだめだ!」の収録が、満席の全電通ホールで行われた。通常国会が会期延長なしに閉幕し、衆議院解散もなく衆参同日選挙なし、消費税増税もなし、安倍自公政権も能なし、という「ないない」づくしの政治状況が続くなかの集会。会場の関心は参議院の選挙がどうなるか、だった。
テーマは「市民の選択」ということで、早野透氏・山岡惇一氏と同席のトークだったが、山口二郎コーディネーターの問いに、私が答えた要点を紹介する。
(次の参議院選挙の意義は何か!)
平野と申します。よろしくお願いします。先ほど、金子勝教授が「アベノミクス幻想の先に」でお話しされましたが、実は、金子教授とは10年ぶりにお会いし、大変お世話になったお礼を申し上げておきたい。
小泉純一郎政権による郵政解散の時期、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演した時、私が「小泉首相は一度、病院でよく診察してもらったほうがよい」と放言したことがありました。自民党側の国会議員や応援団が大騒ぎとなり、困っていたところ金子教授が小泉政治の問題点を具体的に指摘して押さえてくれたことがありました。
さて、7月10日の参議院選挙の意義ですが、共産党が提案した野党協力がどこまで成功するか、1人区では全選挙区で統一候補として協力が成功しました。問題は比例区で「民進・社民・生活・市民団体」のオリーブの木が成功するかどうかです。成功すれば野党側が多数を得ることができます。
この共産党の変化は、明治以来126年間の日本議会史上、歴史的なことで、議会政治体制で孤高の存在であった日本共産党が、体制内政党として真の民主政治の確立に役立つと期待しています。今回の選挙の結果に関わらず、これまでの国会の質的変化があると思います。
(参議院選挙の見通しをどう考えるか!)
安倍首相は「参議院選挙でアベノミクスや消費税増税再延長等の施策について、国民に信を問う」と公約した。そして獲得議席目標を「改選議席(121)の過半数(61)を与党(自民・公明)で確保すると公言した。これは61議席をとれなければ責任をとって辞めるという意味である。「参議院選挙で信を問う」という言い方はわが国の議会史上初めてである。
民進党が比例区統一名簿(オリーブの木)に参加すれば、確実に安倍首相の公約61議席を減ずることができる。それなのに、民進党の執行部が未だに決断できない。連合でさえこのままでは敗北と、〝オリーブの木〟の実現を要請しているようだ。これが実現するか否かにすべてがかかっている。
共産党の変化による日本の議会政治の質的変化を大胆に予測すれば、後2~3回国政選挙を行えば「自公政権」は崩壊するところまで見える。民進党が反省して進化しないなら、自民党より先に破綻すると思う。
(「角栄ブーム」について)
田中角栄は、今の「ブーム」を誉め殺しと怒っていると思う。誰が、何故、田中角栄を葬ったのかこの検証が必要だ。「角栄」という政治家は戦後の民主憲法でなければ出現しなかった天才政治家であった。彼は「天は貧しさを憂わず等しからざるを憂う」という信条で、日本人全体を豊かにすることを理想とした。アベノミクスの〝トリクルダウン〟などを嫌い民衆中心の政治を目指した。故に、保守亜流の自己中心の政治勢力と検察権力らがロッ
キード事件を利用して田中角栄を葬ったのだ。民衆のための政治を実現する勢力を排除するのが日本政治の特質だ。古くは、坂本龍馬の暗殺に始まり、新しくは小沢一郎の〝陸山会事件〟である。どのように角栄が葬られたのか、その真相を、7月上旬『田中角栄を葬ったのは誰か』を出版する。たった今、そのゲラが届いたばかりだ。(壇上からゲラを紹介)
(参議院選挙で野党協力が勝つためには!)
安倍首相は「アベノミクスを拡大し加速する」と、入院を必要とする放言を行った。これに対し、野党側も憲法学者も、そして経済学者も勉強不足だ。立憲主義を壊しているのは安保法制だけではない。「金持ちのおこぼれで貧しい人は生きろ」とする思想のアベノミクスは、『生存権』という基本的人権を冒涜する憲法問題と主張すべし。
〇 私の「共産党物語」 7
(議会政治の体制内政党化に苦悩する共産党)
昭和49年9月、前尾衆議院議長と与野党国対委員長がニュージーランド国会議長の招きで訪問が決まり、共産党が初めて公式に海外派遣に参加することになる。この時、ニュージーランド国会議長の晩餐会で、村上共産党国対委員長が「日本国天皇陛下のため」に乾杯したと、楯社会党国対委員長がマスコミに漏らし、報道されたことを前回話した。
怒った村上共産党国対委員長が「平野議長秘書がマスコミに漏らした」と、私は国会の共産党控え室に呼びつけられた。その時の村上国対委員長の話に、議会政治体制内に入ろうとする共産党の苦悩がわかる。村上国対委員長は、「オレが英語を知らんと思って、ニュージーランド国会議長が〝天皇陛下のために乾杯〟といったのを、〝日本国民のため〟と通訳させたことはその時わかっていた。平野議長秘書の知恵で、オレに気を遣ってくれたと思って黙っていたのだ。それを帰国してマスコミに共産党を冷やかすように漏らすとはなにごとだ」
「週刊誌の報道を重大と思って、議員団全員に確認した。楯社会党国対委員長が記事にしない条件で話したとのこと。共産党としても立場があろうから楯さんに抗議して欲しい。これからも国会の国際交流で起こりうる問題なので、前尾議長に話して各党間で協議してもらいたい」と私は釈明した。
この問題は、前尾議長が「議員団のご苦労会をやろう。そこで反省会を兼ねてこれからのことを話そう」となる。10月中旬、『文藝春秋』が「田中角栄―その金脈と人脈」を報道して日本中が大騒ぎしている時期、ホテル・オークラの中華料理店で議員団のご苦労会が開かれ、楯社会党国対委員長が村上国対委員長に謝り幕を閉じた。以後、国会の公式国際交流で外国議会代表が「天皇陛下のため乾杯」と発生した時、そのままに通訳をすることになる。40数年前共産党が議会政治体制に入ろうと苦悩していた。
(共産党が要求した「棄権の権利を国会法に明記せよ」の顛末)
前尾議長の国会正常化の提唱で始まった「議会制度協議会」の本格的論議が続くなか、昭和49年12月、田中元首相が金脈問題で退陣し、三木武夫首相が後継となる。共産党はこの時期、創価学会との間で「共創協定」を極秘裏に詰めていた。一方で国会運営の改革に積極的に提言を行うようになる。その中で代表的な改革論に「棄権の権利を国会法に明記せよ」という要求があった。
当時、衆議院では「表決権は、これを放棄することができる」という先例が確立していた。これが「棄権」のことで、「棄権」そのものは議員の判断で行うことができた。但し、その場合には表決の基礎数となる「出席議員数」には入れなかった。入れるとなると「棄権」が常に反対と同じ効果になるからである。
共産党が「棄権の権利を国会法に明記せよ」というのは、表決の基礎数となる出席者に入れるということになる。一見、最もらしい主張と思えるが、背景に重大な問題がある。何故、共産党が「棄権の権利」を主張するようになったのか。それは昭和40年代後半からの「愛される共産党」の国会運営版である。政府が提出する法案のなかで、社会政策や福祉に関わるものに賛成できる内容のものが増えてきた。
支持者を拡大するため部分的に賛成だが全体の趣旨には了承できない。といって反対すると「何でも反対の共産党」との批判を受ける。これまで「棄権を表決権の放棄」として取り扱ってきたことを改革して「棄権を表決権の一種」として、国会法に明記すべしという主張だ。
その論証に、例えば国連や国際会議では「棄権」が権利として認められている。討論で棄権の理由を発言できるし、多様な意見を表示することで議会政治が活性化するのではないか、と共産党は議会制度協議会で主張したのである。
実は、この理論は昭和45年に不破書記局長が出版した『人民的議会主義』のなかで、レーニンの指示として「一律何でも反対式の態度をとらず、よく分析して、それによっては『棄権』あるいは『賛成』もありうる」と紹介していることを根拠にしていた。
これに対し、私が「この論は、レーニンの議会理論を誤って引用している」と、共産党の東中議運理事に反論したため大騒ぎとなる。
(続く)