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劉公島旗頂山二十八糎榴弾砲砲台(陣地)

2018-05-17 15:26:28 | 旅行
現在の旗頂山砲台景区口径:28㎝全長:3440㎝(12倍径)重量:10,870㎏(砲身の重量 ,砲架、付属品等を含まれず)中心旋回砲架 製造業社:クルップ
開発社:クルップ)威海衛要塞は1887年から北洋海軍基地の防務建設して着工、1894年の日清戦争勃発するまで永続的な海防、陸防砲台が14座を建設する。ドイツのクルップ、イギリスのアームストロング、中国江南製造局の12㎝から28㎝の各口径の要塞砲の計46門が配備された。
威海衛防務工事は完全に竣工しなかった。特に陸防の面では不足している。その為、劉公島外の陸防の要項によって複雑数の臨時砲台を増設し、防務を強化する。劉公島の最高峰は大頂子(後旗頂山)砲台を建てた。劉公島の中央部に高場営砲台が建設された。劉公島東部に東泓砲台、火砲の陣地等が樹立された。
1894年8月30日 大頂子(後旗頂山)砲台工事が行われ始めます。設計者はドイツ人ハンナゲン氏です。1895年2月17日、日本軍が劉公島に占領された。日本国民新聞社戦場特派員古谷久綱氏の記録に寄りますと:"全島は皆山、その最高峰の海抜は“300尺高くして”、1本の道だけが山頂に通達して、その危険度は言葉にしては成リません。此処の砲台工事が建設中で、四つの砲位は開削して完成しました。鉄板、石塊等は此処に運ばれた。二門の二十八糎の榴弾砲が山頂を横切る。この砲の威力によって5000メートルの射程が下りると、軍艦甲板(カンパン)を撃破して船腹を貫い(ツラヌ)ている。"
旗頂山の臼砲(きゅうほう)は極端に肉厚で短い砲身が臼に似るコトから同種の砲がMortarと呼ばれるように成り、訳されて中国語では「臼砲」となった。その大口径(コウケイ)と砲身形状から一般的に臼砲に分類されることが多いが、原型となったクルップ社の砲は280mm榴弾砲と名称し臼砲ではなく二十八糎榴弾砲明示しております。
1895年5月 6門臼砲(榴弾砲)は戦利品として日本千代丸号によって劉公島から日本の佐世保に運送された。
清国の28糎榴弾砲は日清戦争に実戦投入されずに何も貢献しなかった。けれども、日本軍は28糎榴弾砲の火力を発揮し、日露戦争に大きな立役者として活躍した。清国の洋務派は明治の日本と比べて甲鉄軍艦、クルップ大砲、新型機関銃、新型歩兵銃等をどんどん購入します。明治の日本は全面的な西洋文明を学んで西洋武器の技術を取り入れて最大の機能を発揮して戦争勝利を収めた。イギリス海外領威海衛時代、劉公島要塞センチュリオン(HMS Centurion)砲台に設置された信号旗台により旗頂山と旗頂山砲台 の名の由来に成ります。
センチュリオン砲台センチュリオン戦艦はイギリス皇家海軍中国艦隊旗艦であります。旗頂山砲台東西2部円形砲台はイギリス皇家海軍により作られた。その他の2部砲台は解放軍により作られた。軍事禁区時代の旗頂山砲台はMK22型7.62センチ艦砲4基が設置された。二次大戦時代 MK22型艦砲はアメリカ製のものであり、アメリカからソ連に援助を与えた艦砲であります。中国海軍博物館に収蔵されたMK 22型76.22センチ高平両用艦砲であります。これは練習用の艦砲であり、実戦する事が出来ません。90年代復元されたクルップ24センチ大砲であります。

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