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ある船乗りの句 1

2009年08月21日 | Lady Go!
港々に女はあれど、あの人思えば目につかづ

ボクがまだ小学生1,2年生の頃、漁港が比較的近かったせいで(とはいえ、クルマで30分はかかったが)我が家は、小さな旅館を営んでいた。
当時、旅館の営業許可があったかどうかもあやしいが、とにかく客間があり、母はお膳を出していた。
旅館と言ってもそんな気のきいた建物ではなく、1階が玄関と家族の住居、2階が客間になっている中途半端なものだった。
祖父は地元の銀行の支店長だったから、資金に困ることはなく、大家族が結婚を機にひとりひとり出ていく度に部屋が余り、
それならと、今でいうリフォームして、宿泊客が入る器に設えていったのだ。
2階には、4畳半と6畳間がそれぞれ3部屋ずつあり、なのにせいぜい2部屋くらいしか、客は入らなかったと記憶している。

細長い一軒家なのに、両端に階段があり、よく鬼ごっこをすると家の中を上下周回できた。
さらにトイレが上下階にあったが、子供のころはそれが当たり前だと思っていた。

宿泊客のほとんどは、関西以南から、沿海漁業で北上しつつ、鳥羽か伊勢に立ち寄った船員だった。
別に、旅館街でもない地域で我が家に泊まる客がいたなど、今でも不思議である。
まあ、民宿レベルだからたいしたもてなしをするわけでもなく、祖母や母が夕飯を座敷に運んだ。

はっきり覚えている記憶は、九州からやってきた漁師で、真っ黒に日焼けしたいかつい男が泊まっていたことだ。
晩酌をしながら、大声でしゃべり、歌う陽気な男で、伊勢にはほとんど見かけないタイプだった。
なぜか痩せた青白いこのボクをあぐらをかいた大きな膝の上にちょこんと乗せたまま食事するのを好んだ。
当のボクは恐れおののき、にこりともせずに大男の膝の上で固まっていたように思う。
何の余興もない(テレビさえもなかった)部屋でボクはまさにペットだった。
幼い我が子をそんな場所に、放置する親も親だが、もしかすると、その漁師は九州に置いてきた
我が子をそこに映し出していたのかもしれない。

料理が下げられると、最後は酔って大の字になった漁師の横でボクも寝てしまった。
宿泊客との変な関係である。

<続く>
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